寂滅ジャクメツ













「俺が、悪いのか」

 返答はなく、あるのはただただ、鈍いばかりの青い双眸。

 答えのない――――或いは答えの判りきった――――、虚しい自問。















 暗い路地裏にそれを見付けた時、それは既に半ば死にかかっていた。病院に運んだところで 無駄だろうと、誰が見ても明らかなそれを、彼は憐れんだ。
 死んだものが見える彼には、それの声が聞こえてしまったから。

――――捨てないで。





 誰が悪いだとか、誰の所為だとか、そんなことは、詰まらぬ冗談よりも下らぬこと。
 総てがそれぞれに、愛するものに過ぎたる望みを持ち過ぎたのだ。















 黒に塗り潰された夢を見た。いや、それは夢とは言わぬかもしれない。ただ黒しかない、 己の手すら見えぬ暗闇にいる光景。
 声は出ず、手足は動かず、ただ黒のみが見える、夢。















 取り落としたカップが、床に叩き付けられて派手に砕ける。

「何をしている」

 双子の兄が不審そうに眉を寄せた。彼は自身の手を見、首を傾げる。

「? ……いや、別に」

「まぁ、良い。怪我はないか?」

「う、ん」

 頷き、視線をまた自分の手に注ぐ。手がどうかしたか、とキッチンの隅から箒を取り上げ、 塵取りとを持った兄が問う。

「ん……何でもない」





 変化は、実のところ随分と前からあったのだ。
















 低い、聞く方が疲労してしまいそうな喘鳴が耳につく。誰のものかとしばらく考え、 自分のものだと判って沸いたものは、まず疑問。それから理解。そして、やはり疑問。

 何故。

 どうしてこんなにも、今死んでもおかしくないようなことになっているのだろう。

 何故。

 しばらく自問して、判ったことがある。

 自分は、もうすぐ――――















 それを見つけて間もなく、頭に獣の耳が生え、尻から尾が伸びた。しかしこの時、彼はそれの 原因など思い付きもしなかった。
 狼狽えるばかりで、何も。

 だから、どうしたら治るか兄に相談――――あれを相談と言って良いのかは判らない が――――した時、兄の言葉の意味など全く理解出来なかった。

 兄は、彼が“そう”なるよりも早く、気付いていたのだということも。















 群れからはぐれた子供は死ぬしかない。けれど、群れから追放されたものはどうすれば良いの だろう。
 縋るか、死ぬか。
 しかし縋れども群れに戻ること叶わず、自ら命を絶つことも出来ず、ただ深い絶望に身を 蝕まれていく自身を、嘆きの淵で見つめるばかり。

 涙は涸れ、喉は潰れ。
 脚は萎え、それでも哭き続けてなお、群れは自身を振り返ることはない。

 どうして。

 理由は判っている。この、内腑に巣くった質の悪い虫。これの為に、己は群れから棄てられた のだ。

 深い情愛よりも優先されたのは、残酷なばかりの現実。



 厭だ。
 捨てないで。
 何でもする。だから。



 側にいたい、だけ、なのに。




 叫びは虚空へ消え、闇に呑まれる。














「お前は情けをかけすぎる」

 いつか聞いた、兄の言葉。何かに情をかけるのは、人なら当然のことだと彼は言い返した。

「我々は人か?」

 侮蔑するように、鼻で嘲われた。人ではなかろう、この身は、何一つとっても。 そう言って、嗤う。

 バージルの言うことは大抵正しい。子供の頃から正論づくめの、言ってしまえば面白みの 欠片も亡い奴だった。喧嘩になっても正論ばかり並べ立てるものだから、腹も立った。

 人ではないから、何だ。人の心を持っていて何が悪い。

「いつか後悔するぞ」

 望むところだ。後悔させられるものならさせてみろ。自分が選んだことで、後悔などしは しない。
 笑って言ってやると、バージルは眉をしかめただけで、珍しく何も反論して来なかった。 どう見ても、まだ何か文句を言いたそうにしているくせに。

