宵虹――――陰虹
暗い。
バージルは暗闇の中で目を覚ました。目は開いているのだが、何も見えない。一切の光源が
ないのだと、すぐに判った。同時に、死んだのではないということも、唯一の音である鼓動が
教えてくれる。疑問は、ここはどこなのかということだ。
意識のはっきりし始めた頭で、記憶を辿る。現在時刻は判らないので、感覚としては昨日、
ユリアとの婚礼の儀式を済ませたところだ。そしてその宵に、とてつもなく巨大な海鳴りが
城を――――国を襲った。小さな国だ。ひとたまりもなかっただろう。
辿る記憶はたったそれだけ。そしてバージルはここにいる。どういうわけだか、まるで
判らない。
バージルは海鳴りに飲まれた。それは確実だろう。が、死ななかったのは幸運と言うべきか、
どうか。父と母は、と案じるよりも、バージルは挙動のおかしかったダンテのことをまず思った。
(どこに、)
腕を伸ばして周囲を探るが、ダンテらしきものはどこにもいない。不安が募った。
(……不安?)
何故、不安などに思うのか。ダンテは海から来たいきものだ。ならば海鳴りに飲まれたと表現する
よりも、そのまま海に帰ったと言ったほうが正しいのだろう。手許にいないのは当然である。
しかし、
(不安……では、ない。これは)
どこかが欠けたような気分だ。言うなれば空虚か。慣れない感覚を言葉にするのはどうにも
難しい。腹立たしいのと少し似ているかもしれない。
どうしてそばにいないのか。
自分がどこかも判らぬ場所にいることよりも、考えることと言えばそればかりだ。ダンテは何故、
この腕の中にいないのか、と。
いないほうが実は自然であるなどとは、バージルは欠片も思わなかった。海辺であのいきものを
拾い、ダンテと名付けたあのときから、あれはバージルのものになった。だから、そばにいないのは
間違いなのだ。海に還るなど、もっての外である。が、事実、ダンテは彼のそばにはいない。
「何故」
思いがけず声が出た。それも当然のことだけれど、何故か、無音であるほうが当然なのだと
思っていた。自分の声がやけに煩く反響する。狭い洞にいるのかもしれないが、やはり場所の
特定は出来そうにない。
知らずため息が漏れた。その時、
「気分はいかがか、殿下?」
暗い、しかし通りの良い声が響いた。だが先刻の自分の声と違い、反響しないのは何故なのか。
バージルが答えずにいると、声がまたどこからともなく呼び掛けて来た。
「此処が何処か、気になるようだ」
くつりと嗤う。バージルは眉根を寄せた。
「貴様の仕業か」
誰何を、声はうっそりと否定した。
「否。私は見ていただけだ」
「貴様は誰だ?」
また、声がくつりと嗤った。バージルはむっとした。
「何を笑う」
「誰か、など答える必要があるとでも? あぁ、しかしお前にはこう答えるべきかもしれぬな。
――――私は、お前が拾ったいきものに脚を与えたものだ、と」
「な、」
目を瞠ったバージルの視界に、薄く光が見えた。はっとしてそちらを注視すると、何かに
反射してきらきらと輝いているようだった。水があるのだ。バージルの足許からいくらも離れぬ
ところに、海の切れ端がある。信じられぬ程静かだ。異常な凪。
「ここは、」
バージルは不意に思い至った。ここはバージルがダンテを見つけた洞ではないのか。
バージルの思考を読んだように、声が言う。
「此処はお前があれを拾った場所に相違ない。お前は生きて、此処に流れ着いた……と言いたい
ところだが、それは違う」
「どういうことだ」
「察しが悪いな。お前を此処に運んだものがいる、ということだ」
悪し様に言われ、またバージルの眉間に皺が刻まれる。声はいっこうに頓着した様子はない。
「睨むな。その愚鈍さは承知の上だ」
「貴様、」
「愚かなお前に教えてやろう。お前を此処に運んだのはあれで、あれを殺したのはお前だ」
暗い声は淡々と告げる。バージルはその言葉を理解するのに、数秒を要した。あれ、とはダンテの
ことだろう。ダンテが自分をこの洞に運んだ。そして。
そして――――?
