宵虹――――命虹
いのちを、
塔の内部には、部屋と呼べる空間が二つあるばかりだ。建物そのものは大きく高いのだけれども、
その空間のほとんどを石の階段が占めている。塔の入口は広間のようになっており、ドアから最も
離れた位置から階段がひたすら上へと続いている。
螺旋階段の先は、暗くて黙視出来ない。窓がないのだと、バージルは階段を登りながら気が
付いた。
まるで、牢のような。
暗く、陰気な雰囲気だ。
腕に横抱きにしたものが、ぴくりと身じろいだ。外套に包み込んだ手を落ち着きなくもぞもぞと
させているらしい。
「大人しくしていろ」
重くはないが、あまり動いては何かの間違いで落としてしまうかもしれない。そんな間違いなど
起こすつもりは欠片もないのだが、バージルが言ってやるとそれはぎゅっと外套を掴んで静かに
なった。
ダンテと名付けたこれは、ひどくバージルに従順だ。従うことしか知らぬかのように、逆らうと
いうことを一切しない。それが何故なのかなど、バージルは知らぬし知る必要もないと
思っている。
これは自分のものなのだ。主人に従順であることなど、当然なのだから。
長い階段を登りきると、石の壁にはまった木戸が一つある。開けようと思えば、ダンテを一度
下ろさねばならない。
「自分で立て」
返事など聞かずにダンテを腕から下ろす。包むもののない白い足が石の床にぺたりと触れ、
その途端、ダンテがびくりと全身を震わせた。つい先日判ったことだが、ダンテの脚は
ただ触れただけでも痛みが走るらしい。その脚で歩くなど、拷問の域に達するのだろう。
そのことに気付いたからと言って、バージルはダンテを労ったりはしない。寝台にいるばかりでは
血が固まると言って、わざと部屋の中を歩かせるのだ。
激痛に襲われながら、それでも逆らおうとしないダンテの表情や姿に、バージルは牡の慾望を
刺激されてならない。
せめてとばかりにバージルの外套の端を摘むダンテの、細く白い指先。下肢に熱が集まるのを
感じた。この冷たい石の上で犯してやろうか。暗い塔の中にあっても白さを失わぬ膚を、
余すところなく汚してやりたい。
衝動とも言える情慾を抑え込み、木戸を開けた。天井が高い所為か、随分と広く感じる。
ここには窓があるらしいが、格子の嵌まったそれはやはり牢を思わせた。
ダンテの指が、バージルの外套を強く掴んだ。その手が震えていることに気付きながら、
バージルはあえて気付かないふりをする。
ぼうと灯った燭台の側に母の姿を認め、バージルはダンテの腰に腕を回して背を押すように
した。ふら、とよろめくそれを床に引き倒してやりたくなるが、母の手前、それはしかねた。
「お呼びか、母上」
我ながら冷たい声だと思う。しかし母は怯んだ様子は少しもない。
「……よく、連れて来ましたね」
母の声は、凛としていながら何故か暗く沈んでいる。バージルは不審に思ったが、表情にも
出さなかった。
「母上が連れて来いと言われたのでしょう」
部屋に置いておくことをこそ、バージルは警戒した。自分が不在の間に何ごとかあっては
ならない。
「バージル、この塔の由縁は知っていますね?」
出し抜けに母が問うた。
「……牢、でしょう?」
くす、と笑って見せれば、母はバージルに背を向け、燭台の脚を指先でそっとなぞった。
「確かに、ここ程に牢と呼ぶに相応しい場所はないでしょうね……」
「ここにこれを閉じ込めよという仰せには、従いかねますが」
「安心なさい。そのつもりで呼び立てたのではありませんよ」
初めはそのつもりだったが、と少し笑って見せる母に、バージルはやはりと肩を竦めた。
「それでは、今はどういったおつもりです」
「言葉にするまでもなく、判っている筈ですよ。今のままではならぬと」
ユリア王女との結婚を言っているのだと、バージルには判った。皇子に与えられた責務は、
ユリアとの間に子をもうけることだ。子が先か王位に就くことが先かは判らぬが、どちらも
求められるバージルに婚姻以後の自由はない。今も、さして変わらぬとバージルは思って
いるけれども。
「あなたは妻を娶ってもなお、その方を手放さぬつもりなのでしょう」
母の言葉は、やはり厳しい。
バージルは慣れているが、免疫のないダンテはすっかり怯えてしまっている。発声が出来ぬ
だけで、これの耳は人の言葉を正確に解しているのだ。
捨てることだ。
母はバージルに選択肢を与えるつもりはないのだろう。それを、ダンテは正しく理解している
