蒼檻――――\
兄の剣には、相変わらず血が纏わりついている。そう評するダンテの剣こそ、もう血にまみれて
血臭が消えないのだけれど。
兄の剣からは、いつも血のにおいがした。
彼らがそれぞれの剣を初めて手に取ったのは、もう昔の話だ。兄は細身で片刃の剣を。ダンテは
大振りな両刃の剣を。お前らしい、と評したのは兄で、アンタもな、と言い返したのはダンテだ。
彼らの分身とも言える、父の形見の剣。それぞれがそれぞれにあまりに似合いすぎて、躰の一部と
言っても過言ではなかった。
兄の選んだ剣を、ダンテは自分には向かないと思えど、好きだった。清廉潔白。それでいて、
どこか危うい美しさが、まさに兄そのものだと思った。
愛していた、と今になって思う。いや、生まれたときからダンテの愛するものは兄しかいなかった。
もちろん父母のことは愛していたが、兄とは違っていた。兄はダンテの総てだった。
父が、母がいなくなってしまった後、ダンテには本当の意味で兄しかいなかった。ふたり、
いつまでも寄り添って生きるのだと、真剣に、当たり前のように思っていた。
しかしダンテは今、ひとりきりだ。
見上げる先に、どこまでも蒼く高い空。嫌味な色だと見上げるたびに思った。今は、何とも
皮肉な色だと思う。この青も、自分とはついに交わらない。どこまでいけども、蒼はダンテを
受け入れなかった。これからも、そうだ。
蒼はいつも、ダンテから遠のくばかり。こちらから近付くことは許されず、あちらから近寄る
こともない。
孤独とは、いったいどちらの為の言葉だろうか。
彼らは二人きりの兄弟で、双子で。誰よりも近しく、そして誰よりも遠い。それが判っている
から、ダンテは最後には半身を諦めるしかなかった。
ダンテにとって、闇は己だ。今でこそ、そう強く感じる。悪魔の血は半分だけと言えど、
ひとのそれよりも遥かに濃いことを自覚したのは、自らの身を悪魔に変じることを覚えてからだ。
初めこそ不完全な姿にしかなれなかったが、今では立派に悪魔の一員だ。
こうして人型を基本にしてはいても、結局ダンテは悪魔なのだ。人として生きることを教えて
くれた母には申し訳ないが、こればかりはダンテにもどうしようもない。
闇は心地が好い。
自分より先に闇に飲まれた兄を想うとき、ダンテはこういう気分だったのかとぼんやりと思う。
闇を理解しなかった自分に、兄は苛立っただろう。腹立たしかっただろう。
引き止めるダンテの手を斬り裂いて、自ら魔界を選んだ兄。自分には兄を引き止める権利など
なかったのだと、今は嫌という程判る。だから、今でもまだ、つらい。
結局ダンテは闇に属するいきもので、しかし先に闇に還った兄とは、やはりひとつになることは
なくて。
途方に暮れたまま、ただ息をする。そうしてもう、何年になるだろうか。
馴染みの情報屋には、会うたび呆れられる。また白くなったのじゃないか。前より痩せただろう。
言われるたび、ダンテは肩を竦めて笑う。改善するつもりも、出来る可能性もないのだから、
笑うしかない。もっともそんな会話をする頻度も、最近めっきり減った。ダンテは家を出ることが
めったになくなり、たまに出る時は夜――それも仕事で――がほとんどだ。
エンツォとは、本当に稀にしか会わなくなった。それでもエンツォはダンテの顔を見れば声を
かけてくるし、決まった会話をするのも相変わらずだ。
自分はまだ息をしているのだと、エンツォを筆頭とした顔馴染みに会うとひしひしと感じる。
家に閉じこもっているときのダンテは、死んでいるのと変わらない。
途方に暮れて、そのまま息を引き取る。それも悪くないと、思う。
目の前に、男がいる。ダンテよりも少し年若い、よく似た顔立ちの男だ。名前は知っているが、
ダンテはあまり呼んだことは。いや、その名は何度も口にした。舌が爛れる程呼ばわった。が、
この男を呼んだのでは、決してない。
男は鞘に収まった剣を左手に提げている。ダンテはそれを、じっと見た。血の臭気がする。
男からはいつも血の臭いがしたが、やけに新しい臭いにダンテは眉を顰めた。何かを斬って来た
のだろう。それが何かは、ダンテには判らない。
「邪魔な虫を薙いでやっただけだ」
どうということもなさそうに、男が言う。ダンテはいっそう眉を顰めたが、追求はしなかった。
独断専行を絵に描いたようなこの男には何をか問うても無駄だろう。
男はひそりと笑んでいる。冷たい目だ、とダンテは思う。ダンテの兄も、いつも冷たい目を
していた。ダンテが兄の目に炎を見たのは、ただ一度だけだ。
「今、帰りか」
男が妙に平坦な声音で問うた。あぁ、とダンテが負けず劣らず淡々と返すと、男はゆるりと踵を
返した。帰るぞ、と。まるで自分の家に帰るかのように、言う。
あれは俺の家なんだが。
