童歌――――迷歌
夕陽のように紅く焼けた朝日が昇り、男は森の中にただ一人。
少年はふわふわの髪を枝に引っ掛け、小さな悲鳴を上げる。
完璧な容姿の男は、涙ぐむ少年の髪を優しく梳きほぐし。
それぞれが、それぞれに。思い思いにときが過ぎ。
森がざわめいている。樹々の葉がさざめくように揺れるのはいつものことだが、樹々が、草花が
ざわざわと何をか騒いでいるようだ。
バージルは紅い目を細め、辺りに神経を飛ばした。森は異物をすぐさま感知する。異なるもの
とは、人であったり動物であったり、森の外から入り込んだ何かを差す。
バージルの腕の中で、ダンテがもそりと顔を上げた。
「どうしたんだ、バージル?」
出遭った当初はひどく幼い口調で話していたダンテだが、森に馴れるにつれて次第に変化が
見られるようになった。雑な、とでも言うのか、随分と砕けた口調だ。
バージルはダンテの背中を撫で擦り、いや、と首を左右にした。何もないわけではないが、
何にせよダンテに危害を加えようとするものはバージルが排除するまでだ。ダンテが気に
かけることは何一つない。
しかしダンテは納得がいかなかったのか、バージルの頬にぺちりと掌をあてた。
「おれに言えないこと……?」
怒ったような、悲しそうな。どちらにも取れる表情のダンテに、バージルは肩を竦めて見せた。
「……人間が入り込んだらしい」
仕方なく、言う。するとダンテは目を瞠った。
「また?」
「あぁ、……」
人間が森に入って来ることは珍しくない。馴れたものならば異形に見つからぬよう上手く森を
出入りするものもあり、そういった手合いはバージルもいちいち気にはしない。もっとも、腹の
具合によっては“狩る”こともあるが。しかしその例を除いても、ここしばらく頻繁に人間が森に
入って来ることが続いていた。そしてその大半を、ダンテは自分の目で見ているのだ。
人は森を忌避し、畏れるものだ。それなのに、ここのところ妙に森に迷い込む人間が多く
なった。その理由はいったい何であるのか、バージルに判るべくもないし、興味もないことだ。
つん、とダンテがバージルの髪を引っ張った。痛みはない。
「なぁ、そのひと、迷ってるのか?」
「……いや、」
森の様子からしても、ただ森に迷い込んだ人間ではないことは明らかだ。森はすぐさま異物を
察するが、森や森に棲むものに害をもたらさぬものにはこれ程騒ぐことはない。餌がやって来た、と
異形らが騒ぐ程度だ。
ダンテはじっと耳を澄ました。しかし迷い人ではない侵入者――――狩人の可能性が高い――――
に怯えているわけでもなさそうだ。
「そのひと、こっち来るの?」
バージルはかぶりを振った。来ない、という意味ではない。
「何があろうと、私がいる。案じることはない」
小さなダンテを抱き締め、自分と同じ銀の髪に口付ける。以前は腕にすっぽりと収まる程
小さかったダンテも、今は脚がはみ出てしまう。森で育ったひとの子供は、しかしもう、バージルに
属した生き物になろうとしている。
青かった瞳が、じわりと血の滲むように朱を帯び始めたのはいつだっただろう。
バージルの精を受け続けた躰は、今や異形と呼んで障りのないものと変じていた。
親に捨てられたダンテには、バージルより他に縋るものを持たない。ダンテ自身が身に着けて
いたものはただの襤褸と、血のように赤い布が一枚きりだった。
その手に死しか持たされなかったダンテを拾い、我がものにしたのはバージルに他ならないが、
そうされることを強く望んだのはダンテだ。たとえ、寂しさがさせた選択だったとしても。
手を離しただけで泣き、どこにも行かないでと縋る小さな子供。もしもバージルがダンテの
前から姿を消したなら、この子供は寂しさのあまり死んでしまうのかもしれない。
「バージル、」
ひょ、とダンテが顔を上げてバージルを呼ばわった。バージルの肩越しに何かを見つけたらしい。
森に侵入した人間ではない。
「何か、聞こえた……」
バージルの耳は、おそらくダンテよりもはっきりとその“何か”を聞き取っている。しかし
バージルは詰まらぬことだと肩を竦める。
「気にする程のことではない」
「そう、なのか?」
ダンテの声が低いのは、耳に届いたものが何かをおぼろげに察しているからだろう。バージルは
ダンテの背を軽く叩いた。
「きりのないことだ。それよりも、ここは目立つ。移動するぞ」
畔に小屋の佇む湖は、不思議と人を寄せる。腕の立つ狩人ならばまず森で迷うことはなく、
知らぬ間に湖畔に辿り着くようなことはないだろうが、どちらにせよ場所が悪い。
バージルが駄目だと言えば、ダンテは滅多なことで口答えはしない。うん、と理由も聞かず頷く
ダンテに、バージルは無意識に口許を緩めていた。
兎のような長い耳と、兎にはない鋭い爪と牙を持つ異形を、男は一瞬で肉の塊に変えた。
銃火器の類は持ち合わせていない。得物に相当するのは、左手に携えた細身の包みのみだ。
