鬼火――弐
ひとはなぜ生きるのだろう。
死ぬために生まれてくることの意味を、誰も教えてはくれない。
暗い朝は今日も男のもとを訪れた。もう来てくれるなと何度言い聞かせても、
それはまるで聞く耳を持ってくれない。毎日毎日、飽きることなく足繁く通い詰めるものだから、
男はすっかり辟易している。
死は今日も、男と寄り添うてはくれぬらしい。
愛する女に焦がれるように、男は祈る。神へ。どうか死を賜りたいと一途に祈りを捧げる姿は真摯で、
いっそ神々しくすらあった。
光の閉ざされた世界に逝くことは、けっして不幸ではないというのに。
その男は、カウンター席の端に蹲るように陣取り、ちびりちびりと酒を舐めていた。
店内はそもそも電灯が少なく薄暗い仕様になっているが、その男の周囲は一段と暗いような錯覚に陥る。
男の表情は窺い知れないが、おそらく陰鬱なそれであろうと彼は勝手に解釈した。
愉しく酒をあおっていれば、纏う空気は自然と軽くなるものだ。
(ま、なんでもいいけどな)
生来の飽きっぽい性格をこのときも発揮して、すぐさま気分を入れ替えたダンテはスツールに
ひょいと腰掛け、親爺に「いつもの」と声をかける。愛想はないがダンテには甘い親爺は、
返答こそしなかったがにやりと唇を歪めて奥の厨房へ引っ込んだ。
先に酒を注文しないのはいつものことである。待っている間が暇だろう、と馴染みの情報屋は
訝って言うが、ダンテは気にならないので聞き流している。まだかまだかと待つこの時間が
愉しいのだと、教えたところで理解はできないに違いない。
そういえば、何かにつけて小言の多いバージルは、ダンテのこの習慣に対しては何も言っては来ない。
なぜだろうか。首をかしげながらも、まぁいいか、とすぐに忘れてしまうのがダンテの長所であり短所である。
そのバージルはといえば、今日は仕事で不在であった。仕事の選り好みが激しいダンテとは違い、
バージルは基本的にどんな依頼でも請けるというスタンスだ。いや、選ぶことを面倒くさがっている、と
言ったほうが正しいかもしれない。
ダンテもなかなかに大雑把な性格をしているが、バージルは局地的にという条件はつくものの、
ダンテの上をいく大雑把な人間なのだ。
どんな依頼も眉一つ動かさず引き受ける腕利きの便利屋は、仲介屋たちにとって最もありがたい
存在であるに違いない。ただ問題は、バージルは社交的という言葉も存在すらも知らぬということであろう。
双子の弟であるダンテですら、バージルと会話が成立しないことが多々あるほどだ。
赤の他人とあの男が打ち解けることはもちろん、日常会話ですらできるはずもない。
バージルは仲介屋たちにとってとても上等な便利屋であるが、同時に最も扱いづらい相手でもあるため、
依頼を何でもかんでもバージルに投げるということができないのだ。もったいない、と口を揃えて
苦言を吐く仲介屋たちに、ダンテは笑ってやったものだが、実のところ、ダンテ自身もまた、
もったいないと言われていようとは知る由もない。
似ていないが、似ている双子。
矛盾だらけの表現を彼らに用いる者は少なくない。
無意識に口許に笑みの形を浮かべてぼんやりしているダンテの目の前に、親爺がおもむろに
ストロベリーサンデーを置いた。ダンテの目が誰にでもわかるほどに輝いた。
「待ってました!」
子どものように喜色満面ではしゃぐダンテに、親爺がこのときばかりは相好を崩して苦笑する。
「ゆっくり喰えよ」
「わかってるって! いただきまーす!」
いつも返事だけはいいのだ、と親爺が思ったかどうかはわからないが、ダンテは器ごと
食べ尽くしそうな勢いでストロベリーサンデーにかぶりついた。甘いものが好きなダンテの
一番の好物がこのストロベリーサンデーである。とくに、親爺が特別にこしらえたものは格別だ。
何度落ち着けと言われても、意志に関わりなくテンションが勝手に上がってしまうのだから仕様がない。
