鬼火オニビ――壱








街の片隅にある古びたビルの一室で、男はいつものように目を覚ました。

朝は好きではない。今日もまた無為な一日が始まるのだと思っただけで、喉を掻き毟りたくなるような 恐怖を覚えるからだ。
男にとっての世界は暗い。光はわずかも届かず、暗澹とした影が男にまとわりついて離れようとしない。 この世に生まれ落ちて以来、男はずっとこの暗闇の中を生きている。

死を臨んだことは数えきれぬほどあった。しかしいつも失敗して、より深い絶望を味わうばかりだ。
光に見放されたものには、死神さえも近寄ろうとしないらしい。

男は絶望という名の友をつれ、暗い朝を今日も生きる。





ダンテは昼すぎになってようやく目を覚ました。いつもどおりの遅い朝だ。

のろのろベッドから這い出して、着替えもせずに部屋を出る。真っ直ぐ向かうのはリビングで、 そこではいつものようにバージルが本か新聞を読んでいるはずだ。
階段を降りる速度はとても遅い。のたのた、ふらふら。アルコールが抜けていないような千鳥足である。 ゆうべは酒場にも行かず、アルコールは一滴も飲んでいないのだけれども。

物音のしないリビングのドアを開けたダンテは、「あれ?」と目を瞬かせた。誰もいない。 ひょいとキッチンへ目をやるが、そちらにもやはり誰の姿もなかった。首をかしげ、 白に近い銀髪をがりがりと掻きながら洗面所へ足を向ける。
どこへ出かけたのだろうかと、バージルの行き先をぼんやりと考えた。





死神にさえ見放された男は、自然の摂理に従うように堕ちるところまで堕ちた。

荒事師という、職と呼ぶにはいささか障りのある商売がある。売るのはものではなく、 いかなる依頼にも応える己の腕――命そのものと言っても過言ではないかもしれない。 日陰者、という言葉の似合う、およそ社会の定理から外れた連中がそれだ。
男はごく自然に荒事師となり、生計を立てるようになっていた。初めての仕事は麻薬の 運び屋だったように記憶している。小さな仕事をいくつも請けているうちに、命のやり取り などするような仕事も持ち込まれるようになった。
そもそも惜しむような命は持ち合わせていない男である。どんな危険な仕事であっても 二つ返事で請け、銃弾の雨の中を平然と生き残ってしまうので、仲介屋と呼ばれる連中は 男を放ってはおかなかった。

荒事師にとって依頼主の信用を勝ち取ることは、収入の確保に直結する。おなじように、 仲介屋にとっても依頼主の信用は大事なものであり、その信頼を得られるだけの腕の持ち主を 多く世話したいがために、荒事師と契約と取り付けたがる仲介屋は多い。つまり自分を介しての 依頼以外は請けさせず、独占することで仲介料をより多く手にしようというのである。

浅はかなことだと男は思う。命も金にも興味のない男にとって、そういった執着は醜いだけだ。

言い寄ってくる仲介屋や、無駄な嫉妬心をぶつけてくる荒事師たちが鬱陶しくて、 男はひと所に長く留まることをやめた。長くて半年。短い時はひと月。その日暮らしで 定まった寝床を持たない男の身はいつも軽く、名が上がり始めた頃合いを見計らっては姿を消した。
それでも請け負った仕事を半ばで放り出すことはしなかった。生来、真面目なたちであるのかもしれない。

男は日常的に神へ祈りを捧げ、真面目に、真摯に死を乞うている。





料理、骨董、読書、仕事。バージルが外出する目的は、ほぼこの四つに限られる。

もっとも短い時間と距離で収まるのは、調理のための買い出しだ。反対に時間がかかるのは、 図書館へ足を運んだときだろう。
バージルは読書を好む。双子の弟いわく活字中毒だそうだが、否定も弁解もバージルはしない。 確かにそうだと頷くだけなので、弟にすれば張り合いのないことこの上ないだろう。

