童歌ワラベウタ――――憶歌オボエウタ











ゆらりと影が揺れた。ダンテはバージルの肩にしがみついて、揺れる影をじっと見つめた。影は、 バージルのものでも、ダンテのものでもない。そこにはひとではない何かがいるのだと、ダンテは 無意識に知っている。
森が孕む影。バージルが教えてくれたわけではなく、しかしダンテはぼんやりと、それの正体を 察していた。この森が尋常の森ではないことに、気付いたのはごく最近のことだ。

森には形のよく判らない黒っぽいものがそこら中に潜んでいる。バージルは気にするなと言って 見向きもしないので、ダンテは気にはなりつつも近くに寄って見たことはない。けれども森での 生活が板に付いて来ると、漠然と、それらがひとの忌避するものなのだと察することが出来た。
ダンテ自身もまた、ひとに忌避され、実の両親に捨てられた子どもだった。突き詰めれば、 影たちと自分との違いなどないように思えた。そう思ってしまえば、恐怖は自然と消えていく ものだ。もちろんバージルがいるからこそ得られる安堵は、何にも替えがたい。そもそもバージルが いなければ、ダンテは独りぼっちで死んでいただろう。

死ぬとはどういうものか、ダンテはまだよく判らないけれども、それはすごく淋しいことだと 思っている。だからダンテにとって、孤独を救ってくれたバージルは総てだ。

少し、ほんの少しだけ、喉に何か引っ掛かるような。得体の知れぬものが、ある。

(なんだろう)

バージルとの暮らしが、もうどれ程になるのかダンテには知ることは出来ない。いくつも陽と 月が昇っては沈むのを見た。季節は、判らない。

ダンテが元々暮らしていたまちは、ほとんどの家が農耕を営んでいた。といっても農地はどこも 狭く、細々と食い繋ぐのが精一杯だったのだろう。ダンテは今よりももっと幼かったが、夜はまちを 見下ろせる丘に登って、月明りに痩せた土地を眺めていた。もう、随分前のことのように思う けれど、ダンテは確かに、あのまちにいた。もうそこに、ダンテが暮らしていた痕跡は何もない だろう。捜すものもない。ダンテはある意味で、死んだ存在なのだ。

バージルの首に腕を回して、きつく抱き付いた。どうした、と問いながら背中を撫でてくれる のが、とても好きだ。バージルはひとではないけれど、誰よりもダンテを愛してくれる。孤独から、 救ってくれる。だから、バージルの求めるものは何でも――――自分に出来る範囲だ けれど――――あげる。いのちだって、惜しまない。
だけれども、この、妙な引っ掛かりは何なのだろう。

それ気付いたのは、今燦々と輝いている陽が昇ったころ。つまり、ほとんど間もない。しかし 気付いてしまうと、もう無視することは出来なくなった。

(誰、だろう)

脳裏に描いたひとは、バージルではない誰か。それが誰なのか、ダンテは思い出せない。 知っている、と。それだけは確かなのだけれど。

「バージル、のど渇いた」

ぽそぽそと訴えると、バージルは判ったとすぐに水場へ連れて行ってくれる。森にはいくつか水の 湧いている箇所があり、その一つへ向かおうというのだ。
水を飲めば、この小さな小さな引っ掛かりも一緒に嚥下してしまえるかもしれない。ダンテは しかし、そうしたところで無駄であることを知っている。それでも何とか飲み下そうと、可能性が なくても試さねば気がすまなかった。

(きっと、これは良くないものだ)

だから水で流し込んで、お腹の中に閉じ込めてしまおう。それが、きっと、良い。
ゆらゆら揺れながら、影はいつまでもバージルとダンテの後を追って来る。ダンテはじっと、 実態のないそれを見つめていた。








男はじりじりと、森の中央に近付いていた。捜すものがそこにあるという確信も、証拠も どこにもない。だが男の脚に迷いはなかった。進む先には、必ず“あれ”がいる筈だ。
まちで聞いた、幼子とともにいるという異形。それが自分に関係のあるものであることを、 男は噂を耳にした時から確信していた。だから、男は幼子を捜すのではなく、行き着く先にいる だろう異形を目指している。そこには必ず、幼子がともにいる。

男の足取りに迷いはない。捜す必要がそもそもないのだから、迷いがないのは当然と言えば 当然だ。

迷いはない。が、一抹の不安はあった。

目指す先にいる異形は、常に子どもに寄り添っていると聞いた。まちの人間は子どももまた異形と 言った、その言葉が気になって仕方がない。子どもは銀を持って生まれて来たが、異形ではない ことは確かだ。しかし何故か、子どもを見たというものは皆、あれは化け物だったと語る。
紅い眼は異形の証。それは男も知っている。いかに人型を取っていても、眼の色だけは隠せない。 だからすぐに異形であると看破される。
子どもは、ひとだ。銀色を持つだけの、ただの子ども。それが何故、異形などに。

(……不安、とは、違うな。これは、恐れだ)

