蒼檻――――Z
左か、右か。
右か、左か。
二つに一つ。
どちらを選んでも、もう戻れない。
誰もいないキッチンに、ダンテは一人ぼんやりと――――というわけでもないが――――佇んで
いた。視線の先には火に掛けた鍋。鍋の中にはぐらぐらと茹でられているパスタ。朝食をするには
遅く、昼食には少し早い午前十一時。目覚めの遅いダンテにとっては、いつもの朝食兼昼食の
時間だ。
若い頃こそ自分で料理をするなど考えもしなかったが、この歳になるともはや慣れだ。
いつからか外食をするのが億劫になり、まずは鍋を買うところから始めた。元々あった
調理器具は、一度総て処分しまっていた。
初めは不味い料理ばかりを作った。味覚音痴でこそないが、料理そのものをしたことのない人間に
すれば味覚がどうのという以前の問題だ。キッチンに立ったは良いが、まず何をすべきかが全く
判らないのだから。
兄は、ジャンクフードが嫌いだった。不味いものは嫌いだが口に入れば何でも良いダンテとは、
考え方が根底から違った。
デリバリーを嫌う兄は当然のように手ずから料理をした。下手な料理人より上手かったのだろう。
時折外食をすることはあったが、あまり兄の料理と比べたことはないので判らない。
旨いと言えば、そうかと短く応じて頬を緩め、残すなと言うわりに、ダンテの嫌いなものは
あまり使わなかった兄。大好きだった。誰よりも近く、そして遠かった兄の存在に、ダンテは神を
崇める以上の感情を持っていた。そうと自覚を持ったのは、兄をこの手で殺した時だったのだから、
間抜けな話だ。
茹で上がったパスタを湯から上げ、少し冷まして皿に盛る。ミートソースをかけ、ついでに
トマトを乗せれば終わりだ。サラダを作ろうかと思ってとりあえずトマトだく切ってあったのだが、
面倒になってやめた。自分の腹の為に時間と手間をかけることを、ダンテはしない。
作ったばかりのミートスパゲティを食べながらテーブルに移動する。行儀の悪さを指摘する声と
目はどこにもない。兄はいちいち口煩くダンテを叱ったものだが、歳を取っても治ることは
なかった。意地のようなものもあったようにダンテは思う。何にせよ、過ぎたことだ。
自分で作るものは、誰かに作って貰うものに比べて不思議と味気なく感じる。しかしダンテは
結婚はせず、独り身を通していた。心底愛した女はいたが、結局籍を入れることはなく、彼女の方も
それを納得していたようだった。籍を入れてしまうより、恋人のような友人関係を続けることを
選んだ。その選択を悔いたことはないし、彼女から恨みをぶつけられたこともない。彼女は
ダンテを深く愛し、同時に誰よりも理解してくれていた。
そういえば、彼女はダンテよりも料理が不得手だった。作れないわけでもないのだが、何しろ
味覚に難があったのだ。出来上がったものを口にして、実際死にかけたこともある。……今と
なっては笑い話にも出来るけれども。
ソースのついた唇を舌で舐め、トマトを口に放り込んだ。少し水っぽいが、まぁ旨い。
「…………」
かちゃん、と半ば放るようにフォークを皿に投げ出した。まだ食べきってはいないのだが、
どうにも食慾が失せてしまった。ここのところ、ずっとこうだ。
料理を作ることは、億劫だが嫌ではない。作っている間はそれなりに食慾もある。が、半分程
食べるともう躰が食べ物を受け付けなくなる。食べるという行為を躰が拒むとでも言おうか、
とにかく、無理に食べれば皆もどしてしまうことが判っているだけに、一度食慾が失せてしまえば
それまでなのだ。
残すことを見越して少しだけこしらえても、結局総て食べきられたためしがない。
どうやったら、こんな骨だけで生きてられるんだ。
馴染みの情報屋には、会うたびに呆れられる。別段、骨と皮ばかりの痩せこけた体躯ではないの
だけれど、以前と比べればその差は歴然だ。もっとしっかり喰え、と諦め半分に諭されて、
しかしダンテは嫌な気分ではなかった。そうやって自分を案じてくれるものは幾人かいるには
いるが、それもいつまで続くだろうか。
いつかは皆、ダンテの周りからいなくなる。死によって分かたれる以外にも、離れていく理由は
あるのだから。
食べ残したものを見るでもなく眺めながら、ダンテは革パンツのポケットに突っ込んであった
煙草を一本取り出し、火を付けた。普段からほとんど吸うことはないのだが、時折不味い煙を肺に
入れたくなることがある。
品種はどれでも同じとしか思わないが、傾向的にタールとニコチン量の特に多いものを選んでいる
らしい。それを指摘したのは、やはり馴染みの情報屋だった。
(捨てるか……)
