蒼檻――――W
ロルフ・ハーリス。国内屈指の大財閥の現会長。先代が早くに他界した為、二十代半ばという
若さで財閥のトップに立つことを余儀なくされた。しかしその手腕は卓越したものがあり、
以前にも増して家名とその財を大きくしたと言って良い。
ロルフが会長となって十五年が経つ今、彼の名を知らぬものはない。
ダンテはハーリス家の邸宅の一室で、質の良い椅子に座っている。視界には、にこやかに
こちらを見つめるロルフの姿。
椅子など要らぬと言ったダンテに、ロルフはそうはいかないと椅子を勧め、そのまま押し切る
形で座らせたのだ。有無を言わせぬ笑みに、ダンテは折れた。辟易して、という理由が強い。
意地を張るところでもない、と自身を納得させたは良いが、この状況は正直居心地が悪すぎる。
他者には無関心にすぎるきらいのあるダンテだが、これはどうにも堪えられそうにない。
「……一つ、訊く」
ぼそりと口を開くと、ロルフがちょっと首を傾げる。どうぞ、ということだろう。
「依頼内容はあんたの護衛だろう。何故、」
こんな面と向かっていなければならないのか。
消えることの稀な眉間の皺を深くしてダンテが言えば、ロルフは何だとばかりに笑った。
ダンテのただでさえ悪い機嫌がより下降する。取り繕うようにロルフが首を左右にした。
「勘違いしないでくれ。あなたを笑ったわけではないよ」
自分のことで、と言うロルフに、ダンテは訝って片目を眇めた。探るような瞳に射抜かれても、
ロルフは全く気にしたふうはない。
「契約を破棄されるのかと思ったんだ。それだけだよ」
だから安心して笑ってしまった、と。語るロルフの表情は柔らかい。さすがに大財閥を二十代で
継いだだけはある。肝の据わり方が常人とは違うらしい。
それで、とダンテは長い脚を組み替え、膝の上で手を組んで話を始めに戻した。
「あんたは自分のSPにも、こんな近くに控えさせるのか?」
ロルフはダンテに自身の護衛を依頼した。しかし大財閥の会長には、当然ながら護衛を務める
ものが多く控えている。その中で、あえて多額の金を積んでまでダンテを抱える必要があるの
だろうか。しかもダンテの本業は便利屋だ。金さえ積めば何でもする荒事師と同列に見られる
ことの多い稼業であり、“表”の人間はまず忌避する仕事だ。
穏やかな笑みを湛えたまま、ロルフはテーブルに置かれた硝子のベルを取り上げ、軽く鳴らした。
りん、と澄んだ音色が響く。ほぼ同時に、ドアの向こうから反応がある。
「お呼びでしょうか」
静かな声はメイドのものだろう。少しハスキーだが、男の声ではない。
「お茶の仕度を頼む。葉を切らしてしまった」
慣れた口調でかしずく者を使うロルフの横顔を、ダンテは無言で見つめていた。早く質問に
答えろ、とは言うつもりもない。詰まらない。そう思ってしまえばもう、何もかもがどうでも
良くなってしまう。
悪い癖だ。反省するでもなく、ただ確認の為に口の中で呟いた。
ロルフの部屋には不必要なものがなく、ある意味で質素な内装になっている。しかし家具などを
一つ一つ見ていけば、その価値は庶民には到底手の出せぬものであることは明らかだ。無意味に
着飾るのではなく、さり気なく価値のあるものを置く。その為ロルフの邸宅には、総じて無駄が
ない。
「紅茶は好きかな?」
不意に問われ、ダンテはしかしはっとすることなくロルフに視線を戻した。首を巡らせていた
わけでもないのだから、不審なところは一切ない。
「……嫌いじゃない」
ぽつりと答える。闊達で軽口ばかり吐いていたのは、もう何年も前のこと。今のダンテは、
語調そのものが酷く素っ気ない。昔のダンテを知るものは、まるで別人だと感心すらするので
ある。
しかし昔を知らぬロルフから、そんな言葉が出る筈もない。
「それは良かった。私は紅茶に目がなくてね」
夜ならば酒も良いが、昼間はやはり紅茶に限る。
嬉々として手ずから紅茶を淹れ始めるロルフの、長い指。ふと兄の指を思い出してしまい、
ダンテは驚くよりも自身を訝った。何故。ロルフはバージルよりも随分年嵩だ。初めて顔を
合わせた時も似ているなどとは露程も思わなかった。顔立ちは勿論、髪の色も違う。
それなのに。
「先刻、」
ロルフの声に、ダンテは内心ではっとした。幸い顔には出なかったらしく、ロルフが気付いた
様子はない。
「SPも側近くに置くのか、と訊いたね」