「殺した? 俺が、ダンテを?」
バージルの当惑を、声はいかにも愉しいと言わんばかりに嗤った。
「ダンテ。そうか、そう名付けていたか。それは、それは」
くくっと響く嗤い声は不愉快極まりない。
「貴様、その名を知っているのか」
「知っているとも。知らぬ筈がない」
声は誑かすようにバージルの耳に囁いた。
「ダンテ。そしてお前がバージル。二つの名の意味するものは、呪いだ」
バージルは目を見開いた。光は先刻よりも広がりを見せ、洞の半分程を照らしている。しかし声の
主は見えない。ここにはいないのかもしれない、とバージルは漠然と思った。
「呪い、」
「大した呪いではないさ。お前の国に、ある期間ごとに双子が生まれるというささやかなものだ。
双子はそれぞれ、兄をバージル、弟をダンテと名付けられる」
呪いとは呼べぬだろう、と声はくっくと笑った。確かにそうだ、と訝るバージルに、声は
続けた。
「お前には弟がいた。これの名もダンテだ。が、五つの年に死んだ。そうだな?」
真偽を問うのではなく、確認する為の問い。バージルは黙って頷いた。弟は死んだ。だが、
それを何故この声が知っているのだ。
「双子の弟は海に取られて死ぬ。必ずだ。例外はない」
「それが、呪いか。だが、何故双子なんだ? 双子の片割れを死なせる為の呪いなど、何の
意味が……」
「死なせることが目的ではない。呪いの意味はその一連の事象そのものにある。……古い話を
してやろう」
かつて為政者によって別離を強いられた双子があった。彼らは互いに互いを必要とし、生まれ
落ちて以来片時も離れることなくときを過ごした。彼らの暮らす国には海しかなく、海とともに
生きるより生活の手段はなかった。漁をする者、海を渡り交易をする者。誰もが海に出、そして
海で死んだ。海に出ぬ者は造船に携わった。
彼らの生業もまた、特殊ではあれ海――――厳密に言うならば船――――に携わるものだった。
兄は帆船には欠かせぬ風を読み、弟は気候や方角を星から読んだ。彼らは二人で一人。
どちらが欠けてもならなかった。
発端は、時の為政者が双子の弟を気に入ってしまったことにある。
王は双子の片割れを城に召そうとした。が、双子の兄が王の要求を是としなかった。王が弟を、
己の小姓にするつもりであると気付いたからだ。
頑として要求を飲まぬことに業を煮やし、王は強行手段に出た。双子の片割れを奪い、塔に閉じ
込め屈強な兵に見張らせた。
「此処までは、お前も知っている通りだろう」
バージルは頷く。子どもでも知っている昔話だ。バージルも幼い頃、よく母に聞かされた。
――――閉じ込められた弟は、決して王に跪くことはなかった。兄を想い、そして海を想った。
片や兄は、弟を奪った王を恨み、国をも恨んだ。弟を奪われて以来海に出ることの絶えた兄が、
海へと赴いたのはたった一度。
「それは彼ら双子が死んだ日だ。厳密には、弟が先に海に身を投げたのだが」
悲嘆に暮れてもなお海を望むことをやめなかった弟は、兵を説き伏せ塔からの脱走に成功した。
しかし兄の許へ駈ける前に王に気取られてしまい、彼は海に臨む崖にようよう逃げ延びた。無論
それより先に逃げ場はなく、しかし彼はあえて崖の上を選んだのだ。
双子というものは何かしら同調しているいきものらしい。兄が何ごとか感じて駆け付けたまさに
その時、弟は海に身を投じた。
弟を奪われた兄は、その場で王を殺した。そして弟を追って自らも海に身を投げたのだ。
「人間の恨みは深い。呪詛は水底にまで届いた。聞き届けたのが、私というわけだ」
差し込む光はついに洞を包み、声の主を照らし出した。その姿を見て、バージルは片目を眇めた。
