蒼檻――――V
空を切り裂いたような三日月が、地上を見下ろし薄く笑う。小さな、愚かな人間を蔑んでいる
のだろうか。
電話は顔馴染みの仲介屋からだった。良い仕事がある、と昔から変わらぬ調子で言う仲介屋に、
ダンテは溜息混じりに応じた。
これから店に行く、そう言った仲介屋を制してこちらから出向くと言えば、明日は槍でも降る
か、などと笑いながら電話が切れた。ダンテは肩を竦め、受話器を放る。
確かに、ダンテが仕事の内容を聞く為だけに自ら出向くなど、滅多にないことだ。最近は
仲介屋や便利屋がたむろする酒場に足を運ぶこともまれで、向こうから舞い込んで来る依頼を
こなす程度のものだったのだ。それでも、日々の生活に事欠かないだけの稼ぎはある。
以前と変わったと言えば、それが最も大きい。
若い頃は金もないのに高いコートやブーツを買い、懐は常に寒々しかった。その日の飯に
ありつく金もなく、よく顔見知りの店につけを作ったものだ。
若かった、と思う。あの頃は後先考えずに好きなように生きていた。
変わったのは、いつからだろう。
物思いに耽ろうとして、ダンテはやめた。昔を振り返るなど、まして懐かしむなど詰まらない
ことだ。
ダンテはろくに手入れもしていない髪を無造作に掻き上げ、椅子から立ち上がった。飯を
どうするか、一瞬考えたがリビングへ行く気にはなれない。バージルには何も告げず、ダンテは
そのまま事務所を出た。
困る、のだ。今更兄に出て来られては。
兄を殺し、ひとり生きて来た日々が、壊れてしまう。
「よう、珍しいな、ダンテ」
出向いて行った先は、古い酒場。勿論朝から商売をしているわけではない。店自体は夜まで
開かぬのだが、その端を借りた、と先刻の電話では言っていた。
酒場の親爺とは長い付き合いだ。客のがらの悪さは折り紙付きだが、酒はそれなりのものを
出すし、何より、
「久しぶりに、アレ、作ってやるか?」
にやりと笑う親爺に、ダンテは少し笑った。朝飯代わりにはなるか、と親爺の好意を素直に
受ける。
親爺が笑顔を作ってカウンターの奥に消えると、見計らったように仲介屋が店に現れた。
「直接顔を見るのは久しぶりだな」
また白くなったか、と笑う、樽のような腹を抱える小男に、ダンテは軽く手を上げて応じる。
「お前はまた肥ったみたいだな、エンツォ」
「おいおい、このスレンダーな俺を捕まえてそれはないんじゃないか?」
エンツォは上品とは間違っても言えぬ笑い声を響かせ、ダンテの隣のスツールに腰を
下ろした。
「相変わらずか、ダンテ」
依頼の話をすぐにするのかと思ったが、違った。
「何がだ」
硬質の声で応じると、エンツォはしかし昔のように怯えることななく。
「いや、何でもないさ。それより飯の種だ。引きこもりの便利屋なんぞが食いっぱぐれがねぇ
とは、世の中不公平なもんだぜ」
おどけて言うエンツォに、ダンテはひょいと肩を竦めて見せる。引きこもっているつもりは
ないが、依頼があちらから勝手に舞い込んで来ることは確かだ。名の売れた便利屋は、自らが
動かずとも依頼の方から集まって来るものらしい。
エンツォは羨ましそうに言うのは、もっともだろう。
「今回の依頼なんだがな、あちらさんがどうしてもお前にと言って譲らねぇんだよ」
「内容は?」
「お前の嫌いな、ただの護衛だ」
だから他の奴を紹介してやろうとしたんだが。エンツォはやれやれと溜息を吐き出し、脂ぎった
髪をがりがりと掻いた。見るからに不潔だが、ダンテは最早馴れている。
「他の便利屋では役者不足だ、とでも?」
「そうはっきり言ったわけじゃねぇけどな。ダンテ以外の便利屋はいらねぇ、だとよ。参っち
まうぜ」
「で、幾らで乗ったんだ?」
ぎく、とエンツォの肩が跳ねる。いかにも判りやすい反応だ。
「や、待て、俺は別に金でお前を売ろうってんじゃねぇぜ?貰えるものは貰ってやっただけだ」
それに、とエンツォは焦って早口にまくし立てる。
「ダンテに一応話は通すが、請けるとは限らねぇって言ったんだ。したらよ、それで
構わねぇって……」
「……依頼主の名は?」
遮るようにダンテが問うと、エンツォはしめたとばかりに身を乗り出した。ダンテは興味が
なければ依頼主の名を聞くことなどしないからだ。
「ロルフ・ハーリス。大財閥の会長様だ」
良くも悪くも噂の絶えぬ人物だ。世情に興味のないダンテですら知っている名である。
ダンテが訝るように片眉を上げた時、奥に引っ込んでいた親爺が颯爽と――――というわけでは
なく戻って来た。手にはとりわけ大きな器を持って。
エンツォが辟易したように舌を出す。
「げっ……おま、朝っぱらから喰う気かよ」
