宵虹――――艶虹
ぱしゃん、と水が跳ねる。
揺れる黒い水面に、蒼白い月がゆらゆらと漂うように浮かんでいる。そして、蒼い月明りに
照らされる、白い、肢体。
隣国の王の娘は、名をユリアという。五年前にも聞き、父母の会話に何度も上った名前であるが、
バージルの記憶にはうっすらとも刻まれてはいなかった。そのユリア王女との婚姻が、バージルの
預り知らぬ――――一切関与せぬ――――ところで進められている。
バージルはしかし、それを判っていながら父にも母にも何を言うこともしなかった。好きに
すれば良いと思っているのだ。その代わりとでも言おうか、こちらも好きにしているのだから。
その間に立たされる、仕合わせを夢見て嫁いで来る王女のことなど、バージルは欠片も考えては
いなかった。
女を抱いたことがないわけではない。ある程度の知識も、経験もある。しかし女に対する興味が
極めて希薄なのだ。バージルにとって女を抱くことと愛することは、完全に別問題なのである。
バージルは何か――――ものであれ、ひとであれ――――を愛するという感情そのものが、
ない。
「殿下、」
ドアの外から聞こえる声は、控え目な女性のもの。母が使っている侍女だろう。バージルは侍女に
入室を許可してやり、寝台の覆いを下ろした。
「何だ、」
バージルの声は、低めると不機嫌そうな響きを持つ。侍女はしかし、背筋を伸ばしたまま慇懃に
礼を施した。
「お休みのところ申し訳ありません。妃陛下よりのお言伝です」
母が何を。バージルは少し眉根を寄せ、言葉を待った。その態度は侍女の目に不遜なものに
映ったかもしれないが、バージルは気にも留めない。
「本日の晩餐には殿下も同席するように、とのことでございます」
「ふ……ん、理由は」
「わたくしはそこまでは。――――それともう一つ。これは晩餐の後とのことですが……」
侍女がちらと視線をバージルから外す。耳を澄ませているらしい。外に誰の気配もないことを
確認し、それでも用心を重ねてひそりと告げた。
「件の方を伴い、星見の塔に来るように、と……」
バージルはいよいよ眉をしかめた。星見の塔。城の最も北に佇む、今はもう誰も立ち入る
ことのない塔だ。
「……承知した、と伝えておけ」
不審ではあるが、この伝言役の侍女に問いただしたところで仕様のないことだ。本意は、直接母に
問うしかない。
侍女が退室し、バージルは小さく首を左右にした。母はいったい何を考えているのか。
バージルだけではなく彼も呼び出すとは、何をかしようとしているとしか思えない。
まだ、夕食まで一刻半はある。
考えても無駄だと判断し、バージルは肩を竦めて寝台へと戻った。眠りたいわけではない。
先刻とて、別段寝台で寝ていたわけではないのだ。ここしばらく、ろくに睡眠を取っていないことは
確かだが。
天蓋から垂れ下がった帳を、片手で引く。白いシーツの波に泳ぐように、透き通る白の肢体が
俯せになっている。
それは海で拾った、ひとではない美しいもの。
帳の絹が擦れる音に、白いものがぴくりと身じろいだ。
「…………」
長い銀の睫毛が震え、瞼が僅かに持ち上がる。緩慢な目覚めを、バージルは閉ざされた薄闇の
中でじっと見つめた。
影に侵されてなお、白い膚が目に眩しい。先刻あちこちに散りばめてやった花弁の飾りが、
純潔であるべき白を淫靡なものに見せている。
これを拾ってまだ十日にも満たないが、もう何度犯したか知れない。昼夜を問わず、抱きたい時に
好きに抱く。犯す程に淫らになっていくようで、常に何らかの愉しみがあり、飽きというものが
全く来ないのだ。
抱くこと自体が、バージルにとって愉しくて仕様がないのだけれども。
ぎしり、と寝台が軋む。バージルが無造作に腰掛けたからだ。