「バージル?」

 呼ばわると同時に抱き竦められ、彼はちょっと目を瞠った。バージル、ともう一度呼んだ。

「…………」

 耳に低い声が届いたが、何を言ったか認識するより早く、意識が黒に溶けた。














 死にかかったそれを、獣医に看せようと抱え上げた。内臓の病にかかっているのか、 驚く程軽い。

 こんなふうにぼろぼろになって、それでもまだ群れに戻りたくて生き続けているのか。

 衝撃は、しかし浅いものだった。
 この哀れなものの気持ちが、彼には痛い程によく判る。

「……つらいよな……」

 群れから弾かれ、捨てられる。それがどんなにつらく、悲しいことか、彼はよく 知っていた。

「…………」

 もはや声さえ出せないそれの、微かな鳴き声が聞こえた気がした。

 獣医は一応の処置をし、薬を出してくれた。治療費は思いがけず高く、しかし彼は躊躇せずに 紙幣の束を無造作に置いた。
 もう治しようがない、と医師に匙を投げられたそれを抱いて、彼はそれがいた路地に 戻った。



 その時、既に彼はそれと深く同調していた。





 耳と尾が現れたのは、それから数日もせぬ日のこと。

 人では有り得ぬものが生えたこと以外には、何ら変化はないと思っていたが、そうでは なかった。あれ程気にかけていた、あの死にかけたもののことが、綺麗に記憶から抜け落ちて いたのだ。
 しかし彼には自覚などなく。原因を薄々感じていた兄は、それを一時的なものだと思い、 大した対処をしなかった。

 それのことが引き寄せた結末を、この時誰が予見し得ただろう。















 喘鳴は酷くなるばかりで、いっそこの喉を掻き毟りたくなる程煩わしい。しかし喉を掻き 切れば声も出ないと判っている為、その暴挙には出ない。
 それは意志ではなく、無意識による抑制。
 言葉を紡げずとも、声を無くしては主を呼ぶことが出来ない。それをよしとするには、彼は 主に依存しすぎていた。

 側にいたい。

 その想いは強くなる一方で、最早己の意思でどうこう出来るものではなくなって しまっていた。

 ただ、側に。

 それだけが、至上の願い。



 そして、最大の恐怖。














「どうするんだ、お前?」

 どうしようもないことを、それに訊く。勿論返事などあるわけはない。しかし訊かずには おれなかった。
 この哀れなものは、以前の自分自身の姿でもあるのだ。

 放って置ける筈が、ない。

 情けをかけるな、と双子の兄は言ったけれど。

「……つらいんだよ、だって、」

 捨てられたことがない奴には、判らない。
 捨てたことしかない奴に、判ってたまるか。

 彼は喘鳴の酷くなったそれに、獣医から預かった薬を飲ませた。効くのか、ただの気休め なのかは知らない。しかしどちらでも良かった。

「俺は捨てないから……」

 呟き、それの頭をふんわりと撫でた。抜け落ち、ぼろぼろになった毛皮を、何度も。



 何度でも。














「ダンテ、」

 どこか疲れたようなバージルの声に、ダンテはきょとんと目を瞬かせた。
 尾をぱたぱたと振り、バージルを見上げるさまは歳に似合わず可愛げがある。あくまで 無意識でしかないダンテは、バージルの言葉を一言一句聞き逃すまいと耳をぴんと立てた。

 バージルの逡巡は長い。何ごとにも躊躇いのないバージルには珍しいことだが、ダンテは 全く気付いてはおらず。

「……くぅん……?」

 黙りこくるバージルに不安を覚え、伺いを立てるようにバージルの手の甲をちろりと 舐めた。
 途端、弾かれるようにバージルが目を見開き、ダンテの舐めた手でその頬を打った。

