童歌――――霞歌
静寂は長くは続かなかった。
バージルはダンテを抱いたまま、ギルバの第一撃を右に跳躍して避けた。ギルバの剣は鋭いだけ
でなく、異形を狩る為に打たれたものと見える。小さな傷でも命取りになるかもしれず、そんな刃を
素手で受け止めきれるとは思えなかった。
振り下ろした剣を、ギルバは手首を捻って返しバージルの脇腹を襲う。後ろに跳んで避けるのを
見越していたかのように、ギルバの剣が半瞬の遅れもなくバージルを追ってくる。
狙いは研ぎ澄まされたように正確だ。
「バージルっ!」
悲鳴が上がった。バージルの肩から血が散るのを見て、ダンテが蒼白になる。ギルバはダンテには
切っ先が触れぬよう、バージルだけを狙って剣を閃かせている。それは当然だ、とバージルは思う。
自分がギルバの立場であっても、そうした。これは推測ではなく、確信だ。
「大丈夫だ」
バージルはダンテの蒼い頬を撫で、ぽってりとした唇を親指で潰すように押した。指先にかかる
ダンテの細い息に言い知れぬ感情が高まるのを感じるが、今はそれが何であるのか考える暇はなく、
またダンテの唇を甘く塞ぐ間も許されない。
「ダンテを渡せ」
怒りを含んだ低い声。バージルはそちらを見やり、否とこちらも低く答えた。
「これは私のものだ。渡すつもりも、奪わせるつもりもない」
これはダンテも望んだことだ。バージルはダンテの望み通り、ダンテを自分の一部にした。
けっして切り離せぬよう、繋がりは日ごとに強くした。今、ダンテはもはやバージルと同体であり、
一つであった。
それを切り離そうとするギルバは、まさしく彼らにとって敵である。
「これは、私のものだ」
繰り返す言葉に、バージルはギルバが苛立つのを見て取る。男はおよそ推測していたに違いない。
子供がバージルに付属した生き物になっていはしないかと。そしてその予感が違わなかったことに
腹を立て、間に合わなかった自身に苛立っているのだ。……手に取るように、判る。
バージルは肩の傷を見やり、ギルバを見た。後ろに身を引いた為、傷そのものは浅い。しかし
これを繰り返していれば、いずれ追い詰められるだろう。
「ふ……ん、」
鼻を鳴らしたのは、バージルだったか、それともギルバだったか。包帯で覆われたギルバの表情は
見えないが、互いに間合いを考えていることは判る。
バージルとギルバは、異形と人間という絶対的な違いはあれど、もとは一つだった。森が孕んだ
闇から生まれた影が、バージルの基だ。影は人を食らう口がなく、代わりに人の姿を奪った。銀の
髪、白皙の顔、長身。鏡写しのように出来上がったのが、この躰だ。バージルはそのことを、
実際には朧気にも覚えていない。自我が発生した時には既に人を食らっていた。感情というものが
現れたのは、ダンテに出合ってからだと思われる。
ギルバが自身と一つであったことは、バージルの記憶にはない。ないが、しかし判ることは
ある。
この男が自分の姿の基であること。思考や何もかもが、この男に因って構築されたものである
こと。そして“ダンテ”に並々ならぬ執心を抱かずにはおれぬこと。
(だから何だと言うのだ)
ギルバが誰であれ、バージルがダンテを手放す理由にはならない。ギルバはそもそもダンテを
見知っているらしいが、つまりギルバはその際、ダンテの手を離したということではないか。今更、
何を言ったところでどうなるものでもない。
ダンテは今、バージルの腕の中にいる。それが事実の総てだ。
ギルバの剣がゆるく足許の草を薙いだ。触れるだけで斬れる程に鋭い剣。しかしバージルに恐れと
いうものはない。
「ダンテ、終わるまで目を閉じていろ」
囁けば、ダンテがバージルの腕の中でいっそう小さくなった。
「バージル、やめて……駄目だ……」
震える背中を撫でさすってやるが、ダンテは一つも安堵を得られていないようだった。
「やだ……ギルバぁ……」
無意識だろう、ダンテの口をついた名に、バージルはやはり言い知れぬ感情が沸くのを感じた。
怒りに似た、しかしもっと複雑な色をした何か。
「黙っていろ」
ダンテの唇を指で押さえて黙らせ、バージルは静かに佇むギルバを見据えた。自分しかいなかった
ダンテの心を乱す、元凶。この男がいなければ、ダンテはバージル以外の名を呟くことも、
バージル以外の誰のことも思うことはなかった筈だ。事実、ギルバが森に現れるまで、ダンテの
口からギルバの名を聞いたことなどなかったのだから。
秩序を乱すものは、排除されて然るべきである。
バージルの周囲に、剣の形をした蒼白いものがいくつも浮かび上がる。ギルバの持つ剣とは違い、
こちらは両刃のものだ。幾重にも展開された幻視の剣を、ギルバはしかし驚くでもなく睨んで
いる。
「死ね」
地を這う声に、ダンテがびくりと震えた。自分がそばにいる限り、何も怖がることなどないと
いうのに。
それは一瞬の出来ごとだった。
常人を遥かに凌駕した運動能力を持つバージルですら、それを防ぐことは叶わなかった。