男にとって、異形を狩ることは大して難のある仕事ではない。旅をして暮らす人間はほとんどが
狩人と呼ばれる職を生業とし、常に死と隣り合わせの生を送っている。力の足りぬものは死に、
引き取り手のない死骸は土に還るだけだ。孤独と死を連れ合いに、ただその日を生きる。安定した
生活を送る人間の中には、彼ら狩人を狂人と呼び蔑むものもいる。安定した生活に慣れたものの
目には、彼らの生き方は常軌を逸したものとしか映らないのだ。
もうずっと、男は狩人として生計を立てている。旅を続けることにももう慣れた。ただ時折、
不意をついて思い出すことがある。数年前に立ち寄った、あるまちでのことだ。
黒い影のようなものが男の背後から飛び掛かった。男は振り向くこともせず、右手をすいと
左手に携えた長物へやった。異形の鋭い爪は男には届かず。鏡のように真っ二つに斬り裂かれた肉と
なって地面に叩き付けられた。
男が振るったのは、一振りの細身の剣だ。片刃のしなやかに反った珍しい型の剣は、両刃のものに
比べて軽い。しかし切れ味の鋭さは優っており、扱いこそ難しいが威力の程は今し方の通りだ。
男は何ごともなかったかのように剣を納め、真っ直ぐに森深くへと入って行く。その足取りに
恐れや躊躇いはない。強い意志だけが、ひたすらに男を駆り立てている。
数年前、男がそのまちを訪れたのは、単なる道すがらでのことでしかなかった。
まだ陽は高いが、目的のまちへはまだ丸一日はかかる。急ぐ道程ではないからと、息を抜く為に
立ち寄ったにすぎなかった。連れのない旅は、ある意味で気楽なものだ。
そのまちは多くのまちと同じく、狩人を歓迎しはしなかった。男は蔑視されることに慣れており、
それ以前に体裁を気にするような人間ではない。一晩の宿を借りられれば充分で、宿の主人は金貨を
見せただけで部屋に案内してくれた。人など、そんなものだ。
大して特筆する程の何かがあるわけでもない、平穏なまちだった。人々は毎日をただ生きて、
そして死んでいく。命が繰り返されるだけの、平和なまち。
男は夜になってからまちへ出た。陽のあるうちは、人目を避けるのが身に着いているからだ。
しかし宵闇に包まれたまち中ですら、男は外套のフードを深く被ったまま、外すことはない。
一種の癖のようなものだった。
平和なまちの夜らしく、小さな酒場以外の家並みからはすっかり灯が消え、辺りは静まり
返っていた。男はまち外れの丘に脚を伸ばし、そこで見慣れぬものを見つけた。
何かの、塊。――――いや、小さな子供が頭から布を被っているのだと、すぐに判った。
明々とした月明りの下で、子供は途方に暮れたように座り込んでいる。こんな時間に、何故。
不審に思ったが、異形のものではないことは確かだ。
男が近寄ると、子供はようやくこちらに気付き、そしてぎくりと全身を強張らせた。月明りに
照らされた表情は、怯え。
――――済まぬ、驚かせてしまった。
子供はじっと男を見上げていたが、男が旅人だと名乗ると少しだけ緊張を解いたふうだった。
――――こんな時間に外に出ては、親が案じるだろう。
子供はしかし、首を左右にした。幼い子を案じぬ親などいるものなのか、男は訝ったが、
はっとして子供の頭からすっぽりと覆う布に手を伸ばした。子供がまた、ぎくりとなる。やめて、と
制止する声を無視して布を剥ぎ―――― 理解した。
銀の、髪だ。
子供が人目を避けるように夜中に丘に出る理由も、親がこの子供を案じない理由も、総てが
一瞬にして判ってしまった。男は子供の、悲愴な表情を浮かべる頬を出来るだけ優しく撫でた。
――――済まない。
謝罪をし、自らの被っていたフードを後ろに落とした。顔と頭に巻きつけた包帯を緩めると、
子供の目が丸く見開かれる。おんなじ。子供が呆けたように呟いた。男もまた、銀の髪を持つもの
なのだ。
子供は膝立ちの格好で手を伸ばし、男の髪に触れた。男は子供の細すぎる腰に腕を回し、
抱き寄せた。
親にすら疎まれ、人々に忌避される銀の子供。男は誰からも愛されない子供を、月が西の山に落ちる
まで腕に抱いていた。
出遭いは偶然にすぎなかった。しかし男にとって、その月夜は何よりも神聖な宵だった。
予定を変えて数日そのまちに滞在し、宵のごとに子供と逢った。それは密やかな逢瀬。男は初めて
心が浮き立つような気持ちを覚えた。
出来るならば、子供を連れて行きたかった。しかし旅をするには子供はあまりに幼すぎた。
また必ず逢いに来ると誓い、男はまちを後にした。
それ以来、あの子供には逢うことはなかった。
男は誓いの通り、再び子供のいたまちを訪れたのだが、遅かった。子供はその少し前に、
行方知れずとなっていた。
捨てられたのだ。
男は確信し、ひたすらに子供を捜し続けた。そうして、森に辿り着いたのである。
私的には書いてて何か楽しかったです。包帯氏が。