深偽
見慣れた天井。
嗅ぎ鳴れた香水。
いつもは揺れているカーテンは、静か。
「やはりこうなってしまった、か」
諦めの混じった溜息が耳に届く。しかし意味など理解出来ず、疑問も持たず、彼はじっと
何もない中空を見つめている。何がそうさせるのか、彼の端正なおもてには嬉しそうな笑み。
聞き慣れた声が、また何ごとか言う。
「これが、君の望んだことなのかい?」
望む? 何を? 誰が?
疑問は沸いたそばから消えて行き、欠片すらも残らない。
ただ息をするだけの人形が、そこにいた。
暖かな掌が、彼の頬を愛しげに撫でる。唇をなぞる指は、どこか痛ましい。
「……私の、責任だな」
独白は、何かの決意のように彼には聞こえた。
それも、どうでも良いことだ。
しとしとと雨が降る。閉じ切った窓の向こうから聞こえる微かな音に、彼はじっと耳を
傾けた。
雨は嫌いだ。降ることには別段構わないのだが、何もかも荒い流してしまう、それが嫌いで
仕様がない。今でこそ、流されるものなど何もないけれど。
そう思って、ふと、どこからか違うという声がする。
洗い流されるものは何もない? ――――違う。今度は自分自身が雨に流される番かも
しれないのだ。
逃げた自分を、兄はどうするだろう。捜すか、それとも。
後者の可能性は、高い。
兄の性格と自分のしたことを鑑みれば、答えなど自ずと導き出されるのだ。あってはならないと
思う、恐怖と不安が詰まった最悪の答えが。
彼はびくんと躰を跳ねさせ、転げ落ちるようにベッドから這い出した。じっとしていられない。
かと言って、どこに行くことも彼の頭にはなかった。ただ、床を這う。動き回るのではなく、
頬を床につけ、時折、もぞりと躰を動かすだけ。
この部屋が、一種の結界になっているとは、彼は知らない。兄から逃げたことだけが、彼の中に
ある真実だった。
戻れない。もう。足掻いても。何をしても。
彼は知らず、後ろ手に腕を回していた。最後に兄に縛られたことが、そうさせたのかも
しれない。
消えずに残った両手首のすり切れた痕は、赤い。脚にも同じ痕があるのだろう。きつく
縛られたそこは、今だにじくじくと痛みを発している。
「何をしているんだい、君は」
訝る声が、降る。兄ではないことは当然だが、彼はそれが酷く哀しかった。
する、と涙が零れる。
男はほとんど足音をさせずに彼のそばに寄り、膝をついて彼を軽々と抱き上げた。後ろ手に
なった腕は、簡単に解ける。縛られているのに、どうして。彼は不思議に思った。
柔らかなベッドに下ろされ、男が顔を覗き込んでくる。壮年の、色気があると言うのだろう
渋みの刻まれた男らしい顔立ちが、僅かに歪む。その視線が注がれているのは、彼の首筋に
残った赤黒い指の痕。
兄の、執心の痕跡。
くっきりと残るその痕に、男はなぞるように指をあてた。後ろから絞められたのだから、
ぴったり合うわけはない。しかし頸動脈の真上に降れた指に、彼はぞくりとした。潰れた喉から、
喘ぎに似た吐息が漏れる。
涙の伝った痕に、男が口付けた。ほと、と落ちた涙の粒を、舌ですくうように拾われる。
優しい仕種が以前の兄を思わせて、彼の瞳からまた涙を溢れさせた。
戻りたいとは、願うことも、まして望むことなど赦されない。
どうあっても、もう、零れた水は戻らない。
砕けた硝子はもう、元には戻せない。
哀しみに打ちひしがれる彼を慰めようとしてか、男が彼の頬にキスをした。男の指は変わらず、
首にある。柔らかなキスが頬から鼻の頭、額、瞼と次々に降る。その度に、彼の息は少しずつ
上がっていった。
「……っ、はぁ……」
さしたる愛撫もなく、しかし彼の躰は熱く火照る。熱を持ち始めたことに気付き、男が笑った。
嘲りではなく、悪戯をした子供のような。しかしその笑みも、すぐに消えた。
「君は、」
言いさした言葉を飲み込むように、男は彼の唇を塞ぐ。兄のそれとは違う舌が入り込んで、
彼のものを絡め取った。ぬるり。違った生き物のように口内を這うそれに、彼は拒むでもなく、
応える。
首に触れる手は、やはりそのままに。
男は彼の胸に空いた手を沿わせた。開襟シャツのボタンは初めから止められておらず、
小さな尖りがあらわになっている。そこを、男は爪で軽く掻いた。くぐもった吐息が、彼から
漏れる。
「……っん……」
頭は壊れても、躰は快楽を覚えている。条件反射とでも言おうか、そんな自身を、彼はつくづく
嫌悪した。
「……は、ははっ……」
合わされた唇の端から、笑いが漏れる。男は顔を少し浮かせ、彼を見下ろした。その表情は
不審げなそれではなく、どこか哀しむような。