そんなバージルが図書館へ足を踏み入れるとどうなるか。あちらの棚からこちらの棚へ、 縦横に歩き回っては手当り次第に文字を漁り、およそ時間のことなど忘れてしまう。 全部読み尽くす気か、と弟がいつか言っていたが、そのつもりでなくとも、このまま 読み進めていけば自然とそうなるだろうとバージルは思う。
文字であれば何でも構わないバージルは、幼児向けの絵本ですら例外ではない。幼いころは、 よく弟にせがまれて本を読み聞かせてやったものだ。昔から文字が苦手な弟は、読むことよりも 聴くことを専ら好んだ。
何かと手のかかるやつだったとバージルは思うが、疎ましく思ったことはない。

これから先も、おそらくは。





ふらふらと放浪を続けて、もう何年生きただろうか。ある意味で気ままに生きてきた男には、 もはや時間の感覚はなくなっていた。それでも毎日朝は訪れ、男は今日も絶望の中で神に祈るのだ。
数えきれぬほどの祈りを捧げ、自らの死を願うさまは狂気以外の何ものでもない。しかし男を 止めるものなどこの世にはいない。男は正しく孤独であった。

そのまちをしばしの滞在地と決めたのは、いつもの気まぐれでしかない。

長年荒事師として生きてきたからか、初めての土地であっても同業者が集う場所はなんとなくわかる。 ひとともので賑わう繁華なまちの、日陰。暗い路地裏の一角にその酒場はあった。
ひなびた雰囲気のその店の戸を、男は気後れもせずひょいと開けた。薄暗い照明の下、予想に 違わずならず者どもが思い思いに酒や会話を楽しんでいる。店の奥にカウンターがあり、 その向こう側には店主らしい親爺の姿。他に従業員らしいものは見当たらないので、 あの親爺がひとりで切り盛りしている店であるらしい。

賑やかといえば賑やかな、しかしながら華に欠くのは、ならず者が集う酒場ならばどこもおなじこと。 新顔を珍しがって、不躾な視線をぶつけてくるところも。
男は荒事師らの目など気にもせず、真っ直ぐカウンター席へ腰を落ち着けた。注文は決まっている。 ジン・トニック。酒を覚えたのは荒事師になってからのことで、飲んでみて初めて自分が アルコールに強いと知った。しかし度数の高いアルコールを好んで飲むことも、浴びるように 飲むことも男はしない。ほどよく酔うことができれば充分だ。

酒場の店主というものは、ひとの顔をよく憶えているものだ。親爺は男が初めて自分の店に訪れた 客だということにすぐ気づいたはずだが、誰何などしないし、そもそも話しかけてくる気配もない。 心底無愛想なのか、それともこれがこの店主の方針であるのか、男にはわからないが、 少なくとも好ましい対応であることは間違いなかった。





待って、待って。
待ちくたびれて、腹も減ったことだし行きつけの酒場にでも行くか、と考えた。
そういえば酒場にはしばらく顔を出していなかったように思う。ここのところ、仕事の話は電話で 受けることが多かったため、酒場に出向く必要がなかったのだ。

久しぶりに、親爺のストロベリー・サンデーが食べたい。

思いたてばいても立ってもいられず、ダンテはいそいそと身支度を済ませ、いまだ帰宅する 気配のないバージルへ宛てて走り書きのメモを残して家を出た。その足取りが軽やかであるのは、 致し方ないことだ。

数多の荒事師と数人の仲介屋が出入りする酒場は、今日も今日とて大いににぎわっている。 そこへよく目立つ銀髪碧眼の青年が姿を現せば、彼を知るものも知らぬものも一瞬騒ぐことをやめる。 ダンテは不躾な視線など意に介さず、慣れた足取りでカウンター席へ陣取った。 長い脚を組んで親爺を見上げれば、いつものか、と無愛想な声が彼を迎えた。

「そうしてぇんだが、それよか飯作ってくれねぇか? 腹減っちまって」

彼の食事はバージルによって管理されているようなものだ。ゆえに酒場では、食べ物といえば ストロベリー・サンデーしか注文したことがない。珍しい、と親爺も思ったのだろう。 ダンテの要望に頷きながらも、眉を片方、起用に持ち上げた。どうかしたのかと、 あえて言葉にこそ出さない親爺だが、その表情はどこか気遣わしげである。

