冷潜
あの顔、あの声。――――あの、目。
感じたものが危険と名の付くものだったか、今となってはもう、判らない。けれどはっきりと
覚えている、あの光景だけは。
ダンテが姿を消した。それは逃げた、ではなく、言葉の通りの意味だ。
脚を縛り、腕を戒めていたというのに、ダンテはバージルの目の前から消えてしまったのだ。
ダンテの躰が、黒い、靄のようなものに包まれ、その靄が晴れた時には既にダンテはいなかった。
あの靄が連れ去ったということは間違いない。
問題は、あれがなにで、何故ダンテを連れ去ったのかということだ。
――――何か、だと? 何故、だと?
バージルはあえて判らない振りをしようとする自身を、嗤った。そう、あの靄の正体と目的を、
自分は知っているのだから。
バージルはダンテが消えたその時のままのベッドを、冷たく見下ろした。
皺になったシーツ。毛布は丸まった状態でベッドと壁の間の隙間に落ち。そこかしこに散った
赤茶けた染みは鉄錆のようだ。
ダンテが姿を消したのは、丸二日前のこと。この鉄錆の匂いの染み付いたベッドに、バージルは
寝起きしているわけではない。この二日間、バージルは数時間も眠っていないのだ。いや、
ダンテが消える前から数えても、十時間も眠っただろうか。
元々、バージルは日に四時間程度の睡眠を摂れば充分という体質の持ち主だ。丸一日寝て
いないだけで、思考が回らなくなるということもない。しかしそれを鑑みても、この数日の
睡眠不足は明らかだ。
眠りたいと思わない。だから眠らない。それが続いた。
時折、気が付けば気を失うように眠っていることがある。それもほんの一時間程度のことで、
睡眠とは呼べぬものだ。実質的に、バージルはこの数日全く眠っていないと言って良い。
眠りたいと思わなかったのは確かだ。もっと正確に言えば、眠りたくなかったのだ。
バージルにとって睡眠は優先事項の項目にすら入らない。いかに睡眠時間を削ろうと、体力的な
支障は起こしたことがなかった。
眠ることなど二の次、他の何よりもあれを抱くことを最優先にした。
自分以外の男に、あれは抱かれていた。それは、元を正せば自分の責任でもあると判っている
から、良い。しかし自分に抱かれながら、尚且つ他の男とも肉の関係を持つことは、やはり不義に
当たるのではないか。いや、義、などという薄ら寒い言葉は使うまい。貞操など立てる必要はない
のだ。
ただ、自分がいながら、他の男をも見ているということが赦せなかった。
操を立てろ、と言いたいのでは、断じてない。
あの蒼い瞳に自分以外のものを映し、腰を振って快楽に耽ることが赦せないのだ。
己の独占欲の強さは充分判っている。いるが、それが何だとバージルは鼻で笑う。
あれは、髪の一本も残らず自分のものなのだ。誰かにくれてやるつもりなど、あろう筈が
ない。
髪も、爪も、指も、瞳も、膚も。どれ一つとして、自分のものではないところなどないの
だから。
誰にもくれてやらぬ。
誰ぞの目にさらすことも、本当ならばしたくないのだ。
……それが、あれには重いと感じてしまうのだと、判っている。だから、あれはテメンニグルの
一件以来、自分との交合に積極的ではなくなった。以前はそれこそ暇さえあれば互いに触れ、肉で
繋がらないまでも、性器を擦り合わせた。互いのものを舐め合いもした。しかし、今は。
そんなにも、重いのか。俺は。この想いは。
あれの軽い性格は、半分は作っているのだということをバージルは知っている。それでも、
やはり自分はあれにとって重いものでしかないのだろうか。もっと軽い付き合いを、あれは自分に
求めているのだろうか。
それを、他の男に抱かれることで伝えようとしているのだろうか。
当て付けか、それは。
しかしただの当て付けならば、まだ良い。何も考えられないように、縛り付けて犯し、時折
優しく髪を梳いてやれば良いのだから。
けれどあの男は、違う。
あれはひとではない。だからダンテが惹かれたのかもしれないが、ダンテはあれを危険なもの
として認識出来ずにいる。
(あれと馴れ合うな)
昔、確かに言った。ダンテは不思議そうに目を丸くし、しかしバージルは半ば無理やりにも
頷かせた。どうして、と訊くダンテに、あれが危険だから、と言えば良かったのだ。しかし
バージルは言えなかった。
予感が、したのだ。
(――――とられる)
それは本能の警告だった。
掴んだダンテの手首は、自分と同じ太さにも拘らず、随分と細くて。
守らねばならぬのだと、バージルに強く思わせた。それと、同時に、
(とられる)
という不安が心の中に渦巻いていた。
細く、弱い弟。さらおうと思えば、簡単だ。
そんなことはさせない。そんなことは赦さない。
あの日以来、バージルは何をするにも、どこへ行くにも弟を側に置いた。抱き寄せ、そう