ダンテは近頃滅多に浮かべることのなくなった笑みを咲かせ、親爺から器を受け取った。
ゆっくり喰えよ、と言う親爺の目は、まるで幼い息子か孫に向けるそれだ。勿論ダンテは、もう
子供がいておかしくないような歳なのだが。
細長いスプーンでクリームを掻き混ぜ、頬張るさまは確かに幼く見えて、エンツォをまたしても
辟易させた。
幼い日の記憶を消した。若い頃の思い出を捨てた。
残ったものは、詰まらないばかりの骨と皮。
事務所兼自宅に帰ったのは、もうとっぷりと日が暮れてからだった。
玄関の戸をくぐるなり、壁のラックに掛けた幾本もの剣が騒ぐ。それらは悪魔の血を啜る
為か、意志こそないものの、時にこうしてざわめき出すのだ。
黙れ、とダンテが呟く。所詮それらには騒ぐ以上のことは出来ない。だからいつも、どんなに
騒ぎ立てようと放置してあるのだ。
雑音に近い声は煩くはあるが、不快ではない。血が騒ぐ。最近は特にそう感じるように
なった。
黒の混じった赤いコートを脱ぎ、黒檀の机に放る。と、人の気配を感じ、ダンテは瞬間的に
銃を抜きそちらに向けた。
自宅に続くドアの先は暗い。その闇から、す、と現れたのはダンテと同じ容姿の、しかし
いくらか歳若い“兄”。
「……バージル?」
悪魔狩りの武具たちが、悪魔に対峙したかのように刃を鳴らす。しかしダンテには、
それらの音は耳に入ってはいなかった。
硝子玉めいたダンテの双眸には、暗闇に浮かぶバージルの白皙の美貌だけが映っている。
「バージル、」
呼ばわる。その瞬間に、ダンテは床へと倒れ込んでいた。何故かなど判らないが、おそらく
バージルの仕業だ。
バージルの足がついとダンテの視界に入り込む。見上げれば、いつか見た冷酷そのものの兄の
瞳と目が合った。
喉は灼けたようになり、言葉を紡ごうにも口からは掠れた息が漏れ出るのみ。
バージルが、ダンテの傍らに膝をついた。
「誰に会っていた?」
俯せに倒れたダンテの頬を、バージルが指の背で撫でる。感情のこもらぬその仕種に、ダンテは
ぞっとした。取り落とした銃を拾おうにも、指先すら動かない。よしんば拾えたとしても、
ダンテにはバージルを撃つことは出来ないのだ。
その程度のことは判っているだろうに、バージルはダンテに施した呪縛を解こうとはしない。
黙って家を空け、バージルの知らぬ男に会っていたことを咎めるつもりなのか。
バージルの指がダンテの首筋に伝う。
「っ……」
ぐり、と爪が皮膚を破り、肉に食い込む。その先には頸動脈があり、傷付けられれば死にこそ
せぬだろうが、血を流しすぎて意識は途切れる。しかしダンテは慌てることもなく、じっと
バージルを見上げた。
「……その、目が」
気に食わん、とバージルは爪を離しダンテの顎を強く掴んだ。
「お前は私のものだ。……忘れたのなら、もっと深く刻み付けてやろう」
噛み付くように、キスをする。痛みは鈍い。血が悪魔のそれに近いものになっているのか、どんな
痛みもあまり感じなくなっていることは確かだ。だから、わざと苦痛を感じるばかりのセックスを
したこともある。相手は勿論、兄ではない。
「……っ……」
舌を噛まれ、ダンテは息を漏らした。バージルは“相変わらず”、キスの合間も目を閉じる
ことがない。
抵抗などせず、身を任せれば良い。
支配を望む――――そう意識しているかどうかは別として――――強い視線に、けれどダンテは
自身がどうしたいのかが判らない。与えられる快楽に総てを任せれば良いのか。昔のように。
それで、兄は満足するのだろう。どこまでも支配者で在ろうとする兄は。
だが、俺は?
「っあ……じ、る……」
俯せのまま後ろから貫かれ、揺さぶられて。狙い澄ましたように前立腺ばかりを突き上げる、
兄の挿出はやはり誰よりもダンテの官能を知り抜いており、全身が痺れる。ただ違うことは。
泣いて縋り、兄に請うことが、今のダンテには出来ないということ。
バージルの望む理想の弟にはなれない。
ダンテは床に爪痕がつくのも構わずに、ぎりぎりと爪を立てた。
バージルのものになれないことが悔しいのか、それとも理想を押し付けようとする兄が
忌々しいのか、判らない。
「ぁっく……」
堪らず射精したダンテの耳に、バージルが囁く。
「……すぐに、目を覚ましてやる」
意味を問う間は与えられず、射精も終わらぬうちにまた腰を突き上げられ。
「あっ……はぁ……っ」
こんなにも喘ぐのは久しぶりだ、などと、場違いなことを考えてしまった。
(あぁ、煩ぇな……)
ざわめく事務所の床を、濁った白が汚した。
何も考えずに書き殴ると、こういうわけの分からないものが出来上がります。