「…………よせ」

 押し殺した低い声音に、ダンテはびくりと身を震わせた。
 また、バージルの逆鱗に触れてしまったのだ。

 ぶたれる、と身構えたが、バージルの手も足もダンテを打ち据えることはなかった。 ほっとした瞬間、何かが喉を突き上げるような感覚に襲われ、激しく咳込んだ。

「かはっ、は……っはぁ……」

 咳は落ち着いたが、床に落とした目に映ったものに、ダンテは碧眼をいっぱいに 見開いた。

 赤。――――紅い、それは、

 ダンテ、と呼ばわる、少なからず困惑したバージルの声に、ダンテは真っ赤に染まった口許を 拭うことも忘れ、慄いた。

「っ……!」

 捨てられる。
 瞬時に悟り、ダンテは懸命に首を振った。
 こんなことは何でもない。大丈夫。病気じゃないから。大丈夫だから。だから。

 捨てないで。

――――バージル。

 声にならない叫びが耳に届いたのか、バージルは目を瞠ったようだった。
 鎖を千切る勢いで引き、自分の足に触れようとするダンテをどこか悄然として見つめる。

 あぁ、とダンテは全身が萎えるような脱力感に襲われた。

 バージルは自分を捨てる気だ。暗い路地に打ち捨てて、どこか遠くへ行ってしまうつもり なのだ。
 あの時のように。

 何の未練もなく、相談などする筈もなく、捨てるつもりなのだ。

 厄介なばかりの、荷物にしかならぬ自分を捨てて、今度はどこへ行こうというのだろう。

 ……今度は、きっともう、二度と再会することはないのだろう。

「……う、ぅ……」

 涸れた筈の涙が零れ、しかしすぐに乾いてしまう。

 声は既に、嗄れている。














 ぼろぼろの毛皮を愛おしげに撫ぜながら、彼は雨粒の落ちて来た曇天を見上げた。










どうすれば良かったのだろう。

――――捨てられない為には。


何をすれば良かったのだろう。

――――置き去りにされぬ為には。


言葉をくれれば、何でもしたのに。

――――何も言ってはくれないから。


何も言わないのは、言っても無駄だと思っているから?

――――死ねと、本当はそう言いたいから?









何を想っても、何に祈っても、もう、遅い。














 酷くなるばかりの喘鳴の中、黒い夢を見ながらそれは息絶えた。
 自らの吐いた血溜りに浮かぶ骸は、濃い絶望と深い苦痛に染め上げられていた。














「なぁ、バージル、」

 いつもと変わらぬ湯上がりのひと時、いつものように兄に髪を拭いて貰いながら、 彼は問う。

「これさ、本当に治ると思うか?」

 兄の返答は、あっさりしたものだ。

「さぁな」

 いつもとは違う、頭に生えた獣の耳の裏を拭われ、くすぐったさにぶるりと肩が震える。

「んだよ、人ごとだと思って冷てぇな」

 兄が冷淡なのは今に始まったことではない。
 案の定、そんな非難はまるで効かなかった。代わりに、というわけでもないが、脈絡のない 答えをくれる。

「……或いはお前の無駄な情け深さがなくなれば、な」

 情けをかけすぎる、と言われたことは、覚えている。しかし、

「は? 何でそこにそれが出て来るんだよ。意味判らねぇぞ」

 軽い苛立ちを覚えて言えば、兄はやれやれと心底呆れたように溜息を吐く。

「まずは自覚することだな。これを治すのは、それからだ」

 ぴん、と指先で耳を弾かれ、彼は首を捻った。

「?? ますます判らねぇ……」

 兄が彼に理解させようとしていなかったことで、まだ事態の深刻さを兄すら正確には把握して いなかったのだと判る。しかしそれを、果たして誰が咎められようか。














 最期に聞いたものは、酷く懐かしい音。

「ダンテ、――――」

その後に続けられた言葉は、何故だか聞き取れなくて。











 誰が悪いだとか、誰の所為だとか、

 そんなことはもう、考えるだけで疲れてしまうから――――













 暗い、闇色の夢の中、彼はひとり、虚ろな瞳でクロを見つめる。



















2006/9/19…加筆・修正。

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