宵虹ヨイノニジ――――紅虹アカノニジ











はぁ、と吐く己の息の熱さに、彼は途方に暮れた。己に残された時間の少なさを物語るように、 日増しに躰は重くなり、熱を増していく。もとより無理を承知で陸へ上がった彼にとって、これは 受け入れねばならぬ報いであった。

海の中でしか生きられぬ彼が、何故陸へと上がろうとしたのか。それは実のところ、彼自身にも 説明の仕様がない。衝動。言葉にするならば、そうなるだろう。
陸へ上がった後はどうするのか、考えてはいなかった。ただあるひとをもう一度だけ見たいという 衝動に駆られるまま、ひとの姿となって陸を目指した。後戻りは出来ない。それが判っていても、 彼は衝動を止めることは出来なかった。

どこかの海岸に辿り着いたまでは良かったが、彼は疲れ果てて波打ち際で意識を失ったらしい。 らしいと言うのも、彼は砂浜を目にして安堵したところからの記憶がないからだ。気が付けば、 見慣れぬ箱――――天蓋付きの寝台であることに初めは気付かなかった――――の中にいた。
誰かが自分に触れていると判り、狼狽した。しかしそれ以上に驚いたのは声が出なくなっていることに 対してだった。男に名を問われ、答えようと開いた唇からは掠れた息が漏れただけだった。
彼はすぐに理解をした。否、思い出した。声は、彼がひとの姿を得る為に犠牲となったのだ。

脚を与える代わりに声を奪う。

彼を育てた男は、確かにそう言った。しかし一切の言葉を奪われたことを目の前に突き 付けられれば、困惑と同時に悲しみが襲うものなのだと、彼はその時になって噛み締めた。
声を失った悲しみを振り切るように、彼は自分に触れる誰かをよくよく見つめた。それは彼の よく知る顔で、しかし全く知らぬ男。そして彼が逢いたいと願い、彼を陸に上がらせた理由と なったひと。

何という偶然だろう。

彼を拾った男は彼に名を問うた。しかし彼は言葉を失っている。答えたくとも答えることが 出来なかった。言葉が無理ならば字は書けるかと問われ、首を左右にした。彼は字を読むことも ままならないのだ。
男はそうかと驚いたふうもなく頷き、躰が快復するまでここにいろと言い、彼に名をくれた。 名がないのでは不便だろう、と。

――――お前の名は、ダンテにしよう。

幼くして死んだ、男の双子の弟の名だと言う。

ダンテと名付けられた彼は、箱の中で男によって犯された。脚に触れられるだけで言葉に 出来ぬ程の激痛が彼を襲った。自分でも触れたことのない後ろを男の屹立に貫かれて、あまりの 熱さに息が止まりそうになった。しかし、彼は堪えた。
バージル、と男は名乗った。彼には呼ぶことは出来ないけれど、心の中では何度も呼んだ。 バージル。かつて彼が気紛れに海から顔を出した時に、偶然船の甲板からこちらを 見下ろしていた少年。今はもう少年ではないけれど、彼はバージルを忘れたことはなかった。

もう一度だけ、逢いたい。強い願いを育ての親――――と言うには語弊があるが――――に 訴え、ひたすらに乞うてようやく声と引換えに脚を与えてもらった。そして、願いは 叶ったのだ。

バージルに犯されることは、彼にとって幸いであった。脚の痛みと熱には慣れぬどころか いっそう酷くなるばかりだったが、彼は確かに仕合わせだった。この仕合わせの続くうちは、 出来得る限りバージルの思うままに。そうすれば、少なくともバージルは自分を捨てることは しない筈だから。

バージル。

唱える名は、とても神聖なものに思えた。









時は刻々と迫り来る。









はぁ、と吐く息はまた熱を増したようだ。

彼は独り、寝台の中。真っ白い敷布に躰を横たえ、眠りと覚醒とを繰り返していた。バージルに 拾われてこちら、彼はほとんどの時間をこの寝台で過ごしている。
脚が萎えると言われ、室内を歩くことはあるが、一歩踏み出すことさえ彼には苦痛以外の 何ものでもなかった。が、彼が痛みをおして歩く姿を、バージルは何故かいつも上機嫌に眺めて いる。だから彼も、バージルがやめて良いと言ってくれるまで、歩く。
あまりの激痛に涙を流しながらも、彼はバージルの望むままにするまでだった。

相変わらず、バージルは彼を抱く。まだ自分への飽きは来ていないのだと知れて、彼は純粋に 嬉しかった。酷く犯されることは多いが、それでも彼は仕合わせだと感じられる。それ以外の 仕合わせを、まるで知らぬかのように。

けほ。息が詰まったようになって、咳が出た。けほ、けほ。喉から息の音が漏れるだけの咳。 けほ。まだ止まらない。

ようやく止まった咳の余韻で、彼は苦しげに肩を上下させた。熱病にかかったように、熱が 引かず咳が絶えない。原因を知っているだけに、彼はやりきれなかった。
もう少し。もう少しだけそばに。そうしているうちに、時間は残すところもう僅かになって しまった。

