童歌――――妖歌
深い森は、あたかも一個の生き物であるかのように。
湖畔にひとり、幼い少年が水と遊んでいる。さらさらの銀髪が陽光を弾いて白に輝き。
柔らかく笑みの形を作る唇は紅く。滑らかな膚は透けるような白磁。
少女と見紛う程に愛らしい顔立ちの少年は、何をするでもなく、細い足を水に浸して時折
ぱしゃりと蹴り上げなどしている。ぼんやりとした瞳は湖の碧を映し、しかし何を見つめている
わけでもない。
不意に、少年の影を覆ったものがいた。姿形こそ森の外に住むひとと変わりないが、禍々しい朱の
瞳がそれを異形であると物語っている。
少年は異形を仰ぐ形で見やり、その瞳をさも嬉しそうに輝かせた。異形もまた鋭い瞳を緩め、
少年の頬を指先でなぞる。少年はくすぐったそうに笑みをこぼした。
今し方まで湖を映していた瞳は、今は長身の異形のみを映し。その色は、異形のそれに似た
淡い緋。
あるまちに、その噂はいつの間にやら蔓延していた。
森に子供の姿をした化け物がいる。
人々は口々に噂を唱い、しかし皆、その幼子の姿形をしているという異形を恐れたふうはない。
噂を語る彼らの目にあるものは、ひたすらに純粋な好奇だ。
人々が森を忌避し、恐れて気の遠くなる程の歳月が流れている。しかしこれまで一度足りとも、
森に棲む何かに人々が好奇を惹かれたことはなかった。一部の、そういった異形を狩ることを
生業としている人間は別として、だ。
幼子の姿をしたそれが、何故これ程までに狩人でもない人々の目を輝かせるのか。
俄かに活気に満ちたまちを訪れた男は一人、誰の耳にも届かぬ程度に溜息を吐いた。下らない。
酒場でちびちびと不味い酒を舐めながら、男は背後のテーブル席で息を巻く男三人の話を、
耳を傾けるでもなく聴いた。内容は、件の幼子だ。
店中に響く不快な嗄れ声の男は、噂が立つ前から時折森に足を踏み入れているという。狩人では
ない。まちの周囲にはない植物を採りに行っているのだとか。その日も森に入り、化け物に
見つからぬようそっと植物を探していたところ、その時に限って迷ってしまったと言う。
「全く違う景色になってるもんだから、焦ってよけい迷っちまったんだ」
だがそのお蔭かどうか。今まちで噂の中心となっているものに、偶然出合ったのだそうだ。
「小さな湖があって、畔にこれまた小さい小屋があったんだ。身を隠すのには逆に目立っちまうが、
それより休みたい方が勝って戸を開けようとして……」
驚いた。勿体ぶって男がにやにやとする。不快なのは声だけでないらしい。
「例の子供がよ、いきなり現れやがったんだよ。おじさん誰? なんて小首を傾げて俺を見上げて
来るんだ。紅い眼で化け物だってすぐに判ったが、問題はその子供じゃねぇ。もう一匹、こっちは
ガキじゃねぇが、化け物がいたんだ」
やけに綺麗なツラした、真っ赤な眼の化け物さ。
驚き腰の抜けた男を、そのガキではない化け物は殺そうとした。が、子供の方がそれを止めた。
このおじさんは狩りをするひとじゃないんでしょ、と。
「狩人だけを殺す化け物なんざ聞いたことねぇが、お蔭で俺ァ助かったってわけだ」
散々迷った道も、化け物二匹に導かれるまま歩いていたら、いつの間にやらまちに辿り着いて
いたと言う。
「不思議なもんだよ。森を一歩出てみれば化け物の姿はどこにもねぇ。どんな奴だったかもよく
覚えちゃいなかった。しかし、なんだ……」
あの子供の化け物が、やけに可愛いかったのは覚えてんだよ。
妙に真剣な言葉に、仲間の二人が顔を見合わせて笑った。お前、そんな趣味があったのか。
お前には俺のガキは会わせられねぇな。揶揄され、そんなんじゃねぇ、と慌てる男に、また笑いが
起こった。
森に迷い込み、幼子を見たという人間は他にも数人、いる。下手な人間より美しい異形に寄り添う
ようにしていたことも。しかし皆、その姿をはっきりとは覚えていないのである。
あの子供は可愛かった。
それだけを鮮明に覚えている所為か、噂ではその部分がやけに強調され、結果まち中の人々の
好奇を誘ったのである。だが誰も、好んで森に入ろうとはしない。やはり皆、自分の命と天秤に
かけることは出来ないのだ。
男は布に包んだ細身のものを左手に持ち、酒代を置いて店を出た。荷と言えばその棒状のもの
くらいで、後は厚手の外套を羽織っているだけだ。
旅をするにはあまりに軽装で、しかしただ者とは思えぬ男を、酒場の亭主は他の客と変わりなく
送り出した。余計な詮索はしない。それが、この亭主の信条だ。
酒場を出た男は、一度宿に戻ることにして足をそちらに向けた。出立は翌早朝。夜明け前に、
森へ入る。
男は始めから森へ行く為にこのまちに立ち寄ったのだ。目的は噂の中心である、件の幼子だ。
森の周囲には、このまちの他にもいくつかまちがある。男がここを選んだ理由は、やはり噂を
追って来たからだった。火のないところに煙は立たない。噂を辿った結果、幼子の話はすでに
どのまちにも広まっており、そして実際に幼子を見たという人間は、このまちにしか
いないのである。
何故か、など男にはどうであろうと構わぬことだ。件の幼子が本当に森に棲んでいるかどうか。
それだけが判れば充分だ。
森がざわめいている。
ダンテはひょいと俯せていた顔を起こした。夜に樹々が囁くように騒ぐことは珍しくなく、
ダンテもそれは慣れている。始めこそ、耳慣れぬ音に恐怖を感じて震えていたけれども。
どうした。ダンテが起きたことを気配で察し、目を覚ましていたバージルがダンテの剥き出しの
肩に毛皮をかぶせた。伸ばした腕でダンテの肩を抱くようにして抱き寄せ、ふわふわの
髪を梳く。
ダンテは猫のように目を細めた。バージルの指が髪や頬、そして膚を撫でてくれるのがダンテは
この上なく好きだ。ざわめく樹々が怖くて眠れない夜も、バージルに抱き締めて貰っていれば
ひどく安堵出来る。
何も持たないダンテにとって、バージルは唯一であり、総てである。
バージルの為ならば、と気負うことなく、ダンテはバージルに総てを捧げている。それは
精神的なものもだが、肉体の総てを余すところなくバージルに捧げているのだ。
依存という言葉では足りぬ。
ダンテは既にバージルに属したいきものになっている。
すり、とバージルの胸に頬を寄せるダンテは、まるで母猫に縋る子猫のようだ。変わらず髪を
梳くバージルの指、眠れないのか、と問う声は優しい。
ダンテは男の胸に額を擦りつけるようにして首を左右にした。眠れないのではない。不安に
なっているのでもない。
仕合わせであることが少しだけ怖いと感じているのだとは、ダンテは自覚しておらず。
ただ、バージルにしがみついた。バージルの纏う微かな錆のような匂いをいっぱいに吸い込み、
また眠りの淵に沈んでいく。
いつまでも髪を撫でてくれるバージルの指の感触が、ダンテに何かを思い出させようとして
――――そのまま、眠ってしまった。
森がさざめく。
樹々が囁く。
異形を狩るものが、来る。
子ダンテがちょいと、バージル寄りのイキモノになって来てます。