「あいつ、朝からどっか行ってて、いねぇんだ」

ごく簡単に事情を話せば、我が意を得たりと親爺が頷く。それ以上の言及は無用だとばかりに、 カウンターの奥にある調理場へ引っ込んだ親爺の背中を、ダンテは無意識に微笑を浮かべて見送った。 無用な深入りをダンテが好まないことを、親爺は知っている。だが、この距離感をダンテが 好んでいるということを、親爺は知っているかどうか。

どちらにせよ、わざわざ言葉にするダンテではないが。

ししばらく待って、親爺がダンテに振舞ったのはペペロンチーノだった。 それとガラス鉢に盛り付けられた色とりどりのサラダ。
ダンテは目を輝かせた。

「サンキュー、親爺! いただきます!」

飢えた子どものようにパスタを掻き込み、黙々と咀嚼するさまを、親爺はやはり見守るだけで 何を言うわけでもない。だが、今夜に限って親爺はいつもの沈黙を自ら破った。およそ、 珍しいという言葉だけでは足らぬ希少なことである。

「そういや、近ごろ新顔が出入りしてるんだが」

ダンテは目を瞬かせ、口の中のものをごくりと飲み込んだ。

「新顔?」

荒事師は入れ替わりが激しい。平和的に引退するものは少なく、たいていのものは仕事のさなかに 命を落とす。けれど荒事師の絶対数が減ることがないのは、社会の掃き溜めに等しいこの世界に 堕ちてくるものが後を絶たないからだ。犯罪者がこの世から消えることがないように、彼らもまた、 存在し続ける。
ダンテが気になったのは、元荒事師であるこの親爺が、珍しくもない新顔ごときの話をあえて 持ち出したことであった。

首をかしげるダンテに、親爺は眉をひそめて「妙な奴だ」言った。もちろん、件の新顔のことである。





双子の便利屋。
男が彼らの名を知ったのは、無愛想な店主が営む酒場に出入りするようになってすぐのことだった。

さすがに新顔に進んで仕事を回そうという仲介屋は少ないが、それでもひとつふたつの依頼は男にも 巡ってくる。初めは簡単な仕事で充分だ。信頼はそのうちどこからともなくついてくる。 どの土地へ行こうと、男のやり方は変わらない。

「お前さん、なかなか腕利きみたいだな」

にやりと笑って見せたのは、きれいに剃髪した仲介屋だった。その男を介した仕事はまだ請けた ことはないが、仲介屋には仲介屋の情報網とやらがあるのだろう。実際、その男は自らをして 情報屋と名乗った。エンツォ・フェリーニョ。人のよさそうな顔をしているが、双眸には 油断ならぬ光が宿っているように男には見えた。
荒事師にも仲介屋にも、野心家は多い。いちいち気にしていてはきりがない。野心などとは 無縁の男にとって、そんなものは興味の埒外に違いなかった。

男が黙っていると、エンツォはひょいと肩をすくめた。

「寡黙なのは良いこった」

皮肉のつもりか、はたまた本心か。やはり男には興味がない。

「俺は腕利きにしか用がねぇ。お前さんなら依頼主も文句はなさそうだ」

だがなぁ、とエンツォは独り言のようにつぶやいた。

「運がいいのか悪いのか……この界隈にゃ、やつらがいるからな。でかい仕事はなかなか 回って来ねぇかもしれねぇぜ」

やつら、というのはこの界隈の稼ぎ頭のことだろう。それがふたり以上いるらしい。口ぶりからして、 この男はその稼ぎ頭たちのことをよく知っているようだ。
どれほどの実力の持ち主であるのか。ふと気になったが、しかしエンツォへ問いかけることはしない。 仲介屋には話好きのものが多いが、エンツォも例外ではないようだ。それでも他人の話を本人の おらぬ場でぺらぺら話すことは好みではないらしく、