ゆるく開いたそれの、まだ焦点の合っていないらしい瞳が、バージルをぼんやりと見上げる。
「…………」
何か、それが言葉を紡いだ気がした。しかし実際には、それの唇はぴくりでもない。第一、
言葉を話せぬものが何の言葉を紡ぐというのか。
バージルは内心で溜息を吐き、横たわるそれの白く細い肩をそっと指先でなぞった。ぴく、と
それが弾かれたように肩を震わせる。
「目が覚めたか」
返答などないのだから、語りかけるように話す必要はない。しかしバージルは、話したかった。
これまで、日に何度かしか人と話すことのなかったバージルが、自ら人と話したいと思うなど
おかしなことだが。
いくら語りかけたところで、応える声などありはしないと知っているというのに。
子供の頃から、バージルは寡黙だった。本ばかりを読んで日々を過ごした。それを、奇妙だとは
思わなかったし、今も思わない。けれど、それは。
ふと、それと視線が合った。先刻から見つめ合っていたというのに、何故か今初めてしっかりと
視線が絡んだように思うとは、奇妙な話だ。
それ――――バージルがダンテと名付けたものの目は、蒼い。
「……、……」
そ、と。バージルの服の裾をダンテの骨張った指がつまむ。少し触れただけでも火傷をしたかの
ような反応を示すダンテが、自身からバージルに触れようと――――たとえそれが絹のシャツだと
しても――――するなど、初めてのことだ。
シャツの裾を、ほとんどそうと感じぬ程に引く指先の白と、見上げてくるどこか幼さを思わせる
双眸の蒼に。手放せない。そう、強く思う。
元より手放すつもりなど微塵もないけれど。
白に近い銀の髪を、バージルは人形を愛でるかのように梳いた。ダンテはじっと、バージルの
成すままになっている。こうして穏やかにダンテに触れたことが、この数日間であった
だろうか。
「ダンテ、」
それは無意識に、口が言葉を紡いでいた。
「抱くが、良いか?」
そんな確認など、一度もしたことはないというのに。どうして今に限ってわざわざ。
バージル自身不審に思ったが、紡がれた言葉はもう飲み込むことは出来ない。
ダンテの蒼い瞳は、しかし不思議と怯えの色はなく。つん、とダンテの指がバージルのシャツの
裾を引いた。引き込まれるように、バージルは躰を屈めてダンテの唇を吸った。いや、
そうする前に、舐めた。それもダンテがだ。
目を瞠るバージルを、澄んだ海の蒼がじっと見つめている。穏やかに、しかしどこか
ぼんやりと。
「……ダンテ」
食らい尽くしたい衝動に襲われ、バージルはダンテの唇を貪った。
晩餐は、見ようによれば何の問題もなく、平穏に終わった。バージルが父母と食事を摂るのは
ダンテを引き合わせてから初めてである。父は始終寡黙に、淡々と料理の飾られた皿を片している
だけにバージルの目に映った。
話をしたのは、専ら母だった。それも、近々執り行われるバージルの婚礼の儀についてだ。
バージルは自身のことでありながら、その話題には全く興味を持つことが出来なかった。気に
なることは部屋に残してあるダンテと、この後のことだ。
星見の塔で、母はよもや婚礼の儀の話を繰り返すつもりではない筈だ。早くこの億劫な晩餐が
終わることばかりを願い、バージルは母の話など右から左に聞き流した。
どうせ、嫁いで来る女には子を産ませてやれば良いだけなのだ。たとえ機械的に作った子で
あろうとも、それが男児であれば父母も文句は言うまい。要は国の後継者を作らせたいだけなの
だから。
ユリア王女のことを不憫な女性だとは、バージルは思わない。本当に不憫であるのは、自分に
囚われ囲われたあのいきものだ。
ダンテは一日のほとんどを、寝台の上ですごしている。歩かねば脚が萎えると、バージルは強いて
