宵虹ヨイノニジ――――暁虹アカツキノニジ











意味もなくぼんやりとしている時間が増えた。以前なら有り得なかったことで、おかしいという 自覚もある。しかし気が付けば、どこでなりと足を止め、或いは手を止めてぼんやりとしている のだ。
何を考えているということでもない。完全なる無意識にしていることで、だからこそ治しようが なかった。

「あなた、」

柔らかな声に、バージルはふっと我に返った。まただ、と思いため息を吐いて顔を上げると、 ユリアが困ったように笑っていた。

「済まない。話の途中に……」

ユリアはそっと首を左右にして見せた。気にしていない、ということではなく、もう諦めている のかもしれない。それ程、バージルがぼんやりとして頻度は高かった。

「それで、どうした」

話の続きを促すと、ユリアはちょっと瞼を伏せるようにした。

「……いいえ、大したことではありませんから」

言うか言うまいか惑い、口を噤んだようにバージルには見えた。

「ユリア、」

「本当に大したことじゃありませんから、その、気になさらないで?」

そう言って微笑まれては、追及もしにくくなる。バージルは肩を竦め、そうか、と呟いた。 そうするとユリアは、何か寂しそうに笑うのだ。こんなふうに会話が終わってしまうことも、 少なくなかった。
バージルは自分から話をする人間ではないし、ユリアにしてもお喋り好きな女性ではない。 同じ部屋にいても沈黙だけが続くことは珍しくもなく、結局ユリアと共にいるのは食事時くらいの ものでしかない。
夜は、別々に過ごしている。共通の寝室は設けてあるけれど、そちらを使うことはめったにない。 婚儀を済ませて以来、約半年、同衾したのは片手で足りる程度だ。

ユリアが音を立てずに椅子を立った。

「お茶を淹れて参りますわ」

そっと微笑むユリアは、どこか儚い。物静かな女性であるだけに、いっそう儚げな印象が 強かった。
ユリアの出て行った扉を見つめ、バージルは目を細めた。ユリアは仕合わせなのだろうかと、 ふと思うことがある。おそらく仕合わせではあるまい、とその度に即答してしまえる程度には、 バージルは彼女に幸福を与えられていないという自覚があった。そもそも、人を仕合わせにする 方法など、バージルはまるで知らない。義務のような感覚でユリアと妻として娶ったものの、 いざ夫婦となってしまうと戸惑いのほうが大きくなってしまったのだ。

彼女がバージルを慕っていることは確かなことで、しかしバージルには、彼女の思いを受け 入れることも撥ね付けることも出来ずに持て余している。こんな感覚を、バージルはこれまで 味わったことがなかった。
ユリアを思うとき、バージルはつられるようにあることに思いを馳せる。それを、バージルは 忘れようとして、しかし出来ないでいる。持て余している、と言って良い。一日で、それのことを 思わぬ日はなかった。

半年、だ。

たかが半年とも言えるが、もう半年、という言い方も出来る。半年しても、あれのことを 忘れられぬ自分自身こそを、バージルは持て余しているのかもしれなかった。

あれ――――ダンテと名付けたもののことは、今にしてみれば真昼の夢のようだったと思う。 現実であると判っているが、あまりにも現実味が薄いのである。もっともただの夢ならば、 こうも長く引きずることはないのだろうけれども。
ダンテ。その名はあれが消えた今もふとしたときに囁いている。声には出さず、口の中で 確かめるように呟き、そうしていつも苦いものを嚥下する。ダンテの記憶は夢のようではあるが 鮮烈で、そして苦いものだった。
ダンテを拾ったことは悔いてはいない。自分以外の誰ぞに拾われていたことを思えば、あの夜の 偶然が奇跡のようでもある。そう、もしダンテが違う誰かに拾われていたなら、と思うだけで、 得体の知れぬどす黒いものが心に広がるようだった。

かたん、とささやかな音がして、ユリアがトレイを手に戻って来た。茶などは使用人に 淹れさせれば良いとバージルは思うのだが、ユリアには少しばかり拘りがあるらしく、必ず 手ずから淹れるのである。

「お待たせしました」

ふんわりと微笑するユリアは、可愛らしいと言うべきなのだろう。しかし女性を賛美する為の 語彙をほとんど知らぬバージルには、ユリアに可愛いと言ってやることすら出来ない。女性にも 何にも興味のなかったバージルには、物ごとの基準というものがそもそもないのである。
美しいものとはどんなものか、可愛いとはどんなときに思うのか、総ての感覚が、バージルには 足りない。ただ、ユリアが器量の良い女なのだろうとは、思う。母もユリアを気に入り、何くれと 世話を焼いているのをよく見掛ける。父は、そんな妻と嫁の姿を微笑ましく見つめている。

良い、妻だと思う。しかし、持て余してしまうのだ。

ユリアのことを大事にしたいと思う。けれどどうすれば良いのかが判らなくて、伸ばしかけた 手を引っ込めてしまう。もう半年、そればかりだ。そしてやはり、その都度ダンテのことを思う。

大事にしてやれば良かったのだろうか。否、大事にしていたと思うのだけれど、足りなかった のかもしれない。ダンテが消えた――死んだ、とはいまだに考えられない――――理由を、 バージルは知らない。
あの日のことは、それこそ夢だったのではないかと思う程に現実味がなかった。しかし現実に、 ダンテはいなくなっていた。あの後城中を捜し、街に出、ダンテを拾った浜辺にも行ったが どこにもその姿を見つけることは出来なかった。

言葉を知らない、海から来たいきもの。脚にところどころ鱗を残した、不思議ないきもの。 ――――人魚にされた、元、人間。海に取られて死んだ、バージルの半身の、一部分。 ユリアとの婚儀の日、泡のように消えてしまった大事な――――。

(大事な、何だ?)

