童歌――――獣歌
ざわりと森の樹々がざわめいた。男は立ち止まっり、背負った細長い包みに手をやったが、
すぐにその手を躰の脇に戻した。分厚い手だ。その手に見合うように、男は身の丈も人並み
以上あり、躰付きも大きい。
森には、人の気配はない。人々にとって畏怖の存在である森に、男は遊びで訪れたのでは
決してない。
背負った包みが、がちゃりと金属の擦れるような音をたてた。
ダンテはいつものように洞窟の寝床で目覚め、ぐっと伸びをした。草を敷き詰めた寝床は、
思いの他暖かい。毛布代わりと言って毎晩バージルが抱き締めてくれる為、寒さを感じたことは
ない。
生家では味わうことの出来なかった暖かみを、バージルはくれる。だからダンテはいつでも
仕合わせだ。
伸びをし、ついでに欠伸をして、目許の涙を拭ったダンテをバージルが抱き寄せた。食糧を
採りに出掛けるのだ。朝のものは朝に探し、晩は陽が落ちきるまでに探しに行く。貯めるという
ことをしないのは何故なのか、ダンテはしかし問うたことはない。
バージルと離れずに、一緒にいられるならば何だって良い。
ただそれだけが、ダンテの総てだった。
実の両親に捨てられた。その時ダンテは一度死んでいる。それを生き返らせたのが、他の誰でも
ないバージルなのだ。
ダンテにはバージルしかいない。それは何も極端な比喩などではなかった。
「どうしたの、バージル?」
抱き上げられた腕の中、ダンテはバージルのどこか精神を張り詰めさせた顔に首を傾げた。
「何かいるの?」
この森にはバージルの他にも、ひとではない生き物が棲んでいる。ダンテがそれを知った
――――気付いた――――のは、先日バージルと件の湖畔に出掛けた時のことだ。
兎に似た何かに、襲われた。バージルがすんでのところで助けてくれたお蔭で、噛み付かれる
こともなかったけれど。犬のそれよりも鋭い牙に噛み付かれていれば、ダンテの細い首など食い
千切られていただろう。
恐ろしくなってバージルにしがみつくと、バージルは背中を撫でさすってあやしてくれた。
済まぬ、と助けてくれたのにどうしてか謝るバージルに抱かれ、すんすん泣いた。
以来、ダンテは本当にバージルの側を片時も離れないようになった。いや、ダンテは元より
バージルから離れることは稀なのだが、バージルが滅多なことでダンテを腕から下ろさなくなった
のだ。
それは「済まぬ」と侘びた言葉に因るのかもしれないが、ダンテにはただ嬉しいこととしてしか
認識されなかった。
あの兎の他にも、いろいろなものが棲んでいるのだとバージルは教えてくれた。いつか見た、
木陰に隠れていたものもそうなのだと言う。
だから、今バージルが神経を研ぎ澄ましているのも、何かが近付いているからかもしれぬと
思ったのだ。
しかしバージルは、ふっと視線をダンテに戻し、首を左右にした。
「行くぞ」
何もないわけではないのだろう。しかしダンテはバージルの首に抱き付き、うん、と頷くだけ
だった。
人々が恐れる伝説上の怪物というものは、たいてい森を棲処にしているものだ。男の暮らして
いるまちにもそういった伝説は数多くある。そして人々は真相を暴くこともせず、ただ恐れる
ばかりだ。
詰まらないことだ。と男は思う。
嘘か本当かも判らない伝説上の生き物に、ただ怯えるなど馬鹿げているではないか。しかし
人々に根付いた恐怖の根は深く、男のような考えを持つものは逆に異端とみなされ忌避された。
人々は愚かだ。
男はまちを離れ、ただ一人で生きる道を選んだ。ひとところには住まず、得物だけを供に生きる
狩人。男が連れ合いに選んだのは、少し古びた銀の猟銃だった。
背の高いバージルの腕に抱き上げられると、視界は一転する。視線が一気に高くなるのだ。
ダンテは嬉しがってはしゃぎ、何度バージルの腕から落ちかけたか知れない。その都度、
バージルに笑われた。
いつも一直線に引き絞られたバージルの唇は、言葉を話すこと自体があまりない。しかし
ダンテはバージルの声が好きだし、笑ってくれると嬉しくなる。
ダンテはバージルの首にしがみついたまま、ふふ、と笑った。息で判ったのだろう。バージルが
どうかしたかとダンテの背を軽く叩いた。
肩口に頬をすり寄せるように首を振り、ダンテはなんでもない、と声を弾ませた。
「ねぇ、バージル、すきだよ。大好き」
そうか、と掠れたような声が、やはり好きだ。
「バージル……」
意図せず切なげに呼ばわると、バージルの手がダンテの柔らかい腿に触れた。
「良いか、」
バージルが問う。ダンテの答えは決まっている。
「うん」
樹々の影に隠れる為でもなく、バージルはダンテの背を木の幹に押し付けた。そうして始まる
行為を、ダンテはいまだ性的な交わりとして認識していない。
一心にバージルに自身を捧げる姿は、さながら獣に食らわれる贄のようだった。