だというのに、“そのさま”だけはやけにゆったりとこま送りのように脳裏に刻まれていく。
そして差し出した手もまた、ゆっくりとして。
そうして、自分の手から、それは離れていった。
「ダンテ……!」
叫びを嘲笑うではなく、それを抱き留めた男がこちらを見据える。やはり包帯によって表情は
見えないが、笑っているとバージルには判った。嘲りではない。勝利を得たものの、誇った笑み。
ギルバに斬り裂かれた腕の痛みなど、欠片も感じない。しかしダンテが離れたそこはひどく痛む。
ギルバの狙いはやはり正確だった。幻視の剣は男を確かに斬りつけたが、男は怯まなかった。
急所をきれいに躱し、そして自分の狙いは外さなかった。忌々しい程に精練された剣筋。
もがれた片腕は地面に落ち、ギルバはダンテを傷付けることなくバージルから奪い去った。あと
指先一つの差。ダンテに届かなかった指を、バージルはぐっと握り込んだ。
ギルバに抱き留められたダンテは、何が起こったのか判らぬふうにきょとんとしている。ギルバを
見上げて自分を抱く腕が変わったことに気付き、大きな目を丸くしてこちらを見た。そして、
悲鳴。
「ッ……バージル!!」
ダンテの目は斬り落とされたバージルの腕に釘付けになっている。大きな瞳から涙が溢れるのが
見て取れた。
「バージル! バージルぅっ!!」
離して、とギルバの腕から逃れようとするが、それを許す男ではないことは明らかだ。ダンテの
後頭部に手をあて、自分のほうへ向かせて肩口にダンテの顔を伏せさせる。
「大丈夫だ、ダンテ。私がいる。あれはお前の為にならぬものだ」
「はな、せ、よ……バージル……!」
くぐもった声にバージルは眼光を鋭くし、また幻視の剣を展開させる。奪われたなら取り戻す
だけだ。ダンテは自分の一部であり、男のものではない。
「ダンテ、」
呼ばわれば、ダンテは必ずこちらに来る。躰は男の許にあっても、ダンテの精神はバージルの手の
中にあるのだ。
「バージル……っ」
応えるダンテの頭を、ギルバはまた自分の肩口に押しつけた。ダンテが窒息してしまわない程度に
だが、男が先刻の自分と同じ気分を味わっているのだと判る。やはり男は、バージルの基である
のだ。
ギルバはダンテの後頭部から手を離し、剣をだらりと提げた。
「ダンテが戻った今、貴様に用はない」
死ね、と。呟く声にやはりダンテが震えるのを見て、バージルは目を細めた。抱き締めて
安堵させてやりたくて、蒼白い頬を赤く染めてやりたくて。
……愛してやりたくて。
「ダンテ」
それはどちらの声だったろうか。
森に悲鳴が一つ、谺した。しかしその声は外に漏れることはなく。
森は静寂を守る。
ひっそりと、静かな森はそこに在り続ける。
ある川辺のまちを、黒い外套を着込みフードを目深に被った男がふらりと訪れた。旅人か、
それとも狩人か。どちらにせよまちは男を歓迎出来ない。男も判っていてすぐにもまちを去る
だろうから、わざわざ声を荒げる者はない。
旅人や狩人は、そう珍しくはなかった。しかしその日まちを訪れた男を、人々は皆一様に、
遠巻きながらも視線を送らずにはおれなかった。
男は何の変哲もない狩人だ。しかし単独で行動するのが当然であろう狩人が、腕に子供を抱いて
いるのだから異様である。子供はまだ幼いようだ。男と同じく、フードを目深に被っている為
顔立ちは判らない。ただ、外套からはみ出した指の細さと白さとが、人々の目をやけに引きつけた。
抱えられているとはいえ、指先すらぴくりでもないことも。
男はまち外れに宿を取り、次の日にはまちを後にした。子供はやはり男の腕の中にあり、そして
やはり、僅かな身動ぎすらしなかった。
――――人形、じゃないのか?
誰かが気味悪げに囁いた。まさか、と誰かが笑ったけれど、誰もその言葉を否定することは
出来なかった。
赤い眼が暗闇に光る。闇に蹲る小さな影は、何かに縋っているようだった。その何かは、闇に
溶けて形こそ目視出来ないものの、ひとのようではある。
影はひっそりと、それに寄り添って離れない。母に縋る子を思わせる光景。しかし影はひとでは
なかった。
横たわったものは、微動だにしない。そもそも生き物ではないのか、それとも死んでいるのか、
定かではなく確かめることも出来ない。ただ確かなことは、影はそれのそばを離れないということ
だけだ。
陽が昇っても、そこの闇は晴れることを知らなかった。故意に闇を作っているのではなく、
そこにはもともと一切の光源がないだけであるらしい。
闇に隠れるように、影はそれに寄り添うばかり。
ぽそり、と影が何ごとか囁いた。何かの名のようだが、正確なところは判らない。
影は囁く。
ずっと、ずっと一緒だよ。
離れないから。離さないで。
ずっと、ずっと。
か細い声。赤い眼がひそりと閉じられた。
ずっと一緒だよ、……?
横たわるそれは、やはりぴくりでもない。
森は静かに、密やかに、ただ佇んでいる。
童話編第1弾、『童歌』はこれで完結です。
ここまでお付き合い下さいまして、ありがとうございました。
[07/6/23]