部屋を歩かせる。それで気付いたことだが、ダンテはただ歩くことですら痛みを感じる
らしいのだ。
一歩、踏み出す。その単純な動作すら躊躇い、踏み出せば唇を噛み、額に汗を滲ませる。その姿は
ある種バージルを昂らせたが、異様であることに違いはなかった。
交合の際もそうだ。
バージルが行為そのものを無理強いをしていることは確かだが、ダンテはただ膚を撫ぜただけ
でも異常な程に反応を示す。その表情は何かを堪えているように見えたが、思えばそれは痛み
だったのだろう。
異様なまでに痛みに対する感覚が鋭いということか。
しかし、何故。
晩餐が恙なく終わり、自室へ戻ったバージルは、寝台にいるべきダンテが窓に張り付くように
床に座り込んでいることに気付き、眉を顰めた。
「……何をしている?」
問うに応じるわけではなく、ダンテが窓硝子を掻いた。きぃ。微かな音は、しかしさほど
不快感は催さない。
バージルは燭台に火を灯し、窓辺へ寄った。嵌め殺しの窓からは、海が一望出来る。月が雲に
隠れているらしく、海はひたすらに黒い。
「海、……」
ダンテは海から来たいきものだ。流し目をくれるようにダンテの裸体を見下ろせば、その脚に
きらりと光る鱗が見つけられる。
きぃ。
また、ダンテが硝子を掻いた。何をか言いたいのかもしれないが、バージルには判らない。いや、
もしかすればという予測は出来るのだけれど、それを結論として理解したくないのである。
昼間あれ程穏やかに――――それまでと比べれば、だが――――抱いてやったダンテが、今は
こちらに目も呉れずに海を見つめている。それが、バージルには赦せなかった。ダンテの美しい瞳が
自分を映さないことに、言いようのない怒りが沸き上がって来る。
母との約束の時間まで、およそ半刻。
バージルは薄く笑い、変わらず海を見つめ続けるダンテの、艶やかな銀の髪を乱暴に
掴み上げた。
「……ッ……!?」
声なき悲鳴が、バージルをいっそう昂揚させる。
驚きと怯えの入り交じったダンテの双眸に、バージルの昏い笑みが映った。
かつて、どこの国の船乗りもまだ優れた航海術を持ち得ていなかった頃。この国にはある役割を
担うものが二人、いた。一人は帆船には欠かせぬ風を見るもの。もう一人は、空に散らばる星の
運行を見るものがそれであった。
彼らはそれぞれを“風見”と“星見”と呼ばれ、国中の船乗りに重宝されていた。どちらが
欠けても船は走らず、彼らは常にともに船乗りたちと対していた。
国がようやく富み始めたその当時の王もまた、彼らを深く重んじた。しかし城内に彼らの住居を
設けさせようとした王の言葉を、風見は穏便に退けた。王が、自分たち二人ではなく、星見のみを
望んでいることは誰の目にも明らかだったからである。
風見と星見は二人で一人。どちらが欠けても船は走らない。
しかし王は、その風見の言葉に激昂した。星見など他の誰ぞにさせれば良い。そう叫んでまちに
兵を放ち、星見を捕らえさせたのだ。
囚われた星見は城の最北に建てられた塔に閉じ込められ、王以外の何人も立ち入るすることは
叶わなかった。
以後、人々は王への恐れと蔑みをこめ、その塔をして星のない塔と呼んだ。
転じて星見の塔と名付けられたその塔には、現在誰の気配もない。その星見の死とともに、塔は
封鎖されそれ以降一切使用されていないのである。
いわく付きの塔へ、バージルはダンテを腕に抱いて足を踏み入れた。扉には鎖の一本もありはせず、
中は意外な程に埃が少ない。
何故かなど、バージルには関係のないことだ。
絹の外套をまとわせたダンテが、バージルの腕の中でひそりと身じろいだ。
話を進めることを重視した結果、エロが消えました。