童歌――――陰歌
荷物は背に負った小さな背嚢と、手に提げた細い包みのみ。夜明け前に宿を引き払った男は、
街から出て街道沿いを歩いた。敷石で舗装された路は歩き良く、いちいち足許を確かめる手間が
ない。
馬車の行き来のしやすいよう整えられた街道は、旅を専らにする人々にも有り難いもの
だった。
しばらく歩き易い路を行き、夜が明ける頃を見計らって街道を逸れておもむろに藪に入った。
件の森を目指す為だ。
森へ入る為の正式な路というものは存在しない。あるのは獣道か、人が通れるかどうかと
いう細道だけだ。しかし、藪と森との境目は誰の目にも判る程にはっきりと在るというのだから
不思議な話だ。まるで、森がある種の城であるかのように、境界となる樹々はあたかも城壁の
ように。それでいて、侵入者を阻むことはなく。
細い包みを握る手に、知らず力がこもる。
日の出の赤い陽射を逃れるように、男は深い森へと足を踏み入れた。
銀は、遠い昔から悪いものを退ける色として重宝された。悪いものとはすなわち悪魔と
呼ばれるものであったり、悪霊であったりと様々だ。人を害する悪しきものに対峙出来る人間は
少なく、人々は魔除けとして銀を用いた。
が、銀は元々貴重な金属である。鉱山から採掘される銀の量は金に劣り、その稀少さから値は
自然に高騰した。貴族は大枚を惜しげもなくはたいて銀を求め、王は鉱山を独占した。小さな
むらやまちには、金になりそうなものを持ち寄って小指の爪程の銀を買うだけで精一杯だった。
そして現在から溯ることおよそ百年余り。ある内陸の一帯には、変わった噂がまことしやかに
囁かれていた。
銀は悪魔を招く。
余りに稀少にすぎる銀の存在へ、彼らはいつからか悪しきものへ向ける以上の感情を抱くように
なった。それは畏れであったり、或いは怒りであったかもしれない。銀を占有する王と貴族への
侮蔑もあっただろう。
誰が初めに囁いたのかは判らない。噂などそんなものだ。しかし貧しく哀しい人々は、噂を
ただの噂とは割り切ることをしなかった。
時折、不思議な子が生まれた。見たこともない美しい銀の髪をした子供だ。
生まれながらに銀を持つ子供は、古くは守り神や宝と呼ばれて誰からも愛された。しかし、
人々の心は変わる。
銀の子はいつしか悪魔を呼び寄せるとされ、人々から忌み嫌われる存在となった。生まれた子を
殺すことは禁忌とされている為に、彼らは生まれてすぐに命を奪われるよりも残酷な生を
強いられることがほとんどだった。仕合わせに死んでいった銀の子は、数える程もいない。生地を
追われ、髪を隠し、人々との接触を避け続けて生きることを余儀なくされた。
――――どうして、こんな。
精神を病み、自ら命を絶ったものは少なくない。髪を染めることは出来ても、引き抜くことは
出来ても、生を変えることは出来なかった。
とある町の、とある夫婦の話をしよう。
その夫婦には長らく子が生まれなかった。二人が出合い、夫婦となって早十数年。もはや子は
望めぬかと肩を落としていた頃、不意に妻が子を孕んだ。
もちろん夫婦は喜んだ。ほとんど諦めていた、待望の子だ。喜ばずにおれようものか。
十月十日をもどかしくも過ごし、そしてようやく、妻を陣痛が襲った。尋常ではない出産の
痛みにも喜びを噛み締める妻と、今か今かと待ちわびる夫を待ち受けていたものは、どうする
ことも出来ない絶望だった。
子は、銀を纏って生まれ落ちたのだ。
妻は我が子を見るなり発狂し、夫は怒りと嘆きに任せて生まれたばかりの子を布に包んで
捨てた。
それは今から二十と数年前の、とある出来ごと。
ぽちゃりと水面に小石が落ちる。暁に染まった湖は紅く、少年はじっと水面に映して日の出を
見つめた。波紋に合わせて揺らめく陽を、しかし彼には美しいものと感じる心はなく。ただ、
じっと見つめるばかりだ。
一糸纏わぬ彼の肩に、後ろから何かの毛皮を掛けたものがある。銀髪赤眼の人ならざる
ものだ。
「風邪を引くぞ」
声音こそ淡々として冷たいが、少年は首をのけ反らせて男を見上げ、にっこりした。
「さむくないから大丈夫だって」
子供の体温は確かに高い。しかしだからと言って風邪を引かぬ理由にはならない。男は少年の
背後に腰を下ろし、少年の痩身を毛皮で包み込むようにして膝に抱き寄せた。男は少年とは逆に
体温は低いのだが、こうして抱き締めていれば二人分の体温で充分に暖かい。
少年は大人しく男の腕に納まり、嬉しそうに男にさして重くもない体重を預けた。
「お日さまってさ、」
唐突に少年が口を開く。男は相槌を打つでもなく耳を傾けた。
「どうしてお月さまみたいに欠けたりしないんだ?」
「ふむ……では、逆に月は何故欠けるのだろうな?」
思わぬ問い返しをされて、少年ははたと目を瞬かせた。
「ほんとだ。なんで欠けるんだろ……」
「お前は知らぬのだな。陽もまた、時に欠けることがある」
「そうなの?」
「月の満ち欠けとはまた違うがな。滅多には見れぬものだが、陽が完全に姿を消すこともある」
「お日さまがいなくなっちゃったら、どうなるの?」
いっそ悲愴と言える表情で男を振り仰ぐ少年の、つるりとした額を男が撫でる。そして手入れを
疎かにしても艶を失うことのない髪を梳く。
「消えると言っても、僅かな間でしかない。その一瞬、真昼であろうと世界は闇に包まれる」
「まっくら……?」
「あぁ、」
その、真昼を覆う闇を想像したのか、少年は男の首に縋るように抱き付いた。こわい、と囁く
声は震えており、男は少年の背を軽く叩く。
「闇が恐ろしいか?」
ふる、と。少年は躊躇いがちに男の肩に額をすり付けて首を振る。
「バージルがいるから、大丈夫」
ならば、と男は少年に問う。
「……私がいないとすれば、どうだ」
少年が息を飲むのが、男にはありありと判った。同時に、問い掛けに対しての答えも。
言葉すらなくし、顔を上げることも出来ずにいる少年を、男は強く抱き締めた。
「済まぬ。栓ないことを言った」
きゅう、としがみついてくる小さな子供を、男はただ抱き締め、柔らかな髪に口付ける。
胸にある慣れぬ感情を少年に与えたくて、しかしどうすればそう出来るのかが男には判らない。
だから、という理由ばかりではないが、男は度々、少年を抱く。
「離しはせぬ」
囁く声は低く、少年の耳に、膚に溶けるように。
「お前は私のものだ。ダンテ」
男と同じく銀を持つ少年は、小さな手で人ならざる男にしがみつき、こくんと一つ頷いた。
陽の消えた日に、それは森の中で生まれた。
もとは名もなきただの影。
闇から出でし影は、世界が闇に覆われたその日、とあるひとに出遭った。
口もなく、腹もない影は、ひとの血を飲む代わりに声を真似、肉を噛む代わりに姿を写した。
銀色の髪、白い膚、整った鼻梁。そして瞳は禍々しい紅。
姿を奪われたひとは間もなく闇を逃れ、長らく棲んだ森を後にした。
森にはひとの姿をした影が“ひとり”。
ひっそりと、森は闇を孕む。