鬼火オニビ――参








水底から浮かび上がるように眠りから覚醒した彼は、茫洋とした意識の中にありながらも大きな疑問との 対峙を余儀なくされていた。
首をちょっと持ち上げ、疑問の元であるそれを見やっては頭の上に浮かぶ疑問符を増やし、またぽすんと 頭を落とす。後頭部を受け止めるのは安い綿が詰まっているのだろう厚みのない枕だ。見上げた先にあるのは 見知らぬ天井。背中にあたるスプリングはあまり上等なそれではないが、首を巡らせ見渡した室内は それなりに広い。
モーテルの一室だろうか。憶測はおそらく外れてはいないだろうが、そこは大した問題ではない。

腹部に乗った、ひとの頭。いや、べつに怪談話などではないのだが。

黒髪、であることはわかる。短く刈ってあるのは手入れが楽だからだろう。普段は太い首に支えられている それが、今は彼の腹の上にあって、ぴくりとも動かない。苦しくはないのか、腕を折り畳んで胸から上だけを マットレスに乗せ、あとはベッドの外に投げ出されているらしい。もしかすれば椅子に腰掛けているのかも しれないが、彼の位置からでは視認できない。

これは誰であるのか。記憶を辿るまでもなく、彼にはその答えがわかった。
腕の立つ新顔。
過日、酒場で顔を合わせた男だ。彼よりも少なくとも十は年嵩であろう男が、なぜ彼を枕にして眠り こけているのか。その問題はやはり解けないが、同じ部屋にいる理由はとりあえずわかる。



昨夜、彼はこの男と協同して仕事にあたっていた。依頼主の強い要望があってのことだが、仕事に関しては 他人と合わせることが好きではない彼は、その依頼を初め断ろうとしていた。面倒くさい、とにべもなく 言い放った彼を押しとどめ、言葉巧みに宥めて丸め込んでしまったのはエンツォであった。それに加え、 この男が彼との共闘に乗り気だったため、エンツォの舌鋒に拍車がかかったのは間違いない。
なぜだか知らないが、彼は男に気に入られているらしい。べつにそれが嫌だとか、鬱陶しいだとか、 そんなことは彼は思っていない。無条件の好意はいささか不気味ではあるが、けっして不快ではないものだ。
それに彼も、男のことを嫌ってはいない。寄せられる好意を不快に思わない程度に、男は好感の持てる 人物であるからだ。

仕事の内容は、正体のわからぬ怪しげな品物の護送だった。実際それは人であったかもしれないが、 彼はそこまで追及しなかった。男も彼と同意見だったようで、仕事の合間にその話題が口に登ることは なかった。ただ無口なだけかもしれない。男が喋ったところなど、彼は数えるほども見たことがない。

怪しいものに、穏やかでないトラブルはつきものである。

柄のよろしくないごろつきを、彼と男の二人がかりで何人地に叩き伏せただろう。人は殺さぬ主義である彼を、 男はどう思ったのか。容赦のなさは兄に近いものを感じたが、男が叩きのめしたごろつきはどれも 気絶しているだけで、死んだものはいなかったように彼は認識している。それはとても稀有なことだと 言っていい。
こちらを殺すつもりで襲ってくるものを、殺さずに戦意のみ奪うのは想像以上に骨の折れる作業だ。
彼に合わせたのか、それとも元からそういう主義であるのか。彼にはわからないが、彼の男に対する好感度が 上がったことは間違いない。

想定内のトラブルを片付けてしまえば、ものを運ぶだけの仕事はとても簡単なものだ。依頼通りの場所に それを運び込み(郊外の高級マンションの一室だった)、待ち人に渡して終了である。報酬はあとから エンツォを通じて彼の手許へやってくる手筈であるから、ものの受け渡しが済んでしまえばやるべきことは ひとつもない。
男に目配せをひとつして、彼はぴたりと閉じたドアに背を向けた。マンションを見上げたときから妙に 居心地が悪かった。エントランスの天井にぶら下がったシャンデリアも、エレベーターの中にまで 敷き詰められたふかふかの絨毯も、そこかしこにさり気なく置かれた調度品も、すべてが自分を拒んで いるような気がした。
金持ちの嗜好は彼には理解できない。またあの趣味の悪いエレベーターに乗るのかと思うと気が重かったが、 少しの辛抱だと自分に言い聞かせた。男は彼の背後を護るように寄り添っているだけで、どこまでも、 ただひたすらに寡黙だった。



そうだ、と彼は思う。
そこまではよかったのだ、と。



マンションを出た後は各自解散でいいだろう。彼はぼんやり、この詰まらぬ仕事と、それを押し付けた 情報屋への愚痴を喉の奥でつぶやきながら、エントランスの自動扉をくぐった。その直後だっただろうか。 マンションの敷地から出たあとだっただろうか。後ろに、今自分を枕にして眠っている男の気配が あったことは覚えているのだが。