そのことか。ダンテは組んでいた手を外し、視線だけでその先を促した。
「あなたには一線を引かれている気がしてね。いや、溝か。どちらでも構わないが、まずはそれを
取り払いたいと思うんだ」
かちゃり、とカップが差し出される。これも相当な値の付くものなのだろう。しかしダンテは
気後れすることなくカップを取り上げ、一口、飲んだ。
「……何故、あえて取り払う必要がある?」
一線を引いていることは否定せず、ダンテは問うた。ロルフの灰青色の瞳から、不意に笑みが
消える。鋭い目だ。
「あなたが欲しい。それだけだ」
ダンテは初めて、ロルフの本当の顔を見た気がした。
片時も離れない、というものは契約上はなく、ロルフもまたダンテを引き止めようとは
しなかった。ただ、明日は今日のように解放してやれそうにない、と悪戯っぽく笑って見せて。
明日。持たされたロルフの予定を確認すれば、明日はとある財界人との会見となっている。
名前はダンテも知っている人物だが、どうでも良いことだ。
要は、明日の夜は今日のように自宅には帰られないということ。
会見がそんな夜中まで続くとは、ダンテは思わない。口実なのだろう。ダンテを引き止める
為の。
所詮、ロルフはダンテの雇主だ。契約を破棄せぬ限りダンテにはロルフに逆らうことは出来ない。
ロルフはダンテを命令で縛ろうとはしていないようだが。
もっとも、本当に束縛しようとすれば、ダンテはきっぱり契約を破棄する。そう意識しての
ことではないが、ダンテは何かに縛られることが好きではない。たとえ大金を積まれても、
堪えることが出来ないのだ。
それは一種の、ある意味で心的後遺症かもしれない。
自宅に辿り着くと、まず背中に負った剣を壁のラックに掛ける。そしてコートを脱いで椅子に
放り、浴室へ向かう。外から戻ればまずはシャワー。それから腹が減っていれば飯を作る。
大雑把な料理しかしたことはないが、家事そのものが一切出来なかった昔と比べれば、遥かに
進歩したことは間違いない。
昔は毎日のようにデリバリーのものを食べていた。ピザを頼むことがほとんどで、自分で
何かを作ろうという意識は全くなかった。
逆に、兄がいた頃はほとんどデリバリーを頼んだことがない。そんなものを喰うくらいなら、
多少時間を掛けても自分で作る。そんなことを、何度聞いたか。
ふと笑みが漏れそうになって、ダンテは自身を戒めた。
浸ってはならない。
思い出してはならない。
言い聞かせるが、しかし。
兄との記憶は、あまりにも鮮烈でありすぎる。
だから封じ込めたというのに。封じ込めでもしなければ、ひとりでなど生きては行けぬから。
「……あぁ……」
鏡に映った自身の、痩せた体躯に溜息を吐く。必要な筋肉は落ちてはいないが、それ以外の肉と
いう肉がきれいに削げてしまった。
首は細い所為で以前よりも長く見え、鎖骨はくっきりと浮かび上がっている。
貧弱という印象はないが、しかし若い頃と比べればその差は歴然としている。
痩せた所為で一層白くなった膚が、青くすら見える。ダンテは腕を伸ばし、鏡に映った自身の
躰に触れた。冷たい。これが体温なら、ここにいる男は既に息絶えているのだろう。
しかし、こうして生きている。心臓は、まだ動きを止めてはくれない。
もう、息の仕方は忘れてしまったというのに。
蛇口を捻ると、ざぁ、と浴槽に透明の滝が注ぎ込む。出しっ放しにしておいて、ダンテはまだ
少ししか溜まっていない浴槽に入り、脚を縁に乗せた。
少しずつ、躰が透明のものに沈んでいく。電灯は洗面台の白熱灯のみ。暗がりにひとり、
あたかも沼の淵に沈むように。
痛い程の冷たさが全身を襲い、しかしダンテはうっそりと瞼を閉じた。いっそこのまま心臓が
止まってしまえば、要らぬことを考えずに済むのだろう。望んだところで叶う筈がないことは、
知っている。
数年前に己の半身を殺した呪いは、強い。
自分を捜していた、と数日前に突然現れた“兄”の顔が、ふっと瞼の裏に映し出される。
ダンテは無意識に、呟いていた。
「……なぁ、バージル……?」
アンタは俺の死神か?
洗面台の白熱灯が消えたことに、まどろむまま眠ってしまったダンテは知らない。止めどなく
水を吐き出していた蛇口が不意に沈黙したことも、気付けよう筈がなかった。
「……逃がしはせん」
低い、押し殺した呟きが、しんと静まり返った浴室に響いた。
オリキャラはダンテよりも年上設定です。いちおう。