蒼檻――――]
彼は荒野に佇む。
手には一振りの剣。切っ先からは紅い雫。ぽたりぽたりと渇いた地を濡らし、染めていく。
彼の立つそこを中心に、紅は池のように拡がっていた。
紅く染まった剣と地を見つめ、何故こんなにも緋が拡がっているのか、彼は不思議に思った。
自分は何かを斬っただろうか、屠っただろうか。全く覚えていない。何かを斬った感触も、何かを
屠った手応えも何もかも、覚えていないのにどうしてだか剣とその先の地面が紅く染まっている
のだから、不思議に思わずにはおれない。
そもそも、何故こんな荒野に佇んでいるのか、彼にはそれが判らなかった。
ここはどこなのだろう。何もない、荒れて渇いた土地だけが広がっている、言葉通りの荒野。
こんな場所を、彼は知らない。こんな荒野に脚を運んだ記憶もなかった。
何故、ここにいるのだろう。あえてここに佇んでいるのだから、何かしら理由がある筈だ。
しかし考えても、判らない、という途方もない答えしか出ては来なかった。
荒れ野には風すらひそりともない。どんよりとした雲が空を覆い、一切の陽射を遮っている。が、
辺りは闇に包まれているのではなかった。空の光源は雲に隠れて姿を見せないが、辺りはぼんやりと
した灰色に満ちている。そこで初めて、その荒野に色がないことを悟った。その中でただ一つ色を
喪っていないのが、緋だった。
禍々しい、緋色。鮮やかな朱ではなく黒の一滴混じった緋は、もはや美しさとはかけ離れている。
自分の身に流れている緋もまたこんな色なのだろうと思って、彼は嗤った。
この身をくれた父母を蔑むつもりは欠片もない。父母のことは今でも深く愛しているし、
その愛情を疑ったことは一度もない。いつからか、自分は父母の望まぬ躰になってしまっていた
のだ。陽よりも闇を好む躰に、いつからか、なっていた。
誰が――――何が原因というわけではない。彼は自ら闇を選んだ。そして、
そうだ。だから自分はこの荒野に在るのだ。
ここに闇はない。しかし陽もない。中途半端な自分が闇を選んでも、闇のほうが彼を受け入れ
なかった。人にも悪魔にもなれず、どこまでも半端な存在が、いられる場所などどこにもない。
荒野は痛い程の無音で満ちている。木も草も枯れて倒れたそこにただひとつ、立ち尽くす自分。
異質なものはこの荒野にあってすら、何にも交われずにただ佇むしかない。
結局、彼は何者にもなれず、またどこにも存在し得ぬのだ。
双子の兄がいた。同じ日、同じときに同じ母から生まれ落ちた、文字通りの半身。しかし彼の
片割れは、この荒野には影すらなかった。それはそうで、彼の兄は始めから闇を自らの還る場所と
悟っていた。己が在るべき場所は闇であると確信し、その通りに兄は闇へと堕ちた。兄を理解する
ことが出来なかった彼は、取り残され、終には兄をその手にかけた。
彼らは双子だったけれど、決定的に違ったいきものだった。
この荒野に兄がいないのは、当然のことなのだろう。それを寂しく思うべきなのか、どうか。
彼には判らない。ただ、佇む。
剣に纏わりついた緋は、いつまでも乾かずに地を濡らし続けている。
「おい、いんのか?」
エンツォは明かりもなくひっそりとした事務所のドアを叩き、何の返答もないことに肩を竦めた。
数年前にはけばけばしいネオン――――悪趣味な看板だった――――がてらてらと
光っていたものだが、それに灯が入らなくなって以来、この店は寂しくなるばかりだ。
店の主もまたひっそりとして、ほとんど外へ出るということがなくなって久しい。
あの男の腕なら、自ら探し回らなくとも仕事は舞い込んで来る。良いご身分だ、と
酒を酌み交わしながら笑ったのが遠い日のことのようだ。
「ダンテ、本当にいないのか?」
あの男ならば、電灯も点けずにぼんやりとしていそうだ。戸を叩いて返答がないからと言って、
すなわち留守だとは限らない。
ダンテと知り合ってもう長いが、年々、危うい雰囲気が濃くなっていくようだった。もともと
命知らずで危なっかしいところはあったが、そういう意味ではなく――――存在そのものの
危うさを感じさせる、とでも言うのだろうか。
(息をしてるつもりで、実はしてなかった、なんてこともやつなら有り得そうだ)
冗談では、本当になかった。ダンテは一度、行きつけの酒場で倒れている。丁度エンツォが
出入りしていた日のことだ。カウンターで並んで飲んでいた――――ダンテは飲むというより
舐めていたが――――ところ、不意にダンテがスツールから転げ落ちたのだ。
何ごとかと駆け寄って見れば、ダンテはまるで死人のような顔をしていて、こちらの血の気が
引いた。慌てて救急車を呼び、駆け付けた救急隊員は治安の悪さもあって早く引き上げたいと
いう雰囲気がありありと見て取れた。しかし心配なぞしなくとも、店にいた連中は皆、何故か
息を呑んでダンテの様子を窺うばかりで、ちゃちゃを入れようなどという馬鹿は一人も
いなかった。
隊員がダンテの顔色を見て眉をしかめ、指先に針を刺して血を採り何やら調べているようだった。
そしていっそう眉をしかめ、その結果だろうものをもう一人の隊員に見せる。二人して眉を寄せて
