惨歌
そこは見たことも、当然入ったこともない洋館の一室。
高級そうなカーテンが、窓が開いているのかふわりと揺れている。
彼はレースに覆われた天蓋付きのベッドの上から、馴染みのなさすぎる光景を
ぼんやりと眺めた。
どこなのだろう、ここは。
疑問がぽつりと沸く。しかし自分以外に誰もいないこの空間に、彼の疑問に答えてくれるもの
などなくて。
「何だ、これ……」
呟いた。すると誰もいない空間のどこかから、誰かの声が彼に応じる。
「どうかしたかい?」
――――あぁ、この声。知っている。あの男。
急に焦点が定まり、洋館の光景が一瞬にして消える。そこには雰囲気こそ似た、しかし全く
次元の違うマンションの一室。
見慣れた男が、ベッドに仰向けに倒れた彼を覗き込んで、彼の額を、髪を撫ぜた。
「ぼんやりしていたようだけれど、」
何を見ていたんだい?
何気なく、なのだろう。男の問いはあまりに的確で、彼は男を視界に引き込み、額に触れる
手に自らの手を重ねた。
「……何も、なんかちょっと疲れたなー、とか」
双子の兄と同じで、この男にも誤魔化しや嘘の類いが全く通用しない。しかし兄とは違い、
この男は深く追及するということをしたことがない。それが、楽でもあり、同時に物足りなくも
ある。
全くの別人だのに、ふとした時に兄と比べてしまう。
そんなことをしていると自覚するのが嫌で、彼は男の手を振り払うようにごろりと横向きに
なった。
触れられたくないのだと、聡い男は察したのだろう。駄々をこねる息子に手を焼く父親然と、
苦笑するのが気配で判った。
「仕様のない子だ……」
そんな笑みを含んだ呟きが聞こえた気がしたが、彼はあえて聞こえていないふりをした。
いつもの酒場でこの男と再会して、もうひと月になる。ひと月も、この密やかな関係を続けて
いることになるのだが、彼自身は時間の長さなどどうでも良いものでしかなった。
双子の兄とは相変わらず躰を繋げている。それでも以前に比べれば、その頻度は確実に
減った。
以前と変わったことと言えばそのくらいで、セックスの最中の仕種や愛撫の仕方などは、
面白い程に変わらない。
ただ、時折見せる、兄の表情が。
何か触れてはならぬものに触れたように、目を瞠り、触れようとした手を余所へ移してしまう。
それは決まって、兄に斬られた場所なのだ。
傷など、もう跡形もなく消えている。剣を突き刺された胸こそ治りは遅かったが、それは
自分自身の所為でもある。しかしその傷跡も、今はもうない。
それでも、兄はそこに触れることを躊躇する。
目に見える傷は消えても、心がそう理解しないのだ。双子なのだから、それくらいは判る。
判るからこそ、もどかしい。
前はそんなことはなかったのに。――――それはまぁ当然のことだが。
そんな顔をされたら、後悔、しているのではないかと思ってしまう。
魔界に落ちるのを無理矢理引き止め、縋り付いて泣いて。最後には兄が折れて、共に生きる
ことを選んでくれた。その、選択を。
後悔しているとは、思いたくない。
けれど、きっと。
後悔、してる。
「なぁ、」
気を遣って独りにしてくれようと、部屋を出て行こうとする男を呼び止めた。
ドアノブに手を掛けた男が、肩越しにこちらを振り返る。似ている筈のない、仕種。
優しい瞳。
その中に、自分は何を求めているのだろうか。
「……なぁ、俺、どうしたら良いんだろう」
どうしたら良かったんだろう。
自分の本心を曝すことは、この関係にあって禁忌であることは暗黙の了解だ。それを、
破った。破ればどうなるかなど、知ったことではない。ただ、聞きたかった。
聞いて、欲しかった。
「俺は、どうしたら……」
不意に涙が零れそうになって、彼は慌てて枕に顔を押し付けた。そして、我に返る。
「ごめ……忘れて、くれ、今の」
枕に顔を擦り付け、くぐもった声で言った。
忘れてくれ。今すぐ。
縋るように枕を掴む。震えているのかもしれない。落ち着かせようとしてか、男がベッドに
腰掛け、彼の背中を優しく叩いた。
黙って触れるだけの男に、あぁ、と思う。
似ている。やはり。
無意識に、言葉を紡いでいた。
「……なぁ、今日、さ……」
「うん?」
「……泊っても、良いか?」
男が軽く息を飲んだように感じた。それはそうだろう。彼は、何時であろうと絶対に泊ると
いうことをしたことがない。それが今日に限って「泊らせてくれ」とは。
「私は構わないが……」
男はいつも、彼に泊るよう勧めていた。言葉でこそはっきりとは言わないが、それとなく、
この部屋に留まるよう促すのだ。
その男が、彼が泊らせてくれと言って、断ることは当然ながらない。しかし、
「良いのかい、君は……その、帰らなくても?」
「帰る。けど……」
今日は、ここにいたい。
「あんたの手が、あんまりあったかいから」
呟きは、枕に吸われて男の耳には届かなかっただろう。
ぎし、とベッドのスプリングが軋み、男が覆いかぶさるようにして彼のうなじに口付けた。
「君は本当に……」
「? 本当に、なに?」
男の手に、耳の後ろを掻かれる。それはまるで……
「まるで、猫のようだね」
そうだ、とも、違う、とも応じずに。
そのままもつれ込むように――――じゃれ合うように――――、躰を繋げた。
夜明けの陽射を浴びながら、ダンテはぶらぶらと大通りを横切った。