大事な大事な銀色の子ども。もし森に棲む異形に魅入られているならば、自分が救ってやらねば ならない。お前の生きるべき場所は森の外にあるのだと、教えて、一刻も早く連れ出してやらねば ならない。
ひとが異形へと身を転じることは、さして難しいことではない。誰かを恨み、憎しみ、殺したいと 願い続けるだけで良い。やがて心の内に闇が巣くい、ひとを内側から醜い異形へと変えていく。 あとは時間の問題だ。

では、子どもの場合はどうか。

ひとの子どもは周囲からの影響でどんないきものにもなれる。それだけ、無垢で、柔軟に富んで いるからだ。たとえば獣に育てられれば、子は四足で歩き人語を解さぬ獣になる。異形に育て られれば、また然りだ。
もとのひとに戻すには、育て親から迅速に引き離さねばならない。そうでなければ、最悪、 ひとにもなれぬまま死んでしまうだろう。あやふやないきものは、あらゆる意味で弱い。

(どうか、間に合え)

神に祈るような信心は持ち合わせていないが、ひとは何ごとかあれば祈らずにはおれぬ いきものだ。
神がひとを救うなど、ありはしないと判っていても。ひとは、祈る。

――――どうか、哀れな子を救いたまえ。ひと欠片の慈悲を、どうか。

森は日中であっても鬱蒼として暗い。男は左手に握った剣の重みをいつになく感じながら、 道なき道をひたすらに進んだ。子どもの、柔らかな銀の感触を思い起こし、右手を握り締めた。








冷たい湧き水を掌にすくう。小さな掌から、水はすぐに逃げて土に染みてしまった。何度か それを繰り返し、少しばかり焦りを覚えていると、後ろでそれを見ていたバージルがちょっと 笑った。ダンテは気恥ずかしくなって、もじもじと濡れた手を擦り合わせた。
バージルはダンテの隣に膝をつき、片手で水をすくって自分の手から飲むようダンテを促す。 ダンテはちょっとバージルを見、それからこぼれつつある水に口を寄せた。冷たい。手ですくった ときよりもよほど冷たくて、ダンテは思わず目を瞑った。

「旨いか?」

問う声にこくりと頷き、微笑んだ。その表情が、唐突に凍り付く。
バージルの肩越し――――頭からフードを目深にかぶった男が音もなくそこにいた。

「……っ……!」

喉の奥で悲鳴をあげる。こんなに近くにいるのに、バージルは気付いていないのか?  ――――いや、そんな筈はない。
バージルはダンテを己のほうへ引き寄せ、振り返るでもないが、意識はそちらへ向けているの だとダンテにも判った。

細長い棒のような何かを携えたひとを、ダンテはバージルにしがみついてじっと見つめた。

「逃げぬのだな」

低い声だ。ダンテの頭上でバージルが鼻を鳴らした。

「必要がない」

こちらも、低い声。似ているようにダンテには思えた。見知らぬひとは樹の影に佇んでいる こともあり、顔立ちは全く判らない。ただ、奇妙な引っ掛かりが。

(だれ、だろう)

漠然とした不安を拭おうと、ダンテはバージルに縋る手に力をこめた。それでも、男から目を 逸らすことが出来ないのは何故なのか、ダンテに判る筈もない。

「それを、返して貰おう」

不意に、男と目が合った。ダンテはぎくりとする。男は相変わらずフードを目深にし、目など 見えない。にも拘らず、確かに視線が絡んだ。もしかすれば、初めから目が合っていたのかも しれない。気付いてしまえば、逸らすどころではなくなってしまった。

「……ぁ……」

かすれた声が漏れる。バージルの手が背中に触れるけれど、恐怖とも不安ともつかぬものは ダンテの心に居座ったまま。

「これは私のものだ。返せ、とは笑わせる」

バージルはそこでようやく、ダンテを両腕に抱き上げて立ち上がり、男へ向き直った。ダンテの 視線は当然だが男から外れる。が、ダンテはそれでもなお、男を見ないではおれなかった。 そして男は、そこにダンテしかいないかのように、じっとダンテを見つめている。
男が一歩、こちらへ近付いた。

「ダンテ、」

息を飲んだ。ダンテの名。呼ばわったのはバージルではない。見知らぬ――――会ったことのない 筈の、男だ。

「ダンテ、こちらへ来なさい」

静かな、低い声がダンテを呼ばわる。その声の響きが、ダンテの何かを騒がせる。

小さな、引っ掛かりだ。

嚥下することの出来なかった、引っ掛かり。漠然とした不安。

幼いダンテの、儚い記憶がぼんやりと脳裏にある光景を映し出す。それは月の明々とした、 宵の丘。月明りに、銀の眩しかったことをダンテは確かに覚えている。
唇が無意識に動いていた。紡がれた言葉に、男が見えない口許を綻ばせたのが判った。

「……ギルバ……?」

バージルのダンテを抱く腕に、力がこめられた。


















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先の見えなかった童歌編もようやく潮時です。

[07/6/9]