熱いと、思った。腹が焼けつくように熱かった。

ひとつ、悲鳴が聞こえた。断末魔のそれは気味が悪いほど耳にこびりついた。自分の悲鳴ではないことは わかったが、なぜこうも腹が熱いのかはわからなかった。
膝が崩れた。立っていられなくて地面に転びかけた彼を、どこからか伸びた逞しい腕が支えた。



意識が暗転して、次に覚醒したのがつい先ほどである。だから彼には、この状況がまるで把握できなかった。

冷静になって考えてみれば、なるほど自分は顔も知らない誰かに撃たれたのだとわかった。腹に感じた熱は、 皮膚が破れ内臓が焼けたことによるものだったらしい。ごく普通の弾丸を食らわせたところで、 昏倒するほどのダメージを彼に与えることはできない。頭蓋を撃ち抜かれても平然としていられるような躰だ。 おそらくは散弾。それも腹に銃口をあてて撃ったのだろう。
襲撃者の存在に気づかなかった自分もどうかしていたと思う。仕事を終えた安堵から気を抜いていたのか。 そのあたりの記憶も定かではないので、不可解なほどに注意力が散漫になっていたようだ。情けないやら、 笑えるやら。

腹部にはもはや痛みらしきものは感じない。傷は塞がっているだろう。そうでなければ、この男が彼の腹に 頭を乗せて寝ているわけがないからだ。一晩も要さず数時間で塞がってしまうような、その程度の小さな傷では 当然ながらなかったはずだが、悪魔の血が流れる彼の躰は、自己治癒力もまた常人のそれとは比べものにならぬ ほど高い。
一秒ごとに確かに塞がっていく傷を、男は見ていたのだろうか。綺麗に治癒するのを見届けて、 眠りに落ちたのだろうか。

目を覚ましたとき、男は何を語るだろうか。

彼の超人的な身体能力を目の当たりにした人間は、たいていが彼を化けものと呼ばわる。半人半魔である 彼は確かに化けものと言われても仕方のない存在かもしれないし、その自覚もある。しかし彼は自分を 人間だと思っている。
若くして亡くなった母は彼にどちらであることも強いなかったが、彼は人間として、人間に寄り添って 生きることを選んだ。たとえ自分の正体が人の形をした悪魔ばけものだとしても、 彼は人間であることをやめようとは思わない。
そんな彼の心情を、男は当然ながら知る由もない。説明しようとも思わないが、開口一番に化けものと 罵られてしまったら、やはりそれはショックである。たとえ無関係の人間の口からこぼれたものだとしても、 心ない言葉というものは身に堪えるものだ。







それはおよそ尋常な光景ではなかった。
男はしかし、魅入ったようにそれを凝視した。なぜかは自分でもわからない。わからないが、 目が離せないほど夢中になっていたことだけは確かだった。

男の眼前にあるのは、安物のベッドに仰向けに横たわる青年だ。名はダンテ。珍しい銀髪は男にしては長く、 伸ばしているというよりも無精をしているだけのようにも見える。碧い双眸は、今は瞼に隠されているが、 その眼光は鋭くもどこか幼さを感じる不思議な色合いをしていることを男は知っている。
彼と付き合いの長いらしい情報屋は、彼を変わった奴だと言っていた。確かに仕事の選り好みは激しいようで、 今回の仕事も彼は初めにべもなく断っていた。それを宥めすかし説き伏せた情報屋の熱意は凄まじい ものだったが、いくら口説いてもだめなときはだめなのだと、後で愚痴を聞かされた男は首をかしげた ものだった。

荒事師(彼は便利屋と名乗っているようだが)は仕事を選ぶということをしない。そう男は思っている。 無論、報酬が高ければ高いほどいいとはいうが、少なくとも男は仕事を選り好みしたことはないし、 腕さえよければ高額の依頼はあちらから飛び込んでくるものだとも思っている。しかし彼のやり方といえば、 その場その場の気分としか表現の仕様がない。
荒くれ者どもとは一線を画した彼の態度と、場違いなほど整った見目。ちぐはぐな彼に、男は魅せられたと いってもいい。
その彼と共闘できるとあって、男は自身でも異常だと思うほど心が躍った。感情が表情にそのまま 表れることこそないし、心臓がうるさくがなりたてる理由もよくわからなかったが、彼が依頼を断ろうと するのを見て、激しく落胆したことはたしかだった。だから、男は彼との共闘を望んだ。

依頼は二つ返事で引き受ける。質問や詮索はしない。報酬の引き上げだとか、そういった要望も一切しない。 単調作業のごとく、仕事に打ち込む。それが自分だ。それをあのとき、自ら破った。