置いておいても、どうせ食べぬのだ。皿の縁に指をかけた時、不意にドアが開いた。侵入者は
ダンテよりも少し若い、白皙に渋面を浮かべた男だ。
バージルという名の、ダンテの兄。いや、厳密にはダンテの兄ではない。このバージルは
ダンテのいる時間軸とはずれた、過去からの来訪者だ。だからダンテよりも若く、兄と呼べるもの
でもない。もっともバージルは、ダンテを紛れもない弟と思っているようだが。
「それは、」
バージルが口を開いた。ダンテの前にバージルが姿を現わして以来、まともに会話らしい会話を
したことがないだけに、ダンテは少し眉を顰めた。
「お前が作ったのか」
それ、とはダンテが捨てようとしているミートスパゲティのことらしい。
「……それが、何だ?」
応じると、バージルの眉間にいっそう皺が寄る。何だというのだろうか。内心でため息を吐き、
腰を上げようとするとバージルがつかつかとダンテに近付き、
「………!?」
ダンテの手にした皿を思いきり床に叩き落とした。ごしゃ、とあまり気味の良くはない音を立てて
床に激突したものには目も呉れず、バージルは氷で出来たような冷たい瞳でダンテを睨み付けた。
静かな、しかし激しい怒り――――いや、憤怒とは違うが何かは判らぬ感情を宿した目に射抜かれ、
ダンテは思わず身を竦めた。記憶にある兄の眼差しを思い出したからかどうかは、ダンテにも
判らない。
中途半端に腰を上げたダンテの肩を、バージルは無造作に押した。椅子に尻を落としたダンテの
肩を掴み、覆いかぶさってくる。
バージルが何故そんな行動に出たのかも判らぬダンテは、滅多にはなく当惑した。それが
ありありと伝わったのか、バージルはくつりと笑う。
「どうした、いつもの余裕がないようだが?」
毎日、バージルはダンテを抱く。しかしダンテは余裕ぶっていた覚えはなく、むしろいつも
バージルに翻弄されるままだ。バージルはダンテを揶揄して言っているのか、ダンテにその意図は
判らない。
目を瞑って首筋を噛まれる感触に眉を顰めながら、言った。
「余裕がないのは、そっちだろう」
ぴくりと後頭部を掴んだ手が揺れる。実際部屋に入って来た時からバージルの様子は
おかしかった。バージルにもいつもある意味で余裕などなかったが、今のような表情を見たことは
ない。
バージルの尖った犬歯が、ぶつりとダンテの膚を噛み破った。
「っ……」
ほとんど痛みを感じることのなくなった躰は、それでも鈍い痛みに跳ねて見せる。穴が開いた
だろうそこに這うバージルの舌に、じくりと快楽を追う自身がいることにダンテは気付く。
薬物の影響をあまり受けることのない彼ら双子は、どうも互いの血に酔いやすい傾向にあった。
バージルはよく、ダンテの膚を血が出る程噛んだものだ。旨いかと問えば、兄は即座に肯定した。
それが、普通の人間からすれば異常としか思われないだろうが、ダンテは嬉しかった。相手が
バージルだからこそ、身が昂ぶった。自分はバージルのものなのだと、信じられた。
その兄は、もはやくどいことだが、この世のどこにもいないのだ。
取り返しのつかない選択を、自分たちはしてしまったから。それを思えば、この年若い兄も
また選択を誤ってここへ来たのだろう。本人には違えたつもりはないかもしれないが、要はダンテと
同じ類の選択をし、生き残ったのがバージルだったということではないのか。
ダンテの過去ではダンテが生き残る結果となったが、バージルの過去では逆の結果になったと
いうことだ。何が違っていたのかまでは判るわけもないが。
ダンテの首筋に幾つも穴を開けたバージルは、飽いたのか今度は肩を噛んできた。意図して
犬歯を長く鋭いものにしているらしい。深く抉るように突き立てられた牙は、まるでダンテの血を
犯すかのようだ。
意図せず熱っぽい息が、ダンテの唇からこぼれる。
「はぁっ……」
バージルは愛撫をしているわけではない。しかし明らかに快感を含んだ吐息に、バージルは
笑んだ。それで良い、とでも言うように。ダンテの無意識の仕種が、少し、バージルの思う“弟”の
形に沿うものだったのだろう。こうして少しずつ、変えていくつもりなのか。――――本当は何も
変わってはいないというのに。
潰れたトマトの、水っぽい匂いが鼻をかすめた。あんなふうにぐちゃぐちゃになれば、
或いは。
意識は不自然に途切れ、ダンテは自身が微笑んでいることを、どこか遠くで眺めていた。
右か、左か。
左か、右か。
どちらに転んでも、待っているのは真っ暗な闇。
戻れない。
そろそろオチに向かおうとしてるんですが、無事にオチてくれるか不安満載。