宵虹――――夢虹
さざめく海の蒼を臨み、想い馳せるは愛惜か。
海を挟んだ隣国の王女との婚儀を明後日に控えた宵、バージルの姿は街を少し離れた海岸に
在った。日中なら白さが目に痛い砂浜も、月明りが射しているとはいえ黒くくすんで見える。
打ち寄せる波もまた黒く、人を引きずりこんで水底の内腑に取り込まれそうだ。
黒い砂浜と波に、バージルはあのひとではないいきものを拾った時のことを思い出す。
あれを拾った洞は砂浜の切れ目に口を開けていた。まるであれを守るかのように開けた、
小さな洞だった。中程まで海水が入り込み、あれは下半身を水に浸した状態で臥していた。
意識はなく、しかし外傷もなく。あったのは、両脚に散った虹色の鱗が数枚。
海から来たあれを、バージルは我がものにして部屋に囲った。女ではなかったが、そんな
小さなことはバージルにはどうでも良かった。抱くだけなら、相手が男であろうと女であろうと
代わり映えはない。むしろ女は無駄に情を望む傾向にあるが、男ならば子を欲しがることもない為、
囲うには適しているかもしれない。
どちらにしろ、バージルはそのいきものをよく可愛がった。言葉通りの意味だ。何かを、誰かを
愛することを知らぬバージルは、そのいきものを夜毎抱き、並々ならぬ執着でもって縛り付けては
いるが、愛情を注いでいるわけではない。それはバージル自身、自覚していることだ。
黒い砂浜はどこまでも続いているような錯覚に陥る。月明りは眩しくこそないが明るく射して
いるのだけれども、何故か、砂浜の先は見えない。そもそも、何故バージルは海岸なぞに
いるのか。
バージルはつい先刻まで、部屋で件のいきものを犯していた。ともすれば一日中攻めたてている
こともある程、あれの躰は男によく馴染んだ。経験があるようには思われなかったが、抱くたびに
感度を増し、甘く啼くさまは娼婦のようだとバージルは思う。その躰に嵌まらぬ男は男では
ない、と言い切れる程に。
あれを拾ったのはこの海岸だった。その時のことはよく覚えているし、忘れられるものでも
ない。
バージルは海を好いているわけではなく、まして星にも興味はない。ならば、何故ここに
いるのか。ざくざくと砂を踏む音は何故途切れないのか。
どこに、行こうとしているのか。
自分の脚が勝手に動いているのだと、言って信じるものは一人もいはすまい。が、そうとしか
言いようがないのだ。
これは夢か、とバージルがため息を吐いた時、まるで聞き覚えのない声が響いた。
――――返せ。
嗄れた声は老いたものよりも太く、砂浜に響く。バージルの脚は、気付けば止まっていた。
――――返せ。
もう一度響いた声は、今し方のものと少し違って聞こえた。二人、いるらしい。それは判っても、
何を返せと言っているのかは判らない。
反応のないバージルに焦れたか、声が喚くように言葉を紡いだ。
――――返せ。我らに斬り刻まれたくないのならば!
――――我らに斬り刻まれたくないのならば、返せ!
だから、何をだ。声なく問うたバージルに、思いがけず返答があった。
――――とぼけおるか!
――――貴様が海から掠めた我らが主ぞ!
