絡糸カラマルイト








犬。
ぽつりと呟いたきり、ダンテは両膝を抱えて黙りこくった。





初めの悪夢は、ただ――――というには反発を覚えるが――――犬のものだろう耳と尾が 生えただけだった。
次に訪れた悪夢は、その数日後。トリッシュが嵐の如く現れ、ダンテを散々犬扱いして去って 行った。その後エンツォの証言により、バージル以外の人間には完璧な犬に見えるということが 発覚。
悪夢は続き、エンツォの要らぬ忠告を真に受けたバージルに、首輪とリードを着けられた。 だけでなく、そのままの姿で外に連れ出され、完全に自分が犬に見えるのだと立証されて しまったのだ。

しかし悪夢は、それだけでは終わらなかった。

今や、自分はひとなのか悪魔なのか、それとも犬なのか、彼には判らなくなって しまっていた。





「ダンテ、」

誰かが呼ばわる。この音は自分の名前。そしてこの声は、バージルという人間のもの。

「あぅ、」

名を呼ばれたら返事をする。そういうもの。けれど返事をする度に、バージルの眉間には 皺が刻まれる。ここのところ、皺が消えたところを彼は見たことがない。
それが自分の所為なのだということを、彼は知っている。

「……くぅ……」

バージル、と発音することの出来ない喉は、少し前までバージルのように人間の言葉をごく 自然に操っていた。しかし気が付けば、人語を聞き取れはするが話すことは出来なく なっていた。
目はほとんど至近距離のものしか見えず、手はものを掴むことが出来る程度。耳と鼻は 利き過ぎる程利くが、それだけだ。

だからバージルは、こんな自分に苛立ちを覚えているのだ。

どうにかしたいと思う。けれどどうすれば良いか判らない。――――どうしようもない。

「……くぅん……」

ただ、鳴いた。





ひくひくと鼻をひくつかせ、ダンテは事務所からリビングへ続く廊下を歩いていた。 リビングと繋がったキッチンで、バージルが昼食の準備をしているのだと、匂いで判る。

ダンテは基本的に料理が出来ない。バージルはどこで習ったのか、料理が上手い。 デリバリーで毎日過ごせるダンテと、それを許せぬバージルとの違いの表れだろう。

料理は出来ないが、旨いものを食べるのは好きだ。ダンテは心なしかうきうきとリビングに 入った。キッチンには、紺のエプロンを着けたバージルの後ろ姿。

「なぁ、バージルぅ」

甘えるように双子の兄を呼ばわり、ダンテは言った。

「今日のカレーは林檎入れたのか?」

バージルが肩越しに振り向き、怪訝そうに眉を寄せた。

「……何故判った?」

「え? だって匂いが……」

「林檎のか」

「え、う、うん。カレーに入れたろ?」

バージルの周囲には林檎の姿はどこにもない。一つ丸ごと入れたわけではないのだろうが、 既にカレーの中に溶け込んでいる。その匂いを、ダンテは何故か嗅ぎ分けたのだ。

「……あれ、」

自分でも、さすがにおかしいと思った。

バージルのカレー作りは試行錯誤の連続であり、具やスパイスが毎回違う。今までは、 よほど味に違いがない限り、ダンテはバージルがカレーに何を入れたのか、判別など出来た ためしがない。

へにょ、とダンテの頭の上で犬の耳が垂れた。

「ダンテ、お前……」

バージルの珍しく戸惑ったような声に、ダンテははっとした。

「き、気にしない気にしないっ! バージル、俺腹減っちまった」

無理のある誤魔化しようだ。しかしバージルは肩を竦めただけで済ましてくれた。

「……皿を出して来い」

ぴこ、とダンテの耳が立つ。

「うんっ」

嬉しそうに尾が揺れていることに、ダンテは気付いてはいなかった。





「バージル、散歩しに行かねぇか?」

少し目が見えにくくなったくらいから、ダンテはことあるごとにバージルに散歩をねだった。 別段、散歩など一人で行ってくれば良い話なのだが、ダンテは自分でも不思議な程バージルと ともに行きたいのだ。
ねだると、バージルは決まって溜息を漏らす。またか、と言いたいのだろう。

「なぁ、バージル」

顔を覗き込めば、五度誘ったうち一度くらいは連れて出てくれる。あとは無視されるのが 大半だが、時に何故かセックスに移行することもある。そんなに誘っているように聞こえるの だろうか。ダンテには判らないが、拒むことは皆無に等しいのだから、無意識にしたいと 思っているのだろう。そう結論付けておく。

ともあれ、散歩は良い。

語彙の乏しい小学生の感想文のようだが、ダンテは本当に散歩が楽しくて仕様がない。 それも、バージルと行く散歩は、だ。

目は見えにくいものの、鼻と耳は利く為何かにぶつかることもない。それにバージルが側に いれば、何があっても大丈夫と安心出来る。
嫌で嫌で仕方がなかった首輪とリードも、今となっては悲しいかな慣れてしまった。これを 使って妙なプレイを挑まれるのは、もう金輪際勘弁願いたいが。

