懐戯カイギ








あの日から、何が変わったということもなく、しかし確かに何かが変わっていった。

詰まらない日常。
ゆるゆると流れるとき。

何一つ変わることのない時間も人も、総てが彼から遠いものになった。

独りきりの世界は、彼にとって酷く色褪せた無声映画のような、――――





繋がらぬ、世界。










「なぁ、」

どことなく下卑た声に、ダンテは眉を寄せてそちらを見やった。
男――――ダンテとあまり年の変わらぬだろう青年――――が一人、にやにやと嫌な笑みを 浮かべてダンテを見下ろしている。
ダンテはカウンター席から立ち上がることはせず、見覚えのない男を見上げるだけ。

「あんた最近、よくここで飲んでるよな」

確信を持った問い掛けに、そういえばそうだったか、とダンテはぼんやり思った。

ここ数日、彼は毎夜のように朝方まで飲んでいる。彼のような便利屋や荒事師の集う酒場で あったり、ごく平凡なバーであったり、その日によってまちまちだ。が、一度雰囲気が気に 入れば、何度も足を運ぶ店も中にはある。ここは、そんなふうに気に入った平凡な バーだった。

来過ぎたな、とダンテは肩を竦め、ジン・トニックを飲もうとした。が、そのグラスを持った 手を男が掴み、阻まれる。

「無視すんなよ」

苛立ったように男が言う。若さ故か、簡単に機嫌を損ねる男に、ダンテは溜息を漏らした。

「……これ飲んだら付き合ってやるよ」

何に、とは言わない。しかし男は何をか期待してにやりとした。おそらくろくなことでは ない。

下衆。

男はダンテがそう毒づいたことなど、知る由もない。






どこぞの安ホテルにでも連れ込まれるかと思いきや。
ダンテは路地裏の壁に背中を預け、内心で一人ごちた。

男は移動するのももどかしかったのか、元々こういう趣味なのか、人気のない路上でダンテの 躰をまさぐり始めた。いかにも若い、性急で余裕のない手つきに、ダンテは一層興が殺がれて いくのが判った。

やはり詰まらない。

こんなふうにセックスを前提に男に声を掛けられたのは、初めてではない。夜に出歩けば 大抵はそんな男から声が掛かる。言わば日常茶飯事のことだ。
中には「まぁ良いか」と一夜の相手にしてしまう男もいる。金が尽きかけている時にそう いった傾向が強く表れるのだが、生憎、今日は仕事が終わったばかりで、懐は程よく潤って いる。

誘いに乗ったのは、良い気分で飲んでいたところに、水を差されたから。

男の荒い息遣いが耳にかかる。首筋にちりっとした痛みとも言えぬ痛みが走り、痕を付け られたのだと知れた。内心で小さく舌打ちする。

(そろそろ、良いか)

相手をしてやるのも、もう飽きた。

音もなく、ダンテは腰の後ろに差した銃に手をやった。その時、コツン、とアスファルトを 蹴る靴音が路地裏に響き、男の動きを止めさせた。

「何だ、あんた」

ダンテは沈黙。普段は意味もなくお喋りなダンテが、珍しくも今夜はほとんど口を開くこと すらしていない。
ただじっと、不意の乱入者を見つめていた。

暗がりでよくは判らないが、体格からして女では有り得ない。背は程々に高く、肩幅も広い。 そしておそらくは、ダンテよりも随分年嵩なのだろう。醸し出す雰囲気は、酷く落ち着いて いるように感じる。

「やれやれ、野暮をしてしまったかな」

悪びれたふうもなく呟いた声は、渋い。この若いばかりの男とは、人格も威厳も比べようも ないとすぐさま判った。

ダンテに覆いかぶさった男が、狼狽を隠せず威嚇するように男を睨み付けた。そして何ごとか 言葉にするより早く、ダンテが口を開く。

「遅ぇよ」

若い男が驚いてダンテを見る。しかしダンテはそちらに一瞥をくれることもなく、男の肩を押し 退けた。

「早く行こうぜ」

あたかも関係を持った仲のように、ダンテが男にすり寄り笑みを浮かべる。その微笑の 婀娜っぽさに、壮年の男は半瞬息を飲んだが、ダンテがそうと気付く前に、彼の腰にさり気なく 腕を回し、軽く引き寄せる。
あからさまに肩を抱いて見せないところは、ダンテの好みに合った。それだけのことでは あるけれど。