どうすれば良いのだろう。何度も自問した。海から響く声は日増しに強くなる。彼は焦り、 しかし、答えは出ない。

――――……主よ。

誰もいる筈のない部屋のどこからか、声が聞こえた。海の底から響く声ではない。よく知った 声に、彼は安堵するよりも困惑した。

――――我らは常に主とともに在る。

――――主よ、我らの言葉を聴くのだ。

声は二つ。どちらもよく似た、嗄れた声だ。

――――忌まわしき約定の時は近い。

――――もはや猶予はないぞ、主よ。

――――主の望んだ男は主を顧みることはない。

――――このままゆけば、海鳴りとともに主は死ぬるぞ。

判っている、と彼は声なき声で叫んだ。判っていることだ。彼に与えられた時は短く、現状の ままその時が来れば、彼を待つものは無情な死だ。

――――いや、主は判ってはおられぬ。

――――然り、真に判ってはおられぬ。

――――主よ、このままではゆかぬ。

――――死してはならぬ、主よ。

――――我らはまた、主亡き絶望を味わわねばならぬ。

――――主亡くは我らの生に意味はない。

どうか。乞う声に、彼は蒼白となった。

――――あの男を殺すのだ。

折り重なる二つの声。殷々と響き、彼はいっそうに蒼褪める。

――――さすれば、主は救われる。水底の意志はそう言った。

――――あの男の命を以てすれば、主を救うことは易しと言った。

そんな。彼は首をゆるく左右に振った。出来ない。出来る筈がない。

――――主よ、我らは主とともに在る。

――――主の苦しみは我らの苦しみぞ。

――――我らが何も知らぬと思うてか。

――――あの男を殺すのだ、主よ。

――――もはや猶予はない。

――――主が海に戻るのみでは……

不意に声が途切れ、彼ははっとした。閉ざされた扉を開け、部屋に入って来たのはバージルだ。 彼はもぞもぞと寝台の端に逃げ、脚を畳んで小さくなった。バージルは真っ直ぐ寝台に近付き、 天蓋から垂れた絹の覆いを躊躇いなくめくった。

「……誰かの声が聞こえた気がしたが」

バージルの声はひどく冷たい。光源のない寝台の中であるせいか、彼の蝋のような白い顔には 気付かない。首を左右にする彼に、バージルは目を細めた。

「ふ……ん?」

面白くもなさそうに鼻を鳴らし、バージルは寝台に腰掛けた。来い、と無造作に彼を呼ばわる 声音はいかにも尊大で、けれども彼は不平を訴えることもせず、脚を引きずってバージルのそばに 寄った。のろのろとした動きに焦れたのか、バージルがダンテの二の腕を掴んでぐいと自分の 方へ引き寄せる。肩が痛み、顔を歪めるがバージルは彼の身を顧みることなどない。
バージルは彼を膝近くまで引き寄せると、彼の痩せた躰を蹂躙しにかかった。荒々しく首筋の 皮膚を噛まれ、彼はびくりと首を竦める。そして、今までの彼にはおよそなかったことだが、 男の肩を押し返そうと腕を突っ張って男を拒んだ。途端、男の機嫌が下降する。

「何のつもりだ」

低い声は恐ろしく、彼はぎくりとする。彼の突っ張った腕ごと、バージルは彼を敷布に組み 敷いた。バージルの碧い双眸は獲物を逃がすまいとする獣のそれだ。

「ダンテ、私を拒むか……?」

「……ッ……!」

喉がひりつく。声など出ないが、彼は喉の奥で悲鳴をあげた。バージルが彼の一糸纏わぬ躰を 荒々しく開き、何の準備もなく貫いたのだ。犯されることには慣れても、本来男の躰は男を 受け入れるようにはなっていない。後孔が裂けたのが生々しく判る。血が敷布を紅く染めて いるのだろう。赤のぬめりを借りて、バージルは彼の苦痛など考えもせずに挿出を始めた。
揺さぶられるたび、彼の眦から涙がこぼれ落ちる。

「っ……ぅ、う……!」

暴力でしかない蹂躙に、彼はただ呻き、泣き続けた。行為の苦しみと痛みも涙を流させる一因で あるが、しかし彼はそれ以上の哀しみに咽び泣いた。

これが最後かもしれない。――――否、最後だ。

彼がバージルのそばに在れるのは今宵が最後。どんな形であれ、彼はバージルの許から 去らねばならない。それが、どうしようもなく哀しいのだ。





バージルが彼を解放する頃には、寝台は血と精液の混じった臭気に満ちていた。バージルは気が 済むと、彼の躰をとりあえず清めて部屋を出て行った。
また独り取り残されたダンテは、くたりと伸ばした手の先に当たる冷たいものに気がつき、 何気なく手に取った。こんなところに何かあっただろうか。のろのろと顔の前にそれを持ち上げ、 そして息が止まる。
それは柄に朱と碧の玉をあしらった、一振りの短刀。

――――殺せ。

嗄れた、しかし確かな声が耳の奥に響いた。



















前?
次?
戻。


設定とか、思いっきり投げ出したくなりながら…