出来ない時は常に視界の片隅にはいるように。
手を繋いで。決してその手が離れぬように。
躰を繋げたのも、弟を自分だけのものだと認識したかった――――させたかった――――から
かもしれない。
初めは怯えていた弟もすぐに慣れ、やがて喜んで交わるようになった。与えられる快楽に
“嵌まった”らしい。喜ばしい反面、危険でもあった。
その危惧が、本当のことになることを、自分は予感していなかったのか。
あの目――――弟を映す底の見えぬ双眸に、あってはならぬ未来を見たのではなかったか。
手放したいと思ったことは一度もない。それならば何故あれを一度は棄てたのかと、人は
問うだろう。しかしあの時は、ただ強大な力を得ることに必死だったのだ。言い訳がましいと
言われても仕様がないが。
覚悟はあった。あれを棄てた時、死ぬ覚悟も、殺す覚悟もした。しかしどちらの覚悟も達成
されることはなく、再びダンテの傍らに戻った。滑稽だ、と嗤わずにはおれない。
結局自分には、死ぬことも、殺すことも出来なかった。
何かに、誰かに殺されるくらいなら、自らの手で殺そうと思ったのだ。
母が悪魔に殺されたあの忌まわしい日。ダンテもまた、一度死んだ。そのことをダンテ自身は
知らずにいる。一度は完全に死んだダンテを生き返らせたのは、父母の遺した一対のアミュレット
だ。
死んでは駄目。優しい母の声を、バージルはダンテの躰を抱き締め聞いた。
母に愛され、奪われた命すら守られたダンテ。
徐々に体温の戻っていくダンテを強く抱き締め、バージルは笑っていた。
可愛いダンテ。もしまた悪魔に殺されることがあれば、やはりまた母がその命を救うのだろうか。
また、母の愛を一心に注がれる光景を見なければならないのだろうか。
そんなことは、させない。
ダンテを守るのは自分だ。ダンテを愛するのは、自分だけで良い。
もっと力が欲しい。
ダンテの躰を抱き締めて、震える睫毛をじっと見つめ、バージルは強く願った。
力さえあれば――――。
バージルは自室を後にし、廊下を挟んで向かいのダンテの部屋におもむろに入った。ものの
散乱した部屋は、ダンテの匂いがそのままに残っている。この部屋にいる時のみ、バージルは
睡眠と言うにはあんまりではあるが、意識を黒く塗り込めることが出来た。
「……ダンテ。……」
何故ここにダンテはいないのか。あぁ、そうだ、あの靄が縛った紐ごとあれを連れ去って
しまったのだった。
どこへ。
バージルは床に投げ出された真紅のコートを拾い上げ、鼻面に押し付けた。ダンテの気に入りの
コートは、ダンテの匂いがする。しかしバージルの鼻は、それに混じる血の匂いを嗅ぎ取って
いた。
ダンテの血は、甘い。まるで麻薬のように、鼻腔が痺れる。
バージルは断ち切るようにコートを顔から離し、しかし手に掴んだまま廊下へ出た。ブーツの
床を蹴る音が、やけに大きく響く。ダンテのいないこの家は、痛い程の静寂に包まれる。
事務所へ入ると、壁に立て掛けられた反逆者の名を持つ大剣が、不意に床に倒れた。他の魔具らと
違い確立した意思を持たぬ大剣は、しかし何をかバージルに伝えようとしているのだろう。
バージルが大剣の柄に触れると、電流に似た何かが脳髄を駆けた。
主、と。ただそれだけが脳に残る。誰の声でもない、短い一つの言葉。
バージルは大剣を壁に突き刺し、立ち上がった。右手には、いつの間にか細身の剣を握って
いる。
「私にはこれがある。お前を連れては行けん」
ぱきり、と柄の装飾である髑髏の口が開く。恨みがましい呪詛が聞こえた気がしたが、
そんなものは無視だ。
バージルは踵を返し、他の何にも目をくれずに事務所を出た。玄関ドアをくぐり、外の澱んだ
空気の中でコートの袖に腕を通す。その腕の、爪は変形したように伸びくねり、指先から手の甲に
かけて、キチン質に似た装甲が皮膚を裂いて現れている。体躯や顔などはそのものは変わらぬまま、
しかしバージルは確かに異形へとその身を転じつつあった。
闇の匂う風を孕むコートをふわりと翻し、バージルは一つ跳躍した。
紅い月に照らされる、人ならぬものの影は、緋い。
街頭で、あの男を偶然見掛けた。そこには、あろうことかダンテの姿もあり。
男はあの幼い日に見たものと同じ姿で、同じ笑みを浮かべ。
ダンテはやはり警戒することなく、気を許したおもてで。
あぁ、と思った。
あれは、やはり自分の忠告など聞いてはいなかったのだ。
あの男は、駄目だと言っただろう。馴れ合うなと言ったではないか。
ダンテ。お前はあの男を選ぶのか。それがお前の望みか。
私は、お前にとって、重みにしかならなかったのか。
お前がそのつもりなら、私は。
壊れ、崩れていく何か。
終には総てを喰い尽くす音に、ただ、耳を傾ける。
こちらでの、双子の初めて話は夢編とは別もので。