宵虹――――月虹
婚礼の日。バージルは白い礼服に一分の隙もなく身を包み、静かに窓辺に佇んでいる。今日の
式より妻となる女性はまだ仕度に追われており、バージルは顔も見ていない。まぁ、式の前に顔を
見たからと言って、何になるわけでもないのだが。
ちょっと肩を竦めた。卓に置かれた水差しを見やり、飲むか飲むまいか少し迷う。喉が渇いて
いるのは確かだが、あまり水分を取って式の最中に用を足したくなっても困る。そんなことには
ならないだろうが、念の為という言葉もある。
水。ふと思い出す。妙に体温が高くなっていたあれに、水差しの中身を頭からかぶせてやった。
突然水を浴びせられ、驚き顔で見上げてくるあれに、バージルは「熱かったのだろう」と平然と
言い放った。
濡れた銀糸を指に絡め、あれの躰を貫いた。毎日昼も夜もなく抱いているお蔭で、そこは
ほとんど抵抗なく男を受け入れるようになった。むしろ早く欲しいと言わんばかりにひくつき、
絡み付いて奥へと男を誘おうとする。淫らな、躰だ。しかし男からすれば愉しいばかりであり、
嫌悪するものではない。
婚礼が済めば妃となったユリアと床をともにしなくてはならない。女を抱くことに抵抗はなく、
子を設けねばならぬ手前ユリアと褥に入ることは避けられない。王は正妻の他に数人の妾を持つ
ことが許されている。バージルの父は王妃以外に妻を持っていないが、それは極めて稀なことだ。
バージルは何も、愛妾を持ちたいわけではない。それらに等しく愛を注ぐなど面倒なだけだと
思っているし、そもそも女に愛を囁くことをバージルはしない。妻一人娶るのすら、億劫で
ならないのだ。
いずれ王となるからには妻はなくてはならず、そしてバージルはあれを手放すつもりはない。
それだけのことだ。
ユリアの準備がようよう整ったと、王妃付きの女中が報せに来た。何をするでもなく窓辺に
佇んだバージルを見て、待ち侘びていたとでも思ったのかもしれない。割合年嵩の女中はにっこりと
して、長らくお待たせ致しました、などと言って頭を垂れた。バージルには別段、労う言葉もない。
ただ短く、そうかと頷いただけだ。
式は一言に言うなら、壮麗。柱の一本、壁の隅々に到るまで銀と絹の飾りが施され、色とりどりの
宝石が派手になり過ぎない程度に散りばめられている。そして式の主役であるバージルとユリアは、
まさしく華と呼ぶに相応しかった。眉目秀麗なバージルに劣らず、ユリアもまた美形の少女である。
純白のドレスはユリアの美貌をよく引き立て、大輪の花が咲き誇ったようにみなの視線を集めて
いた。
幸いたる婚礼の熱は宵に到っても覚めやらず、国を上げての祝福がバージルとユリアに捧げられた。
誰も、彼らの不幸を疑うものはない。ユリアもまた、自身の仕合わせを露程も疑ってはいない
だろう。それが当然というものだ。しかし、現実はどうか。
バージルは頬をそっと染めてつかず離れず寄り添うユリアに視線を呉れ、ちょっと目を細めた。
ユリアにとってこの式は幸福の始まりであるべきものだ。美貌だが、まだ幼いと言えるおもてを
薔薇色に染めるさまはひどくいじらしい。政略婚とはいえ、ユリアは確かにバージルを好いている
のだ。
どんな人間であるかよく知りもせず、憧ればかりを募らせてバージルを恋うている。
ある意味で、仕合わせな少女だ。これから先の仕合わせなど、誰も約束出来ぬというのに。
ふと、ユリアがこちらを見た。バージルと視線が合うとはっとしたように目を瞠り、
恥ずかしそうに微笑する。慎ましい微笑みに、バージルはふとこの少女が哀れに思った。
愛というものを知らぬ自分に、期待を抱いて嫁いで来た健気な少女。不幸しかないであろう少女の
将来を、バージルは哀れんだ。
無意識に手を伸ばしていた。ユリアの薔薇色の頬にそっと指先が触れる。少女は戸惑いながらも
バージルのなすがまま、じっと息を詰めている。柔らかい膚。真っ赤な紅の引かれた唇は瑞々しい
果実のようだ。
「バージルさま……?」
ユリアがそっとバージルの名を呼んだ。バージルは内心ではっとし、表面の変化は見せずに腕を
自分の脇に戻した。
どんな類の感情であれ、誰かのことを想うのは不得手だ。慣れぬことにバージル自身も
戸惑っていたが、ユリアから見上げる横顔はただ厳しいものにしか見えなかった。