顔をしかめ、ダンテの血を採った隊員がおそるおそるダンテに問うた。
「あんた、最後に飯を喰ったのはいつだい?」
エンツォはそばで聞いていて、目を丸くした。そして、ダンテの単調な――――まるで他人事の
ような――――返事に、また度肝を抜かれた。
「……三日前、か……?」
いや、もっとか、などと首を傾げるダンテに呆気に取られる隊員を押し退け、エンツォは
ダンテの頭を思い切りはたいた。そうせずにはおれなかったのだ。人間は水だけで数日生きられると
言うが、それは極限の状況下に陥ったときの話だ。ダンテは金には困っていない筈で、それなりの
ものなら自分で作れることをエンツォは知っている。だのに、ダンテは三日、水と酒以外何も口に
していないと言う。呆れるよりも腹が立って、手を上げずにはいられなかった。
馬鹿か、と怒鳴るけれど、やはりダンテはぼんやりとしていて。これでも喰ってろ、とその日
街頭で配っていたどこぞの菓子メーカーの棒付きキャンディーを無理矢理口に突っ込んでやった。
救急隊員の二人には、エンツォが詫び倒して帰って貰った。何故自分が詫びねばならないのか
判らなかったが、ダンテはキャンディーの棒を口の端からはみ出させてぽやんとしているし、
エンツォより他に気の回る人間がいなかったのだ。
ダンテはもともと浮き世離れしたところがなくはなかった。しかしそれでいて、真っ当な
ところも持っていた筈だった。おかしくなったのは、さて、いつからだったろう。
エンツォは静まり返った店のドアを開けるか否か迷い、光を放たなくなって久しいネオンの跡を
見上げた。あれに光が入らなくなってから、だろうか。ダンテが少しずつ外に出なくなり始めた
のは。
仕事は、する。昔よりも腕はいっそう立つし、激しかった選り好みもましになっていた。馬鹿な
飲み方はしなくなったし、馬鹿な喧嘩をしたという話も聞かなくなった。
いつから、おかしくなったのだろう。
「ダンテ、おい――――入るぞ」
鍵はほとんど掛けてあったことがない。案の定、ノブは簡単に回りドアが開いた。不用心だが、
ダンテに夜襲をかけるような馬鹿はこの界隈にはいない。良くも悪くも、ダンテは誰よりも
抜きんでた便利屋だ。
事務所の中は、当たり前だが暗い。ドアを閉めてしまえば外の街灯の光もなくなり、真っ暗に
なる。エンツォはドアのそばのスイッチを手探りで点け、ドアを閉めた。そして、ぎょっとした。
街灯の光では気付かなかった。ダンテの気に入りの黒檀のデスク。いつも何かしらの理由で
倒れている椅子が、今は起きて何かを乗せている。電灯によって照らし出されたそれに、エンツォは
心臓が止まる程に驚愕した。
――――それは、醜い姿を晒して椅子に腰掛けている。
「……ダ、ンテ、か……?」
まさか、という思いと、そうとしか考えられないという思いがせめぎ合う。
それはひとではなかった。鱗に似たキチン質の装甲――――と言うのだろうか――――に
覆われた何か。しかし顔の、片頬はひとの皮膚のように滑らかで、形そのものはひとのそれと
相違ない。ところどころ、装甲が剥げたようになっていて、その“部分”がエンツォにそれを
ダンテであると知らせているように見えた。が、当たり前だが確証はどこにもない。
エンツォは唾を嚥下し、そうっとそれ――――ぴくりともしない――――に近寄った。
自分の心臓の音が、やたらと煩い。
「……ダンテ、なのか……?」
ともすれば歯が鳴りそうだ。どうにか問うが、やはり反応はない。引き結ばれた唇は固く、
肉の弾力を感じさせなかった。
(ダンテ、)
もう、長い付き合いだ。ダンテが普通の人間ではないことは、薄々だが気付いていた。ダンテの
両親のことは聞いたことがなかったし、互いにそんな話を振ったこともなかった。言葉はなくとも、
伝わること、察せられることはある。
理解を、総てでは当然ないが、していたつもりだった。ダンテが誰よりも孤独で、それでいて
たった一人でも生きられる人間なのだということも、エンツォは何となく判っていた。けれど、
「……ッ……!」
悲鳴は出なかった。エンツォは腰が抜けたようにその場に座り込んだ。目も口も開きっ放しだ。
椅子に整然と腰掛けた何か。その膝に、大事そうに抱えられたものは。ひとの、ダンテに
良く似た(もしくはこちらこそがダンテかもしれない)――――誰かの首。
「あ……ぁ、……」
瞬きすら忘れたエンツォの両目から、長く存在を忘れていた涙が込み上げ、溢れる。エンツォは
事務所の床に突っ伏して、声を上げずに咽び泣いた。どうして、と嗚咽混じりに問う。しかしそれは
誰に向けた問いなのか、エンツォ自身にも判らなかった。
あるときから、ダンテは好物だったストロベリー・サンデーをめったに口にしなくなった。
思えばそれが、おかしくなる前兆だったのかもしれない。
今更何を悔いたところで、取り返せるものは何一つないのだけれども。
ひとにも悪魔にはなれない彼は、たったひとり、荒野に佇む。
若干(?)の無理矢理感を滲ませつつ、完結させてみました。
ここまでお付き合い下さった方へ、御礼申し上げます。
[07/6/29]