錯濫
見上げた先に何があるかなんて、誰もしらない。
ここのところ、ダンテは夜に出掛けることが増えた。どこへ行っているのかは知らない。
仕事の時もあるのだろうが、大半は違うと確信している。
が、それも良いとバージルは思う。
ダンテは幼い頃からバージルにべったりの、根っから末っ子気質な弟だった。
何をするにもバージルと一緒でなければ駄目で、そう出来ない時は泣いてぐずる程の甘えたな
子供だった。
年を重ねても、ダンテの性質は根本的に変わらない。
甘やかす人間がいればとことん甘える。その甘やかす人間は、何も自分に限ったことでは
ないのだろう。
一年前、バージルはダンテを残して姿を消した。
より強い力を上位悪魔であった父の血に求めて、ダンテを捨てた。力を得る為ならば、父が
封じた魔界をこの世に繋げても構うまいと思った。
しかし成功するかどうかは五分だろう、と初めから思っていた。
ダンテが自分を殺してでも止めようとするなら、この計画は最後には潰えるだろう、と。
果たして計画はダンテによって妨げられ、バージルは魔界へ堕ちることを決意した。父の
生まれた場所を見、母を殺した悪魔の王を殺してやろうとして。しかし、それをダンテが
止めた。
行くな、と喚いた。
独りにするな、と泣いた。
掌を斬り付けても、ダンテは諦めることを拒み続けた。
嫌だ、とばかり繰り返すダンテに、バージルは折れざるを得ず。けれども身の内では、
封じ込めた筈の昏い想いが首を擡げていた。
離れて暮らした一年、ダンテがどのようにして生きていたか、バージルはほとんど
知らない。
知る必要もないと思っている。肝要なのは今共にいるという事実だけであり、それ以前の
ことは今更話に聞いたところでどうしようもない。
ぽつぽつと、自分以外の男の影があったことには、気付いているが。
それも仕様のないことだとは思う。どんな理由があってのことかはバージルには判らないが、
ダンテに男との交合を教えたのは他でもない自分だ。
毎日のように躰を繋げていたのだから、一年も堪えることなど出来なかったに違いない。
もしかすれば、一年ではきかなかったかもしれないのだ。
そのことを責めるつもりはない。多少なりとも嫉妬はするが、今のダンテには昔のように
自分しかおらず、また過去の男の影もない。それだけの関係しか持たなかったのだろう。
ある意味でバージルよりも煩わしいことを厭うダンテは、男が無駄に干渉して来ることを
許さなかった筈だ。
今、ダンテにはバージルがいて、互いの時間さえ合えば毎日でも交わっている。他の男を
見る余裕など、奪うのは簡単だ。
それなのに。
「ちょっと出て来る。朝までには帰ると思うけど」
「そうか」
また、知らぬ匂いを纏って帰るつもりか。
問うことは、しなかった。ダンテの自由にさせてやろうと、自分に言い聞かせた。
奔放なダンテには、しかし本当に自由だったことは一度もなかったのかもしれない。
いつでも自分が縛り付けた。
ダンテは無条件でバージルの戒めを受け入れる。それに甘えていたのだろう。自分から
離れようとしない、とダンテばかりの所為にして、その実、真に甘えていたのは自分で。
魔界に堕ちるのをダンテに必死で止められた時も、ダンテならそうするだろうと、どこかで
期待していたのだ。そして、バージルは再びダンテの傍らに舞い戻った。
身勝手なことばかりをしていると、痛い程に自覚はある。しかし手放せない。
離れられない。
自分が側にいることを、ダンテも望んでいるのだと思うと、尚更に。
もっと縛り付けてやりたい。
もっと自分だけのものにしてやりたい。
いっそ部屋に閉じ込めて、鎖に繋いで飯も喰わずにひたすら犯してやりたい――――
夜中に、バージルは密やかな物音で目が覚めた。普段から汗などほとんどかかぬというのに、
何故か額はじっとりと濡れている。
不快な汗を指先で払い、枕許の時計を見れば深夜よりも朝に近い午前四時。まだ外は暗い。
こ、こ、と木を叩くような小さな音は、おそらくダンテの靴音。耳慣れた音だが、その足音には
どこか躊躇いのようなものがあり、バージルは眉間に皺を寄せた。
ふと、ダンテの脚が止まる。それはバージルの部屋の、ドアの前。
バージルは衝動的にベッドから降りた。ドアの前まで大股に近寄り、ノブに手を掛ける。
しかし、開けるかどうか、迷ってしまった。
また、ダンテがバージルの知らぬ男の匂いを纏っていたら、何をしでかしてしまうか自分にも
判らない。散々に犯して、抱き潰してしまうかもしれない。
そんなことは、出来ない。しかし。
ノブを掴んだまま動けぬバージルの耳に、届いたのは小さな小さな、ダンテの声。
「……バージル……」
弱々しい、ダンテのものとは思えぬか細い声音。
何故、とバージルはドアに額を押し付けて、板を挟んで向こうにいるダンテに問うた。
何故お前がそんな声を出す?