式は月が天頂に昇る頃にようやくしまいとなり、バージルは一度自室に戻るべく礼服の裾を翻して
廊下を渡った。彼ら夫妻の寝室は別にある。ユリアもまた自室に引き取り、ドレスを着替えている
だろう。あちらは女中が総掛かりであろうが、バージルは召使の一人も連れてはいない。ドレスと
違うのだから、手伝いなど煩わしいだけだ。
毛足の長い絨毯はバージルの足音を吸い込み、静けさを保つ。蝋燭の灯がゆらゆらとバージルの
影を揺らし、まるで笑っているようだった。
城は無意味なまでに広い。左手に庭が見え、底の浅い池には丸い月が浮かんでいる。不意に、
バージルは足を止めた。薄暗い廊下の奥に、誰かがいる。召使ではないのは、直立したまま膝を
折らないでいることからすぐにも判る。ならば、誰であるかなど考えるまでもない。バージルが
海で拾った、あのいきものだ。
「何をしている」
鋭い声に、しかし彼――――バージルがダンテと名付けた――――は立ち尽くしたまま、
僅かな反応もない。応えがないのはダンテが喋れないことで説明がつくが、何の反応もないとは
どうしたことか。訝るバージルを余所に、ダンテがひそりと歩み寄ってくる。
ひた、ひた。
ゆっくりとした歩調だ。歩くことにすら激痛を味わわねばならないダンテは、こうして自ら
バージルの部屋を出ることは初めてのことだ。いつもはバージルが外に出さない為、ダンテは
ベッドを下りることすらほとんどない。
バージルは不審をあらわにダンテを見つめた。苦痛だろう歩みを、ダンテは止めることをしない。
どころか、その表情は蝋のように白く固い。まるで別人がそこにいるかのようだ。
ひたり。
ダンテがバージルのすぐそばで足を止めた。そっと上がった手がバージルの礼服の裾を摘む。
言葉はない。ただ、見つめ合う。ダンテの双眸は、どういうわけかひどく哀しげだった。式で
見たユリアのそれとは正反対だ。
「ダンテ、」
どういうつもりかと、バージルは再び問いただそうと口を開いた。が、言葉を紡ぐより先に、
不自然な音に耳を疑った。
何か、地響きのような轟音。床は微かに揺れ、しかし立っていられぬ程ではない。弱い地震に
しては、音が妙だ。
ダンテがぐいとバージルの礼服を引いた。哀しげな瞳は、何をかバージルに訴えようとしている。
しかし言葉がなくてはバージルがダンテの意を理解することは出来ない。
「身を低くしていろ」
バージルは言うが、ダンテは首を左右にした。ぐい、と礼服を強く引かれる。
「何だ。何を言いたい?」
眉をしかめたバージルに、ダンテは整ったおもてをくしゃりと歪めた。どうして判ってくれない
のか、咎めるような顔だ。
「判らぬものは判らぬ」
離せ、と苛立つままダンテの手を振りほどいた。その時、バージルは地鳴りの正体を知る。
月明りが、消えた。池に映っていた月が雲に隠れたのかと思ったが、そうではなかった。
「…………!」
海鳴り。月を隠す程の海嘯。
立ち尽くすバージルは、自身を抱き締める体温があることに、果たして気付かなかった。
幸福の始まりであるべき婚礼の儀の宵、栄華を誇る国は一瞬にして海に呑み込まれた。
二つの光が、海の淵に沈んでいく。一方の光はひどく弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。
もう一方の光は、消えかかる光を必死に守っているように見える。
二つはやがて淵の底に身を寄せた。それらを迎えたのは、姿なき意志の塊。
――――憎いか。
意志が問うた。弱った光を庇うように、もう一方が憎いと応えた。
――――だがその身では、何も出来まい。
ではどうしろと。光は問う。意志は笑ったようだった。
――――私が力を貸してくれよう。私と契約し、憎きものを呪う力をやろう。
唆すような意志の言葉に、光は迷いなく諾と答えた。この憎しみが晴れるならば、何をも惜しくは
ない。
――――では、契約だ。代償は貴様の魂。そして、そちらの入れものを貰う。
微弱だった光は、やり取りが終わるのを待たず息絶えていた。残された光は、哀しみを感じる間も
なく思考を奪われ、沈黙した。
姿なき意志は見慣れぬ我が身を水鏡に映して、くつりと笑う。
――――貴様の魂に、祝福あれ。