送ろうか、という言葉は断り、近くはない道程をゆったりと歩いた。こんな朝早い時間に
通ることがない所為か、どこか違う道を歩いているような気分になる。
たまには良いもんだな。
早起きをする気はないが、朝の清々しい雰囲気は悪くない。治安的に良いとは言えぬ街では
あるけれど。
歩き慣れた路地に入り、少し行けば事務所兼自宅の構えが見えて来る。見慣れた光景も、
早朝というだけで違って見えるものらしい。ふ、と口許が緩んだのを、ダンテは自覚しては
いない。
「あー……眠ぃ、とりあえず寝直すか」
玄関に入り、薄手のコートを黒檀の机に放って自室に向かう。もしかすれば、既にバージルが
起きている時間かもしれない。脱ぎっ放しにしたコートを見たら、また小言を言われるの
だろう。
まぁ、それも良いか。
不思議な程落ち着いた心で、ダンテはちょっと笑った。
そう、腫れ物に触れるようにされるよりは、よほど良い。
「……何だかなぁ……」
きっと、悪いのはダンテだと、あのバージルならば思っているに違いない。
確かにバージルを連れ戻したのはダンテで、それがかなり強引だったことは認める。
縋り付いて泣き喚く、という今思えば恥ずかしくて憤死しそうなことも、した。
けれどダンテは、後悔などしていない。する筈がない。
「……だって、……」
呟いた時、不意に横手のドアが開いた。不覚にもびくりと肩が跳ねる。
「っ……、何だよ、バージル」
リビングから出て来たのは当然ながらバージルで、ダンテはちょっと後ろめたさを感じながら
双子の兄を睨んだ。
バージルはしかし、無言でダンテを一瞥するなり、ダンテの腕を掴んだ。ぎり、と音がする程
強く掴まれ、ダンテは痛みに顔を歪ませた。
「った……痛いって、バージル!」
悪魔の血が混じっている彼ら双子は、総ての能力が常人をはるかに上回っている。その
ダンテよりも強い握力を持つバージルに思い切り掴まれれば、普通の人間ならまず肉が潰れ、
骨が折れる。
痛い、と訴えても聞く耳を持たぬバージルの後頭部を、ダンテは睨み付けるしかなかった。
しかし腕を潰されかねない勢いで掴まれていたのは、時間にすれば一分もない。
リビングに入るなり、床に放り出された。その勢いのまま上から押さえ込まれ、立ち上がる
ことを阻まれる。
「な、んだよ」
バージルとは週に何度もセックスをしている。しかし、ダンテは自分でもおかしく思う程
動揺した。それを隠そうとして、強いてバージルをきつく睨む。
こちらの内心など、バージルは見通しているに違いない。唇の薄い口が紡いだ声は、
冷酷そのものだった。
「何をしている、お前は」
どくん、とダンテの心臓が跳ねる。何十挺という銃に雨のように弾丸を浴びようと、どんなに
凶悪な悪魔と対峙しようと、平静を保っていられる心臓が。バージルの言葉に簡単に跳ね上がって
しまう。
「何、って何だよ?」
嘯けば、襲って来たのは痛烈な平手だった。呻く間もなく、顎を掴まれ床に
押し付けられる。
「言え。何のつもりだ」
また、心臓が跳ねた。
バージルは気付いているのだ。ダンテが別の男と度々会っていることを。そして、会う都度
セックスをしていることを。
感づいているだろうとは、思っていた。
あの男もまた、バージルの存在に気付いているのだ。他人のことには疎いが、ダンテのことに
なると異常に聡くなるバージルが、まさか気付かないわけがない。
しかし、バージルにはどうでも良いことなんだろうと、諦めるように思っていたことも
事実だ。
一度、あの男と会った翌日に、どこへ行っていたか問われたことはあった。が、それだけ
だったと言えばそれだけのことで。
こんなふうにしてくれるなんて、そんな顔をしてくれるなんて、思ってもみなくて。
あの時も嬉しかったけれど、今の比ではない。
「バージル、」
言いさした言葉を、しかしバージルが遮った。
「お前は、後悔しているのか」
獰猛な獣のような瞳に射竦められる。
けれどダンテが目を瞠ったのは、バージルの双眸の鋭さではない。
後悔。誰が。――――何に。
「バ……ジル……?」
呼ばわった声は、バージルには届いていなくて。
「お前がそのつもりなら、俺は、」
駄目、それ以上は、言ってはいけない。
「……! 聞きたくないっ! 聞きたくない……ッ!」
半分狂ったようにバージルの躰を突き飛ばし、ダンテは脚をもつれさせながら部屋の隅に
逃げた。当然、それ以上逃げ場などない。ダンテは両手で耳を覆い、膝を抱えて蹲った。
「嫌だ……や……!」
誰が後悔しているのか、何故後悔しなくてはならないのか。
考えたくない。
バージルの口からなど、聞きたくもない。
「ダンテ、」
自身を呼ばわる声は、聞きたい。嫉妬の浮かぶ表情は、見たい。それはとても新鮮で、
酷く嬉しいから。けれど、
「来い、ダンテ」
誰が、何を、どうして後悔しているかなど、どうして。
誰が聞きたいと思うだろう。
「……ダンテ、」
低い声が怒りを含み、その怒りがいつ諦めに変わるのか、いつ飽きられるのか。
いつも、いつも怯えていた。
「……やだ……」
ダンテは幼い子供のように、ただ膝を抱き、耳を塞いで震えていた。
この恐怖に似た恐慌は、果たして何がもたらすものなのか。
ダンテには、何も判らなかった。
兄にとある科白を言わせたことが、当初の予定を一転させて一変してしまった模様…