男はダンテの髪に触れるかどうかというキスをし、茫然としている青年に視線をくれた。 睨むのではない、柔らかな微笑。

「済まないが、失礼させて貰うよ。――――今日はどこに行こうか?」

後半はダンテに向けた問い掛けだ。脚は既に通りに向かっている。青年はその程度の度胸も ないのか、追って来る気配もない。

「んー……俺風呂入りたい」

「では、私の家で良いかな?」

「ん。勿論、してくれるんだよな?」

甘く誘う声音で言えば、壮年の男は目を細めた。愛息子か、さもなくば愛猫を愛おしむような 目だ。

「あぁ、いつものように、ね」

耳に吹き込まれる声と息は、先刻あの青年がしたそれとは比べようもなく心地好いもの だった。やわく腰を抱く腕も、なかなか好い。
こいつでも良いか、と思うけれど、ダンテには懐が暖かい時にまで男を漁る趣味はない。

今夜がもし金のない状態だったなら、身を預けていたかもしれないな。

そんなことを考え、ふっと嗤う。

あの日から、ずっとこうだ。
便利屋という稼業がなければ、己の身を切り売りすることも、或いはしていたかも しれない。

あの男を忘れようと自身に言い聞かせても、駄目なのだ。細胞の一つ一つが、決して忘れまい とより深く記憶を刻みつけてしまうように、どうしても、どうあっても忘れられない。
だから、自虐的にもなるというもの。





通りをしばらく歩き、ダンテは不意に男の腕から離れた。

「礼は言わねぇぜ。利用したことは謝らないでもないけどな」

「いや、礼を言うなら私の方だ」

「なに?」

「人が頭を撃ち抜かれるところを見ずに済んだ。思い止どまってくれてありがとう」

ダンテは思わず言葉を失った。男はにこりと上品に笑んだ。

「――――君の名前を訊いても良いかい?」

あくまでも、男の物腰は柔らかい。ダンテは何故か直視していられず、ふいと視線を アスファルトに落とし、ぶっきらぼうに言った。

「……ダンテ」

「ダンテ。良い名だ」

男は笑みを崩すことなく言い、

「私は――――。機会があれば、また逢いたいものだ」

息子にするようにダンテの髪をくしゃりと撫ぜ、男は踵を返した。すっきりとした体躯は、 黒に見えるダークグレーのスーツをよく着こなしている。そこいらにいる中年とは、 間違っても一括りに出来ない容姿だ。

ダンテは男の背を少し見送ると、すぐに男とは真逆の方向へ歩き出した。
男はまた逢いたいなどと言ったが、おそらくもう会うことはないだろう。そう思うと、 何故だか惜しいような気さえする。

あの男が行方をくらまして以来、初めて他人に興味を持ったからかもしれない。それに、 どこか得体が知れないところも、ダンテの興味をそそった。

ダンテは決して、件の青年を殺そうとしていたのではない。銃を抜けば、たちまち怯えて 逃げ出す程度の男だと直感的に判っていたのだ。だから、脅すつもりで銃に手を掛けた。
そのことを、あの男は気付いていたに違いない。判っていてわざと、あんなことを口に したのだ。

ダンテの子供っぽい意地を、丸々見抜いておいて、あえて。

食えない男だ、と思う。その反面、面白い奴だ、とも思う自分がいることも確かで。

(機会があれば、か……)

まず無理だろうな。

ダンテは肩を竦め、どこか覚束ぬ足取りで帰路へ着いた。









二度目の偶然は、それから一週間程経った頃に訪れた。

仲介屋が出入りする酒場へ行こうかどうしたものか、寒くなった懐と相談しつつ、 少しばかり悩みながら歩いていると、不意にすぐ側にシルバーの車が停まったのだ。
訝しげに片眉を上げるが、下りる窓の向こうに知った顔を認め、ダンテは我知らず頬を 緩めた。