「まぁ、ここに出入りしてる限り、いつかは顔を合わせることもあるだろ」

できれば自分を介して共闘してもらいたいもんだが、無理だろうなぁ。などと、今度こそ独り言を こぼして話を打ち切った。その横顔をちらりと見やって、男は内心でため息をついた。





「妙、とはなんだ?」

ダンテの肩がわずかに跳ねた。親爺はちらとそちらを見やっただけで、驚いた様子はない。 冷や汗でも流していそうなダンテの背後に音もなく近寄ったバージルは、ダンテの手許に視線をやった。 食べかけのパスタ。にんにくの強い匂い。その脇を飾るサラダの小鉢が目に入り、見た目には わからぬ程度に肩をすくめた。

バージルがようよう帰宅したのは、ダンテが酒場の戸をくぐった直後ごろのことだった。 もぬけの殻となった自宅の、しんと静まり返った様子を認めるなり、踵を返してここへ向かったのだ。
当然ながら、ダンテの残したメモを見ていない。しかしダンテの行動範囲はたかが知れているうえ、 今日は一切仕事の予定はない。腹を減らしたダンテが向かう場所となれば、 ここ以外にはないと断定したのだ。

予想通り、ダンテはいつものようにカウンター席にいた。バージルが現れたことで荒事師どもが 一斉に黙り込んだことにも気づかない、愚鈍な弟。その背後に歩み寄って、今に到るわけである。

「ウイスキー」

呟く言葉は、しかし声音がよく通るので、親爺が聞き逃すことはなかった。バージルはダンテの 左側のスツールに腰を下ろした。ダンテはこちらを、穴が空くほどじっと見つめている。 何か言いたいに違いなく、その内容もバージルにはありありと察せられたが、あえて聞く耳を 持とうとはしなかった。
何の話をしていたのか、と。バージルのほうから先に話を振ってやった。

「……気になる新顔がいるんだってよ」

「妙だというのは、それのことか」

そうだ、と応えたのは親爺である。

「新顔だが、新人じゃねぇ。どっかから流れて来やがったんだろうが……」

歯切れの悪い言いように、ダンテが怪訝な顔をした。バージルは新人にも新顔にも興味がない。 話しながらも仕事の手は止めることのない親爺が、バージルの前に琥珀色の液体が注がれた グラスを置いた。持ち上げると、氷がからんと涼やかな音色を奏でた。少しばかり唇を 湿らせる程度に、酒を舐める。

「どんなふうに妙なんだ?」

合いの手を入れるように、ダンテが話の続きを促した。

「説明するのが難しいが……死人を見てるようで気味が悪い、とでも、言やいいかねぇ」

「そりゃ、穏やかじゃねぇな」

あっけらかんと言ったダンテを、親爺は別段咎めるでもない。バージルはわずかに眉根を寄せた。 この親爺はダンテに滅法甘い。ダンテもそれがわかっていてこの酒場に通い詰めており、 バージルとしては甚だおもしろくないのだ。
静かに機嫌を下降させるバージルに、ダンテは気づいていない。

「命知らずにも、自殺祈願者にも興味はない」

バージルは鉄のような声音で冷ややかに言い放った。事実、バージルにとって他者は道端に落ちている 石ころほどの価値もない。それらが自分や弟に手出ししない限り、こちらから気にかけてやるような 労力も暇もないとバージルは思っている。

バージルの世界で息をすることが赦されているのは、ダンテただひとりだ。

「……そのうち顔を合わせることもあるだろうが、気をつけろよ」

何に、とは親爺にもわからないのだろう。バージルもダンテも、揚げ足を取るようなことはしなかった。

「おー、」

ダンテがてきとうに返事をする傍で、バージルは彼が大事そうに抱えこんで食べているパスタを、 仇でも見るような目つきでじっと睨んでいた。



















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またしても続きものはじめちゃったどうしよう…orz
息詰まるとオリキャラに逃げるくせがあるらしいです。
いろいろすみません(土下座)

[12/08/16]