似ている。歳こそ違うが、自分に。そもそもこの男――――だろう――――の実年齢は見た目では
計れない。男の話を信用するなら、昔話の時代から生きていることになる。……海の底で。
「貴様は、何者だ」
「言っただろう。私はあれに脚を与えたものだ」
男は秀麗なおもてに笑みをはいた。
「水底で、私は人間の望みを聞いた。そして望み通り、双子の生まれた国に呪いをかけた。
この姿ともう一つを代償にして、な」
「代償、」
「そう、それが“ダンテ”だ。海に身を投げた双子も、兄をバージルと言い、弟をダンテと言った。
その初めの“バージル”の弟は、私の手許に辿り着いた時には魂のない入れ物になっていた。
故に入れ物だけを手許に残した。長じてそれがお前に魅入られることになるとは、大した皮肉だと
嗤ったものだ」
ダンテが、代償。そして自分に魅入られていた。わけが判らない。男の手許にあったのは、
入れ物ではなかったか。
「呪いによって、ダンテは必ず私の許へと引かれて来る。私はダンテの魂をいくつも集め、繋ぎ
合わせるように入れ物へ込めた。工作をしている気分だったよ。そうして永い時を経て仕上がった
ものが、お前の拾った“ダンテ”だ」
「作った、というのか、ひとを」
「あぁ。いや……ひとではない。海で暮らすならば鰭が要るだろう? 少しだけ入れ物にも手を
加えたよ。脚は、海にいる限りは必要のないものだ」
自分の作品を自慢するかのような、愉しげな声、表情。バージルにとっては不愉快なばかりだ。
「あれはお前の弟であり、弟ではない。ダンテの名を持つ者は皆、呪いによって一人の“ダンテ”と
なって私に支配される。国が滅ぶことはない。だが罪は消えぬ。かつての王の愚行を、双子が
生まれるたびに突き付けられる。それは不愉快なことだろう。ほんのささやかな呪いだ。双子の
二人ともを海に取られることはないのだからな」
何でもないことのように男は言う。バージルには呪いの内容などどうでも良かった。問題は、
弟を奪ったのがこの男であることと、“ダンテ”が作られたいきものであること。いや、作られた
いきものであること自体に問題はない。その一部に、弟が使われたことだ。
「ダンテはどこだ」
「言った筈だ。お前が殺した、と。折角の人形だったが、これも予想通りの結果だ」
「あれを殺したのは貴様ではないのか。その為の呪いだろう」
詰問する。本当は掴み掛かりたいところだが、脚がひどく重くてそれどころではなかった。
男は嗤う。
「あれは海の泡となって消えた。魂も、躰も。あれ程、忠告してやったというのに聞きも
せず……」
男の表情に、初めて影がさした気がした。しかしそれは一瞬のことでしかなく。
「話は終わりだ。城へ戻るが良い」
男は言うなり立ち上がった。霧のような靄が男の躰を包んだかと思うと、そこにはもう、誰の
姿もなくなっていた。そして靄はバージルをも包み込む。
次に目覚めたとき、バージルは見慣れた寝台の上にいた。夢、だっただろうか。あまりに
現実からかけ離れた出来ごとだった。実際、あれ程の海鳴があったというのに、寝台から出て
窓から外を眺めても被害らしい被害は見受けられない。城もそうだ。窓硝子にはひび一つ
なかった。
(呪いなど、あるものか)
バージルは頭を軽く振り、そうしてはっとした。ダンテがいない。寝台を振り返り、部屋を
見渡すがダンテはもちろん、バージル以外の誰もいない。男の呪わしい声が蘇る。
「俺が、殺した……?」
茫然と、立ち尽くした。
おそろしく面白くない会話だけの文章に仕上がりました。
物凄い挫折感…でも魔女ならぬ魔男バージルは出せたので、目的1は達成。
[07/6/11]