「誰かと思えば、あんたか」

ダンテが仕事仲間でもない人間の顔を覚えているなど、この時期なかったことだ。 それだけで、この男はかなり希有の存在であると判る。

男はそれを自覚しているか否か、柔らかな微笑で以てダンテを車内に誘った。

「夕食でも一緒にどうかな? まだなら、の話だけれど」

男の言葉で、ダンテのこの後の予定は決まった。内側から薄く開けられたドアを引き、 体重を感じさせぬ軽さで乗り込んでにやりと笑う。

「あんたの奢りなら付き合ってやるぜ?」

小憎たらしい答えだが、男は気分を害したふうもない。むしろ楽しげに顔を綻ばせた。

「好きなものを言ってごらん? 財布のことなど気にせずにね」

溺愛する息子を、周囲が飽きれる程甘やかす父親のようだ。ダンテはしかし、悪い気分では なかった。

あれから、自分を甘やかし、自ら甘えたいと思う人間などいはしなかった。 その反動だろうか。
男の言葉が、何故だか酷く快いものに感じるのは。

「俺、出来合いじゃねぇピザが喰いたいな」

心安らかに言葉を紡ぐのは、何だかとても久しぶりだった。






それから四度程、ダンテは男と会った。
次の約束をしないことが彼らの暗黙の了解だった為、偶然としては多い方だろう。

一度は彼が男の家を訪ねたこともあった。
会えばいつも家に招かれていたのだから、迷うこともない。

趣味でよくする、という男の料理を食べ、風呂に入る。当然のようにセックスもする。 それだけの関係と言ってしまえば、それだけのもの。むしろセックスさえしなければ、彼らは 親子と言っても通じる関係だった。

それ程に男は彼を甘やかしたし、彼もまた男に甘えた。

男は彼を甘やかすことに、ある種の充足を覚えているようだった。早くに子を亡くした人間が、 似た歳や容姿の子を可愛がるような、そんな雰囲気が男にはあった。
だからどうというものではない。彼自身も同じようなことを、男にしていたのだから。

失くした影を、全く似てもいない男に求めた。

不毛だと、思わなかったわけではない。頭では判っていたけれど、どうしようもなかった。
むしろこの男は全くの別人だと思えば、かえって気が楽だったように思う。

あいつとは違う。

そう思えば、どんなことも言えた。
何か失敗して、もしまた失うことになったとしても、あいつとは違うと思えば苦にも ならない。
そう、あいつはこの世に一人しかいない。が、あいつ以外の人間はいくらでもいる。

大事だと、思わなければ良いだけのことなのだ。









「ダンテ、」

名を呼ばれて、ダンテはふっと目を覚ました。ぼやけた視界には、双子の兄ではない 男の顔。

そういえば、いつものようにセックスをした後、すぐに眠ってしまったのだった。
覚醒しきらぬ頭でふと思い、次いで時間が気になった。

「ん……今、何時……?」

目を擦り、躰を起こそうとするのを男にやんわりと止められる。

「丁度日付が変わったところだよ。眠って、まだ一時間も経っていない」

朝まで眠っていくと良い。

言葉にこそしないが、言外にそんな色を滲ませる男に、彼は仰向けのまま首を左右に振った。 まだ眠っていたいのはやまやまだが、そうはいかない。

「駄目だ、帰る……」

帰らなければ。半分眠りかけた頭を揺り起こし、肩に置かれた男の手を押し退けるようにして ベッドから下りた。何も身に纏わぬ、彫刻のような白磁の裸身を惜しげもなくさらし、

「俺の服は、」

肩越しに男を見やる。
男は眩しいものを見るように目を細めた。

「おいで」

手招きするでもなく、しかしダンテは男の側に寄った。逃がすまいとしてか、男の手が彼の 腰の線をなぞるように撫で、抱き寄せられる。ダンテは男のしたいようにさせた。

「女じゃねぇんだ、そんなことしても柔らかくはならねぇぜ?」

からかうように言えば、男はくすりと笑う。

「それは残念。少し期待していたのだけれどね」

本心か否か判らぬ――――おそらく否であろう――――切り返しが、ダンテを退屈させない 大きな理由だ。
本心は決して曝さない。それが、お互いの為なのだと知っているから。

「ダンテ、」

「んー……?」

男の体温の心地好さに、またぞろ睡魔が顔を覗かせたところへ、男は彼の腰を抱いたまま 囁くように言った。

「また、おいで」

いつ、とは言わない。ダンテも問わない。ただ、

「……そうだなぁ」

思わせぶりな、言葉を。





離れてしまえばぬくもりは消え、しかしその時襲う寂漠の恐怖は、もう馴れた。



そうやって、己に何度も言い聞かせる。



















前?
次?
戻。


紳士とダンテの馴れ初め、というベタな回想ものになりました。