何故お前がそんなにも苦しげに俺を呼ぶ?
それは、俺こそがやりたいことだ。
思い悩んで苦しいのは、お前ではなく俺だろう。
お前を想って苦しんでいるのは、俺だろう。
何故だ。
問い質してやりたい。しかしそれでもドアを開けぬのは、何故か。
こんな自分を、ダンテにだけは、見られたく、ない。
こんな俺を盲信する、愛しい弟にだけは。
その後、バージルは眠れずに朝を迎えた。
ダンテは自室のベッドに潜り込み、すっかり眠っているようだ。しばらくドアの向こうに
あった気配は、今はもう消えている。
バージルはおざなりに着替え、まだ薄暗い廊下に出た。洗面所に行こうと階段に向きかけた
脚を、ふと止める。
しんと静まった早朝の廊下。すぐ向かいのドアを開ければ、そこにはダンテが無垢な表情で
眠っている。
寝顔だけでも見ようか。
そんな誘惑に駆られたが、やめた。
どうせ昼近くになれば、ダンテは自然と起き出して来る。顔を見るのはその時でも充分だ。
それまでに、この滾ったものを鎮められるか、どうか。
バージルは俯いて小さく首を振り、階下に降りた。洗面所には行かず、まずリビングに入って
クーラーの電源をオンにしておく。温度は十八。寒いくらいに冷やした方が、丁度良い。
リビングのドアを、ぱたりと閉めた。
それからダンテが起きてリビングに来るまでの数時間、自分が何をしていたのか、バージルは
覚えていない。濃いエスプレッソを淹れた覚えはなくもないが、味の記憶は残ってはおらず。
朝食は食べたのか、本を読んでいたのか。新聞は。
判らない。判らないが、今は既に昼前で、ダンテがようよう起きたということだけは判る。
とん、とん。ゆっくりとした足音が五感の発達したバージルの耳に届く。
キッチンから無意識にリビングのドアを凝視する。そういえば、何故ドアを閉めていたの
だったか。
「……ダンテ、」
呟きと同時に、ノブが回りドアが開けられた。ひょこりと顔を覗かせたダンテが、何ごとか
言った。しかしその言葉はバージルには届くことなく中空で散る。
バージルはキッチンから離れ、ダンテに近付いた。
「バージル?」
自身を呼ばわる声は、何故だか酷く遠い。こちらを見つめてくる瞳は硝子玉のような蒼。
髪は銀。肌は陽に焼けぬ透けるような白。
襟の広いシャツから覗くその白い肌に見知らぬ印を見付けてしまい、バージルは己の心が
冷えていくのを感じた。
「昨晩は随分遅かったようだな、ダンテ」
気が付けば、口をついていた。
「どこに行っていたか、話せ」
聞くつもりなどなかった。ダンテはいつでも必ず自分の許に戻って来ると知っているのだから。
しかし、ダンテの首筋の、小さな所有の痕と見てしまえば、そんなことは頭の隅に追い
やられた。
知らない男の匂いを漂わせていても、こんなことにはならなかった。
だが。
この見せつけるようにはっきりと刻まれた、赤く紅い鮮やかな痕。
この生まれた時から己のものである弟が、自分がいながら他人のものになっていたという
生々しい痕跡。
明らかな情事の証を見せつけながら、ダンテは嘯いた。
「別に、どこに行っていようが俺の勝手だろ」
勝手? ――――違う。
お前には自由などないのだよ、ダンテ。勝手など、して良い筈がないだろう?
ダンテが不意に、バージルが手に持っていたカップを奪い、中身を啜った。
ダンテに薄めのコーヒーを淹れてやっていたのだと、そこで初めて思い出す。
おそらくはいつもの、バージルに出来うる限り薄めたエスプレッソ。
無意識にでも、自分はダンテの為にそれを淹れてしまうらしい。
しかし今は、そんなことはどうでも良い。
お前は俺のものだ――――
旨くもなさそうにコーヒーを啜るダンテをじっと見つめ、バージルの心にはただそれだけが
渦巻いていた。
ダンテが、何故か床ではなくソファーに座ったことにも、疑問は抱かなかった。
私は兄→←弟な構図が好きなので、暗いシリアス書くとその傾向が強くなるようです。