バージルはユリアの淹れた茶をひと口含み、続けざまにもうひと口飲んだ。

「……旨いな」

言ってやれば、ユリアが嬉しそうに顔を綻ばせる。バージルは目を細めた。 よく笑う――――それがどんな意味のものであれ――――ユリアを見ていると、どうしても ダンテのことを思い出さずにはおれない。
似ているとは思わない。しかし何故だか、思い出してしまう。

ダンテはあまり笑ったことがない。バージルがダンテにしたことを鑑みれば、それも当然の ことかもしれないが、だからこそ、もっと笑った顔を見たかったと今になって思う。
バージルはダンテを犯し、愛玩する為だけに部屋に閉じ込めた。本当なら、ダンテはもっと 抵抗して然るべきだったのだ。しかしダンテはひどく従順で、バージルの理不尽だっただろう 蹂躙にも全く抗うことをしなかった。それが何故なのか、バージルは考えたことがなかった。 ダンテを蹂躙し、支配して、ある種の充足を得ていたように思う。――――愚かにも。

たった半年前のことを、遠い日のことのように思うのは馬鹿らしい。今、――――もし今ダンテが ここにいたら、もっと違った接し方が出来ただろうか、などと。

(詮無いことだ)

茶を飲み終えると、バージルは自室に引き取った。ユリアが何か言いたげにしていたようだった が、それはいつものことで今に限ってのことではない。

自室は、半年前と変わらぬ場所にある。変えてくれぬよう言ったのはバージルだ。
部屋に戻ったからといって、何をすることがあるわけでもない。ただユリアと顔を突き合わせて いると、どうにも自分自身が不甲斐ないものに思えてしまってならなかった。

どうすれば良いのだろう。どうすれば良かったのだろう。総てが丸く収まる方法は、なかった のだろうか。

(……何故だ? ……)

何故ダンテは消えたのか。消えなければならなかったのか。いつもそこに立ち戻る。

おまえの所為だと言われた。そんな馬鹿なと笑い飛ばした。が、ダンテは確かにいなくなり、 残ったのは見たことのない短剣が一振りだけ。それがダンテのものだという確証はないが、 それ以外には考えられなかった。
婚儀の日、海鳴りとともに姿を消したダンテ。得体の知れぬ男の言葉。寝台のそばに落ちていた 短剣。――――ダンテは、死んだ。

バージルはダンテの残した短剣を机の引き出しから取り出し、じっと眺めた。鞘を払い、 現れた刀身はどことなく禍々しい。何も身に着けていなかったダンテが、どうしてこんなものを 隠せていたのかは判らない。しかしバージルは短剣を拾ったとき、ダンテのものだ、と直感した。

(これで、)

刺すつもりだったのだろうか。ダンテが、バージルを。だが、何故? そうする理由が、 必要性がどこにあった?

(……恨んでいたのか、俺を)

そうではない、と否定出来るだけの根拠を、バージルは持ってはいなかった。
どうすれば良かったのか、答えをくれるものはない。

窓から臨む海は、穏やかに凪いでいる。港に浮かぶ船は帆を畳み、風を待っているふうだ。
変わらない、風景。変わったのは、バージルだけなのだろう。いや、バージルの周囲と言う べきか。

どうすれば良いのか。どうすれば良かったのか。

答えが見つかるのかすら判らなくて、バージルは途方に暮れる。

ぱしゃん、と何かが水に跳ねる音がした。おかしな話だ。ここには水差しがあるだけで、 何かが跳ねる音などしよう筈もない。しかしまた、ぱしゃん、と。
それは海から聞こえる音であるらしい。見やれば、程近い――――しかし沖合の水面に、 小さく飛沫が跳ねている。

魚にしては大きい、尾びれが――――。

(あぁ、――――)

大事にしてやりたかった。大切にして、そうして。

愛してやれば、良かった。














ただいま、と小さな声が耳に届く。ふわふわと踊るように駆け寄ってくるものを、男は笑みを 浮かべて手招きした。

「面白いものでもあったか?」

椅子に腰掛けた男のそばに座り、男の膝に手を乗せたそれは、にっこりと破顔した。

「陸にさ、でっかい城があったよ。あんなとこに住んでる奴って、どんな気分なんだろうな」

「住んでみたいか?」

「え? うーん……、判らねぇ。別にここが嫌ってわけでもねぇし」

首を捻りながら言うそれの銀髪を、男はくしゃりと掻いた。それが猫のように目を細める。

「海から顔を出すのも良いが、誰にも見られぬようにしろ」

「判ってる。大丈夫だよ」

いや、大丈夫ではない。そう言って人間と顔を合わせ、魅入られたものがいたことはまだ記憶に 新しいのだから。

(あれは失敗作だった)

しかし、“これ”ではもう間違うまい。

「おいで」

脇に手を差し入れ、膝の上に抱き上げてやる。抵抗もなく膝に乗ったそれの、肩口に顔を埋めた。 透けるように白い膚を吸ってやると、それはぴくりと躰を震わせる。
男はそれの膚に唇を触れさせたまま、ひっそりと笑んだ。



















次?
戻。


童話編『宵虹』はこれで完結です。
これまでお付き合い下さいまして、ありがとうございました。

[07/6/23]