それを見つけたのは、森に入って一刻程になろうかという頃だった。酷く異形の気配に
ひしめいている森の中、疲労を感じながらも進み続けた足を、不意に止めた。
それは密やかな、何かの息遣い。
男は銀の猟銃を抱え直し、身を屈めた。何かがいるらしい場所からは、まだ少し距離がある。
しかし狩りは慎重にしなければ、せっかくの獲物を取り逃がしてしまうのだ。
足音を殺し、気配を消してにじり寄る男に、それはまだ気付かない。
木にと草に紛れ、徐々に近付いて行きながら、男はあることに気が付いた。この息遣いと
衣擦れの音は、もしかしなくともひとのまぐわうそれではないか。
こんなところで物好きな。
男は銃をしっかと握る自分が馬鹿らしくなって、しかしそれでも音はたてずに銃口を地面に
向けた。
馬鹿らしいといえば、こんな森の真ん中で行為に耽っている人間もだ。何か事情があるのかも
しれないが、それにしてももっと場所を選べば良いものを。
肩を竦めた男は、しかしふと、気付く。女の喘ぎと思っていた声や吐息が、実は女のものでは
ないということに。高いけれど女ではないこの声音は、子供のものではないだろうか。声だけで
性別までは判らないが、相手の男は子供を攫って来たのかもしれない。そして追手のかかりにくい
森に逃げ込み、悠々と子供を犯しているのだろう。
それにしては、子供の声には嫌がっているふうがないのは何故なのか。
樹々の隙間から、僅かに男の背が見える。男に蹂躙される子供の細い脚が、律動に合わせて
ゆらゆらと揺れる。子供を抱く趣味は持ち合わせていないが、その白い膚に男はぞくりとした
ものを覚えてしまう。無意識に、喉が上下した。
じりじりと、近付く。行為に耽る彼らは、こちらに気付かない。あと十五歩程の距離まで
近寄って、男はぎくりとした。こちらに背を向けて子供を揺さぶる男。どうして気付かなかった
のか、あれはひとではないではないか。
姿形はひとのそれを象っているが、生業上異形を狩ることも多い男には判る。あれは忌むべき
異形のものだ。
ならばあの子供は、異形に人里から攫われて来たのだろうか。まちによっては女を贄として
森に送る風習をもったところもあるが、この森の周囲にそんなまちはなかった筈だ。
男は一度は下ろした銃を、再び構えた。
異形を狩り、子供を救う。男の頭には、もはやそのことしかなかった。
聞いたこともない大きな音に、ダンテは悲鳴を上げた。真ん丸に見開いた瞳には、変わらず
バージルのみが映っている。
バージルが自分を抱いたまま、地を蹴り横に飛んだことにダンテは後から気付いた。
「……無粋な」
バージルの呟きが耳に届く。ダンテは恐ろしくなってバージルにしがみついた。
「ばぁじる……」
今のは何。
訊こうとしたダンテを遮るように、またあの大きな音が響き渡った。その寸前に、バージルは
樹の上へと跳躍している。
「……ひんっ……!」
バージルの動きがそのまま律動となり、ダンテを苛む。しかしその激しい動きによる衝撃よりも、
未知のものに対する恐怖がダンテの心を占めていた。
こわい。
バージルに縋る手がかたかたと震える。それは手ばかりではなく全身が震えているのだが、
ダンテは自覚していない。
「大丈夫だ」
ダンテの背を撫で、バージルが囁く。大丈夫。繰り返される言葉に、震えが少しずつ治まって
くる。それでも、バージルがいまだ緊張を解かないでいることがダンテには判ってしまい、
恐怖は根付いたままだ。
「ばぁじる……こわいよぅ……」
訴えると、バージルはダンテの恐怖を拭う為か、軽くダンテの躰を揺さぶった。不意に襲い来る
快楽の波は、ダンテにとって何ら恐ろしいものではない。
「っ、ぁふ……ばぁじ……ぅん……ッ!」
バージルの与えてくれる快感を追うことに必死になり始めたダンテには、バージルの囁きを
理解することは出来なかった。
「少し、堪えろ」
何を? 問うた時には、既にバージルは樹の上から先刻の場所に戻っており。何かの叫び声が
森にこだまするが、それが何の声なのか、ダンテには判らない。
どこかで嗅いだことのある、濃い鉄錆の臭いにダンテは鼻をひくひくさせた。バージルは
変わらず、ダンテを貫いている。
「ん……ふく……っ?」
見れば、バージルの頬に赤い染みが一つ、二つ。ダンテは伸び上がり、バージルの頬に手を
添えてその染みを舐め取った。どこか甘みのある、けれど味わったことのない味だ。
ぺろりと突き出したダンテの舌を、バージルが食むようにして舐めてくれる。絡む唾液に、
今し方の不思議な味が薄れて消えてしまった。ダンテはバージルの首に腕を回し、もっと、と
口付けをねだる。
濃い血臭の漂う中で、ダンテは酔ったようにうっとりとして、バージルにその身の総てを
捧げた。