――――返せ、速やかに。
――――返せ、今すぐに。
一方的に喚く声は、しかしふつりと途切れた。
バージルは、自室の寝台で目を覚ました。やはり夢だったか、と驚くでもなく確認して、隣を
見やる。犬のように躰を丸めて眠るダンテが、バージルに寄り添うではなくそこにいる。広い
寝台は、彼らが二人並んでもまだ充分に余裕があった。
それにしても、奇妙な夢だった。バージルは肘を立てて腕を枕にし、まだ起きる気配のない
ダンテをじっと見つめた。
今はもう、夜明けだ。しかしダンテの目覚めはいつも遅い。それも無理のないことでは
あるが。
夢の中でバージルに呼び掛けた声は、ダンテを返せと言っていた。あの声はダンテを主人などと
呼んでいたが、いったいこのいきものはどういう存在で、あれらとどんな関係だと言うのか。
問う前に夢が閉じてしまった為、疑問だけがバージルの中に残っている。
さらさらと敷布に流れるダンテの銀糸を指ですくい、絡める。滑らかな絹糸のような髪は
するするとバージルの指から逃れ、落ちる。これは、触れてもダンテが痛がらぬ唯一の部位だ。
痛がるからと言って、バージルはダンテの膚に触れぬわけはなく、むしろ痛みを堪えるさまは
バージルの慾を煽り、嗜虐心をそそってならない。
返せ、などと脅されようが、バージルにはダンテを手放すつもりはない。それは愛情の故では
なく、気に入りの玩具を奪われまいと隠す子供の感情に似ている。
「……ぅ、……」
ダンテが吐息とも言えぬ息を漏らして身動いだ。目覚めたわけではないらしく、碧い双眸は瞼に
しまわれたままだ。
眠っている時にだけ、ダンテはひどく安らいだ表情をする。バージルを全く警戒しておらず、
安堵しきっていると取れる表情だが、バージルにはある種の不愉快さが植え付けられる。その瞳に
バージルを映している時のダンテは、常に得体の知れぬ不安を抱いたように表情が曇っている
ことがほとんどだ。バージルのことを怯えているのでは、おそらくない。酷い行為を強いれば
怯えて震えることもあるが、バージルという人間を恐れているのではないらしい。
ならばいったい、何に怯えているのか。何を、畏れているのか。
糸口は、奇妙な夢。
しかしバージルには、ダンテが何ものであろうと拘わりあいのないことである。
バージルは海で不可思議ないきものを拾い、ダンテと名付けて愛玩した。そしてこれから先、
このいきものを手放すつもりはない。ただ、それだけだ。
母は、ダンテを手放せと言った。手遅れになる前に、と。
手遅れになら、もうなっている、とバージルは思う。バージルはもはや、ダンテを手放すこと
など出来ないからだ。
ダンテの白い頬を指の背でなぞる。ぱらぱらと頬にかかる銀糸を払い、柔らかな耳朶を軽く
摘んだ。歯で噛むと柔らかさがじかに伝わるのだと、バージルは知っている。
滑らかな膚にいくつも散らせた花弁は、一度刻めば数日消えることがない。毎日、飽くことなく
膚を吸ってやる為に、ダンテの白からはバージルの所有の証が消えることなく残り続ける。
掛布を取り去れば、一糸纏わぬ痩身に紅い花びらが散らぬところはないだろう。
唇を這わせればそれだけでびくりと躰を震わせ、膚を吸えば顔を引きつらせて悲鳴を上げる。
言葉は紡けなくとも、呻きのような声は出せるのだ。そしてバージルは、その声がひどく気に
入りだった。
存在の総てがバージルの知る限りの慾を呼び覚まし、煽り、猛らせる。そんないきものを、
縛り付けて閉じ込めこそすれ、どうして手放すことが出来ようか。
バージルは喉の奥でくつりと笑った。ダンテに触れていた所為か、劣情がふつふつと沸き
バージルの牡を駆り立てている。何も知らぬダンテは、いまだ眠りの淵だ。
「始末の悪い……」
が、不快ではない。だからこそ、たちが悪いのだ。
バージルは眠るダンテを起こさぬまま己の下に組み敷き、白い肢体を蹂躙した。
海の暗い淵から声が響く。人には聴こえぬその声を、聴き取り理解出来るものはただひとり。
しかし言葉を奪われ、字を知らぬそのひとりは、水底よりの言葉を誰に伝えることもまま
ならない。
待ち受けるのは、死よりも残酷な、惨い結末。
海がさざめく。それはかつて引き裂かれた二人の、嘆きの声。
海が鳴る。それは水底に棲まう闇き意志の、戯れの呪い。
海を挟んだ隣国の王女との婚儀まで、あと、一昼夜。
前回のと話が変わってる気がしないでもない…まぁ良いか。