情報屋は驚いたようだったが、渡りに船とばかりに男の要望にかぶせて彼を説得した。彼も男が そんなことを言い出すとは思っていなかったらしく、戸惑いの隠せぬまま首を上下させていた。
彼や情報屋以上に、男は困惑していた。初めて己の意志をあらわにしたのだ。望むことといえば 死のみだった自分が、まるでべつの何かを求めることがあろうとは。

彼に出合ってこちら、男の身にはこれまで考えもつかなかったこどが次々と起こる。その一つ一つに驚き、 当惑しながらも、不快ではないと思っていることが不思議でならない。
今も、そうだ。



依頼の品の届け先であったマンションから出た直後に、彼は何ものかに襲われた。見知らぬ男だ。 自分もたいがい油断していたのだろう。不甲斐なさを痛感する一方で、躰は瞬時に動いていた。
銃声がひとつ。彼を襲った男の胸に、赤い花が散る。彼を斃し歓喜に湧いていた男の表情が凍りつき、 我が身に何が起こったのかわからぬふうにぽかんとして、胸に手をやった。赤いものが掌を染めたのだろう。 悲鳴があがった。間もなくそれは断末魔へと変わっていったが、自分には関係のないことだった。

ぐらりと傾いた彼の躰を抱きとめ、見た目よりもしっかりと筋肉がついていることに、そんな場合ではない というのに驚いた。この若さでこうも鍛えている理由はなんなのか。便利屋として名を上げた先、 彼は何を望み何を求めようとしているのか。
詮ないことを考えながら、男は彼を横抱きに抱え上げ、その場を離れた。死人が出たとはいえ、 荒事師同士の諍いに警察が深く関わってくることはない。それでも、男は少しでも厄介ごとから彼を 遠ざけることを選択した。無論、自身が逃げる意図もある。だがそのとき男が考えていたことは、 ただ彼のことだけだった。

男は彼を、襲撃のあった場所から遠くないモーテルへ運んだ。血まみれの彼を伴ったまま受付で手続きを するわけにもいかず、そのときばかりは路地の暗がりに寝かせて、部屋が確保でき次第闇に紛れて彼を 運び込む、という面倒を男は苦に思わなかった。相手が彼でなければ、そもそもあの場に捨ておいたであろう。 男は自身の変心ぶりに嗤うしかない。
ベッドに寝かせる間も、彼は一度も目を覚まさなかった。うめき声のひとつもあげない彼を、男は不審に 思わずにはおれなかった。傷は深く、出血がひどい。そこまで考えて、男ははっとした。止血。 早く止血をせねば死んでしまう。

命に頓着のない男は、人の死にすら疎くなってしまっている。

慌てて、隣のベッドのシーツを剥いだ。細く裂けば包帯の代わりにできる。その前に彼の服を脱がさなければ。
慣れぬことをしている。男は頭の片隅で自嘲しながら、赤く染まった彼のシャツに手をかけた。 散弾を直接食らった彼のシャツは、当たり前のことだが腹部がぼろぼろになっている。脱がせるよりも 破いてしまったほうが早いか。そう考えながら、ふと、不自然なことに気づく。

傷が浅い。

そんなはずはない。至近距離から散弾を受けたのだ。内臓がえぐれていて当たり前、背骨に達していなければ 重畳というところか。だが、どうだ。爛れたように裂けた腹は赤黒い肉をあらわにしているが、 それだけなのだ。傷口をよくよく凝視してみれば、蝸牛の歩みのようにほんの少しずつだが、 傷口が塞がろうとしているではないか。
男は息を呑んだ。あり得ないことだ。今目の前で起こっていることが男にはにわかに信じられなかったが、 しかしこれが夢でないことは間違いようのない事実である。
彼はいったい何ものなのか。
男はシーツを握りしめたまま、じっとその異様な光景を見つめた。不思議と嫌悪感はない。あるとすれば、 それは純粋な興味と関心だった。

彼は人間ではないのだろうか。ならばいったい何だというのか。わからない。わからないまま、 目は彼の腹部に釘付けになっている。

じわりじわり、目に見えて変化があるわけではないが、けれども確かに修復されていく彼の躰。 およそ尋常ではないその光景に、瞬きをする間も惜しいかのように魅入る男の双眸には、これまでにない 輝きが宿っている。が、男は自分で気がついていない。
意識のない彼もまた、それを目にすることはなかった。



何時間、そうして彼を見守っていただろうか。彼の腹部にあった傷は、いまやほぼ完全に塞がって しまっている。乾いて赤茶けた血糊が、そこにひどい傷があったことをころうじて教えてくれる。
驚異的な回復力を目の当たりにした男は、無意識に嘆息した。剥いだシーツは、いつの間にか床に落ちている。 そこへ腰を下ろし、彼の横たわるベッドに胸から上だけを乗せる格好で頬杖をついていたが、何気なく、 本当にただの思いつきで、彼の腹――傷のあったところへ頭を乗せてみた。
あたたかい。
頬に感じる彼の体温に引き込まれるように、眠りに落ちた。





目を覚まそうかという前兆もなく、ぱかりと瞼が開くのを見てしまったら、それはやはり驚くものであって。





うわ、と声を上げたダンテの間抜け面が、男の黒い双眸に映っている。

「わざわざこっち向いてから目ェ開けんなよ……」

誤魔化すようにげんなりとつぶやく彼だが、男は惚けたようにぴくりともしない。まばたきすらしないもの だから、ダンテが訝しむのも当然であろう。

もしかして、まだ寝てんのか?