からこそ、怯えているのだ。
言葉を話すことは出来ずとも、ダンテの震える指が如実に心を伝えてくる。
「強要された妻を、私に愛せよと仰せか?」
バージルの静かな声に、母がはっとする。
「言葉を慎みなさい、バージル。あなたにとって、最良の妻となるひとなのですよ」
「私にとって何が最良か、それは私が決めることです。……話はそれだけですね」
ユリアのことでこれ以上話をしたところで平行線だ。ダンテのことに関しても、そう。
長居は無用とばかりに踵を返そうとするバージルに、母が言い放つ。
「手遅れになる前に、手放しなさい。……半身を取り戻そうとしてはなりません」
びく、とダンテが弾かれたように肩を跳ね上げた。バージルはダンテの肩を抱いてやりながら、
母を見据える。
「何の話です」
ぐ、と思いのほか強く外套を引かれた。ダンテがずるずると、床にへたりこもうとしている。
「繰り返してはならぬのです。海鳴りが来る前に、手放しなさい」
脚が萎えたように座り込み、肩で息を繰り返しているダンテの傍らに母が膝を折る。スカートの
裾が汚れてしまうのも構わず、ダンテの細い肩に触れた。
「おまえは海から来たのでしょう。悪いことは言いません。どうか早く、海にお帰りなさい」
「…………」
ダンテの瞳が、じっと母を映している。先日父母に引き合わせた時にすら、始終俯いていた
というのに。
バージルは微かにこめかみをひきつらせ、ダンテの腕を掴み無理矢理立ち上がらせた。途端に
走っただろう激痛に、ダンテが息のみで呻く。母が咎めるようにバージルを見上げた。
「バージル、」
「……手出しは無用、と判っておられる筈」
スカートの裾をゆるく払い、立ち上がった母はバージルよりも頭一つ分程背が低い。しかし
皇后たる彼女は、背丈の高低に拘らぬ威圧をまとっている。
「いずれ、バージルにも判る時が来るでしょう。それまでにおまえが海に戻れることを祈って
います」
ダンテに触れようとする母のほっそりとした手を、バージルはダンテを抱き寄せることで避けた。
自分以外のものがこれに触れるなど、許せぬことだ。
バージルは来た時と同じようにダンテを抱き上げ、部屋を出て一気に階段を下った。詰まらぬ
話に付き合ってしまったお蔭で、気分は最悪だ。自室に戻ったら、まずこれを抱こう。少しばかり
手酷く抱けば、きっと下降の一途を辿る機嫌も浮上することだろう。
(しかし……)
母の言葉を、頭の隅で反芻する。バージルがダンテに半身を投影しているなど、どうして
言えたのだろう。確かに半身の名を与えはしたが、バージルはダンテを己の双子の弟として
見たことはなく、またそのつもりで名を与えたのでもない。
何を、母は恐れているのだろうか。ダンテの存在を恐れているようには見えなかったが。
(海鳴り、とは何だ……?)
あえて星見の塔に自分たちを呼び寄せたことと、何か関係があるのかもしれない。しかし、
それがどんな関係なのかが判れば苦労はないのだ。
「……っ……」
腕の中でダンテがもらした荒い吐息に、バージルは気付かない。
機械的に自室まで歩き詰め、扉をくぐると即座にダンテを床に放り出した。苦痛に歪むそれの
表情は、しかし暗い為に見ることは叶わない。痛みに怯えながら、しかしバージル自身を恐れる
わけではなく、必死に受け入れるダンテの表情は、痛ましさ故にひどく牡を誘う。
いっそう酷くしてやりたくなる、たちの悪いかおをするのだ。
(手放す? これを?)
出来ぬ話だ。こんなにも愉しい自分だけの玩具を、どうして手放せようものか。
「奪うものは、赦さぬ」
たとえそれが実母であっても、近く妻となる女であっても。
バージルはダンテを絨毯の上に押さえ込み、服を剥ぎ取って躰を開かせた。組み敷き貫いた
その白い肢体が、尋常になく熱を持っていることにバージルはついぞ気付くことはなく。
悪夢にうなされるように涙を流し、身をよじるそれを容赦なく揺さぶった。
いのちをかける価値があるのなら、
海の底に、殷殷たる声が響く。
その声と引換えに、お前にひとの脚をくれてやろう。
囁く声は、いのちを吸うが如く“それ”の声を奪い、鱗を剥ぐ。
お前に与えるものは祝福に非ず。これは大いなる呪いである。声など、ほんの小さな代償で
しかない。
お前は必ず、後悔する。
水底の闇よりの囁きを響かせるかのように、波は途絶えることなく宵の浜辺に打ち寄せる。
戻って来い……此処へ……
海の、底に――――