彼は男を見上げ、ふふ、と笑って両腕を持ち上げた。男の首に腕を回し、潰れた喉でそっと
囁く。
「……キース、」
それはいつか聞いた、この男の名。
父のような雰囲気を纏い、微笑する男。
十年と少し前――――
ダンテは家の庭で虫を捕まえて遊んでいた。
いつもの昼。
明るい陽射に当たりすぎると、彼の肌は真っ赤に腫れる。それをたっぷり学んでいる彼は、
日陰を選んではしゃがみ込んで虫を探した。
季節は初夏。日向にいれば暑さに汗ばむ時季だが、影の下にいれば涼しい。暑さには我慢の
出来ぬダンテだからこそ、余計に日陰に拘った。
まだ初夏ということもあって、虫は少ない。ふと、足の甲をよじ登る蟻に気が付き、ダンテは
じっと凝視した。蟻は六本の脚を駆使し、よじよじと靴紐を伝って足首の方へと近付いてくる。
ダンテの白い靴下に蟻がもそりと辿り着いた時、じゃり、と土を踏む音にダンテは顔を上げた。
「今日は、」
低いがよく通るバリトンだ。逆行に近い位置に立っているので顔はよく見えないが、父とよく
似た雰囲気の男だと、ダンテは思った。だから、人見知りをする傾向のある彼だけれども、
逃げ出したりはしなかった。
母を呼ぶことも、兄を呼ぶこともせずに、じっと男を見上げる。
「……おじさん、だれ?」
見上げたままで首を傾げると、男がふわりと笑うのが判った。表情などほとんど見えないと
いうのに、何故かはっきりと判ったのだ。
男はちょっと腰を折り、土が付くのも構わずに膝をついた。ダンテと目線を合わせる為だ。
「初めまして、だね。私は君のお母さんの友人だよ」
「かあさんの、」
じゃあ呼んでくる、と立ち上がった彼は、自分の方が男よりも目線が高くなったことを
不思議に思った。
男は、幼いダンテには父親のような、としか比喩の出来ぬ、優しい顔立ちをしている。
白いものの混じった髪が、父よりも年嵩なのだと教えてくれる。
男は駆け出そうとしたダンテの手をそっと取り、言った。
「今から訪ねようとしていたんだ。わざわざ呼んでくれることはないよ」
ダンテはことりと首を傾げ、少しだけ考えた後に男の手を逆に引っ張った。
「じゃあ、いっしょに行こ」
破顔すると、男が眩しそうに目を細めた。ダンテには、それが何故なのかは判らなかった
けれども。
足の上を這っていた蟻のことなど忘れて、ダンテは男と手を繋いだまま玄関から家に入った。
「かあさーん」
大きく母を呼ぶ。母は自分達の昼食を作る為、先刻から台所にいる筈だ。すぐに来るから、と
男を見上げて笑う。と、母よりも先に、何故か双子の兄が姿を見せた。
子供部屋でいつもの読書に耽っていたバージルが、真っ先に来るとはどういうことだろう。
小首を傾げたが、元より兄を絶対的に信頼しているダンテは、喜々として笑顔を弾けさせた。
が、バージルは警戒するように男を睨み付けている。
「誰だ」
ちらとダンテを見、バージルが言った。その視線が一瞬、繋がれた手に注がれたことには
気付きもせず、ダンテはちょっと上目遣いになった。
「あの、かあさんの友だちだって……」
「母さんの?」
「う、うん」
ダンテが微かに怯えていることに、バージルも気付いただろう。しかし男を警戒する色は
消えず、つかつかとダンテに近寄った。
「母さんは奥だ。上がって貰え」
言うなり、バージルはダンテの空いた手を掴み、自分の方へと引き寄せた。思いがけず強い力に、
ダンテは驚いて困惑する。
「バージル?」
手を剥がされた男はくすくすと笑い、バージルの睨みを貰っていた。
「これは失礼。君たちは双子なのだね」
瓜二つの一卵性双生児であるバージルとダンテは、しかし全く違う性格をしている。ダンテは
自分と兄が同じ顔立ちだという自覚が薄く、バージルに至っては全く似ていないと断言している。
が、双子であることは紛れもない事実だ。
「だから、何だ」
子供らしからぬ受け答えに、また男が笑う。楽しげなその表情に、ダンテは自分も笑った。
しかしすぐにバージルに手を引かれ、笑みが引っ込んでしまう。
いつになく険しい兄の横顔を、ダンテは不安げに見つめた。
「なに、バージル?」
バージルは淡々と、しかし根底に怒りを滲ませて言った。
「あいつとは馴れ合うな」
「……どうして?」
「理由が要るのか」
おれが言っていることに、理由が要るのかとバージルは言う。ダンテはちょっと躊躇して、
しかし首を左右にした。
「ううん、」
「なら、良いな」
「……うん」
ぎゅっと握られた手が痛くて、ダンテは顔を俯けた。
自分の中で、やたら仔双子がツボのようです。ショタっ気はない筈なのに…。