声になるかならないか程度の小さなひとり言にも、男はまるで反応を示さない。目は完全に開いているが、 その状態で寝ているのだろうか。
眠っている間いびきどころか寝息すら漏らさぬ男が、今起きているのかどうかなど、ダンテには判断の しようがない。

「……起きてんのか?」

おそるおそるといったふうにそうっと呼びかけたダンテに、わずかだが反応があったのは数秒後の ことだった。

「眠っていたのか」

誰に問いかけるでもない抑揚に欠いた言葉に、ダンテは内心でびくりとした。起きているなら、 そうとわかるように動いてほしい、とはダンテの手前勝手な要望であるが。

「あんた、昨夜ずっと起きてたのか?」

そうだ、と男は顎を引いた。とくに言葉を続けようとしない寡黙な男に、ダンテは多少なりとも苛立ちを覚えた。 怒りゆえのものではない。男があまりにも“ふつう”でありすぎるからだ。
ずっと起きていたということは、彼が負った傷が癒えていくさまを一晩中見ていたと判断して間違いないはずだ。 およそ尋常ならざる光景を目の当りにしたにしては、男はあまりにもふつうでありすぎる。 何か言いたいことはないのか、そう喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのは、望まぬ侮蔑を無意識の うちにおそれたからかもしれない。

「なんつうか……変なオッサンだな」

眉根を寄せて悪態をつき、枕にどすんと頭を落とす。男はなぜか彼の腹に頭を乗せたまま、 お前ほどじゃない、と囁くようにつぶやいた。その言葉に、ダンテは思わず頭を持ち上げた。

「ッ……どういう意味だよ」


思わず剣呑な声が出てしまって、ダンテは男にはわからぬ程度に唇を噛んだ。男の表情は変わらない。 人形みたいだとダンテは思った。けれども死人のようだとは、やはり思わない。
男はじっと彼を見つめたまま、躰を起こすこともしないまま口を開いた。

「……変わった坊主だ」

「……坊主とか言うな」

男の言わんとしていることなど、物ごとを深く考えることのないダンテに察せられるわけもない。
反射的に苦言をもらした彼だが、男の反応はやはり鈍く、言うべきことはすべて言ったとばかりに 口を閉じてしまっている。寡黙というよりも、いっそ喋ることが面倒くさいのではないか。 そんな疑いをダンテに持たれているとは知らず、男はなぜか再び瞼を閉じた。

「おい……?」

まばたきにしては長すぎる。ダンテは唸った。

「ちょ、待て、まさか」

返事はない。寝ている、らしい。
目を覚ましていてもほとんど返事などもらえなかったが、少なくとも目は開けていた。ならばやはり、 眠っていまったと判断して間違いはなさそうだが、しかし。

「寝るなって、おい!」

いくら声をかけても、男は瞼を開けるどころか微動だにしない。

「どうすりゃいいんだよ……」

途方に暮れるダンテの頬を、カーテンの隙間から射し込む光が慰めるようにゆるりと撫でた。







朝はいつも絶望とともにやってくる。

闇から目を覚ましたその瞬間、己がまだ生きていることに愕然とし、また今日を生きねばならぬことに絶望する。 それが男にとっての朝だった。悲観に暮れながら神へ祈りを捧げ、真摯に死を乞い願う。それが日常。 いつもの朝だった。

だが、今朝は違った。

男は朝がきたことに絶望を感じなかった。生きていることを悲観することもなかった。
奇跡だと、思った。

これまでの毎日と違ったことはただ、彼がいたということ。あたたかな彼の体温に触れていたこと。 たった、それだけ。それだけのことで、絶望は男のもとに訪れることをしなかった。
なぜか? それがわかれば苦労はない。
なぜ、と脳裏で繰り返しながらも、やはり彼の体温は心地好いものに違いなく。 彼の声音もまた、快いものだった。

謎を謎のまま放置して、男は目を閉じた。





その眠りはとても、とてもやさしい。



















/ 四/



なんかこう…シュールな光景だなぁ…。
恋愛お子ちゃまなオッサンに需要はないと思いつつ。
前回更新から日が開いてしまって反省…

[12/09/19]