く、とリードを引かれ、ダンテは息苦しさにむっとした。

「何だよ?」

バージルが立ち止まって冷ややかにダンテを見つめてくる。

「どこまで行くつもりだ」

不機嫌そうな苛立ち混じりの声。
ダンテはけろっとして言った。

「どこまでって、まだそんな遠くまで来てないだろ?」

「……家から悠に五マイルは離れておいて、それを言うか」

「え? そんな来てた? マジ?」

わざとではない。ダンテは本気で、そんなにも歩いたという自覚がないのだ。常人を遥かに 超える体力を持つ双子にすれば、五マイル程度どうということはないが、散歩の距離ではない ことは明らかだ。

「…………戻るぞ」

うんざりしたように促され、ダンテは素直にバージルに従った。もっと遠くへ歩きたいと いう気持ちはあるが、そんなことを言えばバージルの顰蹙を買うのは目に見えている。
何より、くいとリードを引くバージルの力に、何か抗えぬものを感じるのだ。
さして強く引かれているわけでもないのだが、何故か。

常にお喋りなダンテはしかし、家に辿り着くまでの五マイルの道のりを、一言もなく 歩いた。










リードを鎖に変えられ、ベッドの足に繋がれる。
しかし、彼は抗うこともしなかった。否、抗うという行為そのものを、彼知らない。彼に 出来ることは、ただ従うことのみ。

この、絶対の主に。



「ダンテ、」

主が呼ばわる。彼は主を見上げ、くぅ、と鳴いた。緑がかった碧い双眸に射抜かれ、陶然と 微笑を浮かべた。が、それはバージルが気分を害する引き金だったと思い出し、彼は咄嗟に 俯いた。
ぺたりと垂れ震える耳に、案の定絶対零度の硬質な声が届く。

「顔を上げろ」

僅かばかりの躊躇はあったが、しかし主には逆らえない。つ、と顎を上げると、蔑むような 碧眼がそこにあった。

「こんなことをされて、お前は満足なのか」

――――こんなことって、何。

言葉が操れたなら、そう問い返していただろう。しかし彼には人の言葉を理解は出来ても、 話すことは出来ない。

「くぅ……?」

小首を傾げた彼の髪を、主は思い切り掴み上げた。

「きゃんっ!」

突然の痛みに悲鳴を上げた彼を、主は舌打ちして床に叩き付けた。肩と頭をしたたかに 打ち付け、彼はくぐもった呻きを漏らした。

「っう……う……」

床に這いつくばったまま、涙の溜まった瞳で主を見やる。何がいけないのか、主は苦しげに 顔を背けてしまった。それが、彼を酷く不安にさせる。

自分は捨てられてしまうのか。
主の気に触ることをしたから、それで。

捨てられる。
そんな。
嫌だ。
いや。
イヤ。
い、

「あぅうっ!」

叫び、飛び起きて主の足に縋った。そんなことをすれば、また主が気分を害すると判って いるが、そうせずにはおれなかった。

「ぁう、ぐぅううっ……!」

捨てないで。厭。独りぼっちにしないで。お願い。何でもするから。

必死に縋る彼を、主は一瞥して吐き捨てる。

「……どこまでも畜生に堕ちたか」

離せ、と肩を蹴られ、しかし彼は主の足を離しはしなかった。主が不快をあらわに顔を 歪める。離せ。極限まで低められた声音に、びくっと身が竦む。それでも。

「くぅん……」

最早喉が忘れてしまった主の名を、呼ぶ。何度も、何度も。

声が掠れる程鳴き続け、不意に主は言った。

「……口を開けろ」

まだ赦されるのだと悟り、彼はすぐに口を開けた。泣き腫らした眼前に、主の性器が突き 出される。

「舐めろ。犬なら犬らしく、おれに奉仕してみせろ」

感情の籠らぬ声に口淫を命じられ、彼は躊躇わずに主のものに舌を這わせた。主の命令。 それが、彼から惑いや躊躇いを奪っていくのだとは、彼自身気付いてはいない。

ただ無心に、主の命じるままに舌を使い、口に銜えた。

捨てないで。
捨てないで。

懸命に奉仕を続けながら、彼は心の中で必死に唱える。

独りぼっちは、厭。










それは暗い路地裏の、更に闇に落ちた影に打ち捨てられていた。

肉は腐り、露出した骨の異様な白さが禍々しいものを思わせる。
痩せ細った骸の死臭を放つ内腑が、疫病にでもかかったようにぼろぼろになっていることに、 気付くものは、ない。



















前?
次?
戻。