とは、ダンテは言わない。男にすれば、ダンテの棲処はつまり自分の棲処なのだろう。突然姿を
表わして以来、当たり前のようにダンテの棲処に居着いている。ダンテのものは自分のもの。
それが当たり前だと、思って欠片も疑わない。
ダンテは澱みのなく歩く男の背中を眺め、内心で呟く。
(身勝手なところは同じ。だが、)
決定的な違いが、ある。それを男は知らない。知らないからこそ、ダンテの態度に腹を立てては
潰すようにダンテを抱くのだ。ダンテは男を受け入れながら、その実全く受け入れていない。
それがありありと判るから、男はより苛立つ。より冷酷になる。
(報い、だ)
己も、男も。互いが互いの諸行を罰する為にここにある。しかしそこに救いなどあろうものか。
あるのはただ、決して消えぬ罪ばかり。
己も、男も。
男のほうはそれを罪と思っていないらしい。凝りもせず、自分を捜して時を超えてしまえる
程度には、男の精神は異常と言える。かと言って、自分が正常とはダンテは間違っても思わない。
狂っている。今は正常のふりをしているだけで。
(アンタも、狂ってる)
男の背に、投げ掛ける。もちろん男の耳には何も届かない。ダンテは口数が少ない以上に、
言葉を紡ぐことをあまりしない。必要であっても、言わない。言って何かが変わったことは、
これまで一度もなかった。
変わって欲しかった。けれども、変えるだけの力をダンテの言葉は持っていなかった。だから
ダンテは言葉をなくした。兄の為の言葉は、ダンテの中のどこを捜しても、ない。
(どうして、俺だ?)
何度も訊いた。しかし男が要領を得た答えを呉れたためしはない。それはそうだろう。男は
自分の行動を疑問に感じたことがないのだから。むしろそんなことを問うダンテのほうが
おかしいとさえ言う。
自分がおかしいとは、思わないのだ、この男は。
風に混じって、血の臭いが鼻をかすめる。嗅ぎ慣れた臭いに、ダンテはふと疑問を持った。
(何を?)
兄は何を斬ったのか。真新しい血の臭気は、ダンテがいつも狩るものとは違い、嫌な腐臭が
しない。つまり、これは。
「誰を斬った」
男が脚を止めた。家まであと、十数歩。男はくつりと笑った。
「お前の潔癖は、変わらずか」
嘲笑うような口調に、ダンテは眉をしかめた。男は背を向けたまま。こちらを見やる必要も
ないということか。
「邪魔な屑を片付けただけだ」
さも詰まらなさそうに、男は言う。屑。人を斬ったということを否定もせず、さらに屑と
言い切る男に、ダンテは嫌悪を覚えずにはおれなかった。その反応を、男は変わらないと言う。
自分が殺してきた“弟たち”と同じだと、笑う。
「誰を斬った」
重ねて問うた。この世界に、人々に接点のない男は、いったい誰を斬る必要があったのか。
無意味を厭う男は、いったい誰を斬らねばならなかったのか。
――――嫌な予感がした。
ダンテの予感を察したように、男がまた、くつくつと笑った。
「護衛とは名ばかりだな。お前には誰も守ることなど出来ん」
頭を殴られたような衝撃。しかしダンテは自分でも不思議な程、冷静だった。
「斬ったのか。あいつを」
「そうだ」
話は終わりだ。そう言わんとしてか、男が足を踏み出した。ダンテはそれを、ただ見つめる。
言葉はなかった。ダンテは元より言葉を持たないし、男もまた必要以上の言葉を生まない。
男の靴音だけが響く中、ダンテは全く異質の音を聞いていた。それは、ぺきり、だとか、ぴし、
だとか、乾いたものが軋むような音に似ている。
男の耳に、それが届いたかどうかなど、ダンテは知らない。今になってこちらを振り返った男は、
不愉快そうに目を細めた。
「お前は、やはりあの男に傾倒していたか」
「違う」
思いの外明瞭な声が出た。男も意外だったらしい。動揺をおもてに出すような迂闊さはないが、
その行動は明らかに迂闊だった。
「この茶番も、終わりだな」
呟いた声が、やけに反響する。ごきりと内側で骨が鳴った。異形に身を転じていく自分をして、
久しぶりだ、と妙にしみじみと思った。久しぶりだが、これが自分の本来の姿なのだとも、思う。
ひとの形で生まれはしたが、きっと死ぬときは悪魔の姿なのに違いない。だから、歳を食うごとに、
悪魔に近しくなっていくのだろう。
ぴき、と背中の、肩甲骨の辺りに亀裂が入る。蝙蝠のそれに似た翼がぬるりと現れ、既に顔立ちは
ひとのものではなくなっている。黒い、闇色の悪魔。ダンテの本能を現にした醜い姿に、男は
しかし魅入られているようだった。
茶番だ。ダンテは独りごち、猛禽のように伸びた鉤爪を緩く握りこんだ。
最後の堰は切れた。溢れんばかりに溜まったものが、流れ出す。それは果たして怒りではなく、
ダンテの心は静寂に満ちている。
「バージル、」
ふくりと笑う。そこには、純粋な闇があった。
出来れば次で完結させたい…