嬉しそうに忙しなくスプーンと口を動かすダンテに、親爺の頬も自然とゆるむ。もちろん、
目の前のストロベリーサンデーに夢中になっているダンテは気づかない。
男は文字通り呆気に取られた。長らく荒事師をやっているが、こんな荒くれどもの集う店で子どもの
食べものが出てくるとは思いもよらなかったし、それをいい歳をした青年が嬉しそうに頬張る姿を
見ることになるとは思わなかったのだ。男は青年が食べているものの名前を知らないが、
少なくともこんなところでお目にかかる代物ではないことはわかる。それは子どもか、
女性がよく好むものではなかったか。
なぜこの程度のことでこんなにも動揺しているのか、自分でもまるでわからないが、男は瞠目したまま
青年を凝視した。薄暗い店内の、一際明かりの当たらぬ隅にいるお陰か、親爺も青年も男の不審な
挙動に気づかない。それは無論、男にとって幸いであった。
男の暗い人生の中で、今ほど衝撃を覚えたことはなかった。その、人生初のできごとがたかが
ストロベリーサンデーごときによるものであるとは、誰が予想できただろう。
男は驚きとともに羞恥を覚えた。死以外の何ものにも心を動かされることはないと、
当たり前のように思っていた男である。だが、どうだ。この銀髪の青年は、それを簡単にやってのけて
しまったではないか。
それはとてもくだらないことでしかなかったけれど。
奇跡のようだと、男は思った。
ふと、ダンテは手を止めて顔を上げた。何を思ったわけではない。本当に、ただなんとなく顎を
右へ――ひとりで酒を舐めている男のほうへと向けた。
男もまた、ダンテのほうを見つめていた。なぜかは知らない。男は驚いた表情をしているように見えたが、
彼が突然そちらを見やったことに驚いたのか、それともそれ以外の何かがあってのことかもしれない。
ただダンテの知らぬ顔であることは間違いなかった。
黒髪、黒瞳。明かりが乏しいため瞳の色こそ確かではないが、少なくとも醜男でないことはわかる。
ダンテよりも随分年嵩であろう。鼻梁が高く、けっして悪い意味ではなく男くさい雰囲気を醸し出している。
おそらく、強い。なんの根拠もなく、ダンテは直観でそう思った。
(新顔、)
先日親爺から聞いた言葉が脳裏に蘇る。新人ではない。死人を見ているようだと、親爺は言っていた。
でも、とダンテは思う。
死人がこんな表情をするだろうか。何かに心を奪われたような、こんな、人間らしい表情を。
それは全くの不意打ちであった。
彼と視線が絡む。男は顔を背けることはおろか、目線をどこぞへやることもできなかった。
不躾なほど凝視していたことを気づかれたのか。男は不自然なほどに心臓が忙しなく弾んでいることを
自覚せぬわけにはいかなかった。
女性的でこそないものの、女性の好みそうな整った顔立ちをしている。艶やかな銀髪は薄暗い店内ですら
輝いて見える。瞳の色は青だろうか、随分若いだろうということはよくわかる。彼のまとう雰囲気は
とても瑞々しく、暗い泥濘の中を生きてきた男にとっては眩しいほどであった。
強い。おそらく、自分よりも。
(双子の便利屋、)
この界隈の稼ぎ頭だ。彼はひとり客であり、確証などどこにもないけれども、男は己の閃きを否定しなかった。
彼だ。稼ぎ頭など務まるはずもないほどに若いが、長らく積み重ねられた男の経験と直観がそう確信している。
鮮烈にすぎる邂逅。
心を持たない人型の兵器とまで言われたことのある男は、初めて己の心臓が動いていることを知った。
いや、強烈なまでの衝撃が、今まで止まっていたものを脈打たせたのかもしれない。
石のような男はこの日、二度目の産声を上げた。
なんだかなぁ、な初恋篇。
感情の希薄なひとは意外に一目惚れとかしやすそう。
おっさんなのに。だがそこがいい。趣味の押し付けで申し訳ないです。
[12/08/30]