花葬カソウ――四








暗い、部屋。闇に溶ける影はなお昏く、水底の澱みのように得体の知れぬ畏れを感じさせる。

椅子が、一つ。まるで玉座のような、重厚で凝った細工の施されたそれに腰掛けるものは、やはり影。 肘掛にそれぞれの腕を預け、深く腰掛けた影は闇に呑まれるようにただそこに在って、じわりじわりと 深みを増す闇を見つめているのか。その視線を追うことはできない。
ひとつ、確かなことは、それがぴくりとも動かぬこと……――







壊れたオルゴールは黒檀の机に鎮座する。その胎内に抱かれていたものは今、ここにはない。

ダンテは椅子にだらしなく腰掛け、長い足はデスクに投げ出し、斜に構えるように腕組みをして、 小さな箱を穴が開くほど見つめている。もはやなにかしらの音すら紡ぐことをやめたそれは、確かに ただの木箱でしかなくなっていた。元はどんな音色で唄っていたのか、ダンテには知るよしもない。 惜しい、と少しなりとも思った自分に驚いてしまう。
こんな箱になど、興味はないのだ。ダンテの興味はこれの“中身”に注がれている。が、その“中身”も ないとくれば、彼にできることは興味のないはずの箱を、ただただ凝視することのみであった。
“中身”は今、馴染みの情報屋の手にある。というよりも、彼と彼の兄が半ば無理矢理押しつけたと 言った方が正しいだろう。伝手でもコネでも何でも使って、どうにかして“中身”の正体を洗い出せと 丁重に依頼したのである。ただし、警察には露見せぬように。それは情報屋のほうもわきまえているに ちがいなく、今のところ、彼らのもとに金色に輝くバッジが突き付けられたという事実はない。
であるからこそ、ダンテはより一層の暇を持て余しているのだけれども。

何度目かのため息を吐き出したのとほぼ同時に、事務所の奥の扉が開いた。ダンテ、と呼ばわる声は機械の ように冷たいが、機嫌の悪そうな様子は感じられない。この男は常にこんな物言いをする鉄面皮である。 心臓は鋼鉄製かと、誰かが冗談を嘯くふうでもなく言っているのを耳にして、まさしく、と頷いて しまったことがあった。
よくあんなのと暮らせるな、とやはり誰であったか思い出せない誰かに言われたが、ダンテは肩を すくめただけで何も返さなかった。自ら望んだ道を否定することを、彼はよしとはしない。

「毎日、よくもそんなに集中していられるものだな」

呆れたような言葉に、しかしながら嘲弄の色はない。ごくまれに、この兄も何ごとかに対して 感心するということがある。今の言葉がそうだが、言われたダンテはあまり嬉しくはないということを、 兄はまるで理解していないにちがいなかった。兄の感覚は総体的に、他者とはずれたところにあるのだ。

「暇なんだから仕方ねぇだろ。……で、なに」

あまり機嫌のよろしくないことを感じ取ってか、視界の隅に映る兄が軽く肩をすくめた。

「それを睨む暇はあっても、飯を食う暇はない、というわけか。よかろう」

「っえ、ちょ……わっ!」

まさかのことに、ダンテは咄嗟に立ち上がろうとして椅子から転がり落ちた。脚をデスクに乗せたまま だったのだから、当然の成り行きである。不自然な恰好で落ちたダンテは、床に腰をしたたかに 打ちつけてしまい、いたた、と情けなく呻いた。
兄はそれを嗤うわけでもなく眺め、

「器用だな」

感心したように言った。いっそ嗤ってくれたほうがましだ、とダンテが思っているとは気付かずに。

「うるせぇ。それより、メシ。もうそんな時間かよ」

「おまえは知らんだろうが、もう六時だ」

「マジか……そういや暗いし……」

玄関兼事務所の出入口のガラスは、すでに採光の役割を終えたとばかりに黒っぽくくすみ、明かりのない 事務所内は薄闇に包まれている。なぜ今の今まで気付かなかったのか。それは彼の瞳が、暗がりに おいても機能を保ち続けていたからだろう。半人半魔の肉体は、当人の知らぬところでその能力を 発揮していることがまま、ある。夜目が利くのもその一つだ。
自分の鈍さに愕然とするダンテをよそに、よくいえば平静、悪くいえば無関心な兄は平坦な声音でいわく。

「だから言っただろう、よく集中していられるな、と。俺には不可能だ」

「……全然褒めてねぇな……」

「何を言う。褒めちぎっているだろうが」

「どこがだよ。あと、こんなん誉められても嬉しくねぇ」

「どちらだ。あまり我儘を言うな」

妙に噛み合わぬ会話に疲弊を感じた途端、ダンテの腹がぐぅと鳴いた。兄いわくの集中が途切れ、 腹の虫が一斉に目を覚ましたらしい。餌を求めて鳴く雛のように、ぐぅぐぅとひっきりなしに鳴きわめく。
兄がやれやれと言いたげに肩をすくめた。ダンテはといえば、鳴りやまぬ腹と兄を交互に見やり、 情けなく眉尻を下げている。

「世話の焼けるやつだ。……早く来い」

言い残し、ブーツの踵を鳴らして廊下へ消えた兄を、ダンテは慌てて立ち上がりまろぶように追った。





いつものようにうまい飯を食べ、いつもと変わらぬだらだらとした食後を過ごし、シャワーを浴び、 兄と躰を繋げ、眠りに就く。あまりにも変哲のない日常を過ごした明くる朝、一番にそれはやってきた。





「起きてっか〜、ダンテ〜!」

耳に心地好いとは言いがたい騒々しい声に、熟睡していたダンテはうっすらと目を覚ました。 いつものごとく、隣に兄の姿はない。事務所から響いたであろう声の主には、兄が先に姿を 見せるにちがいなく、自分が慌てて駆け付ける必要はないだろう。ならば、と寝返りを 打ったところで、ダンテはぱちりと瞼を開けた。
あの遠慮のない声はエンツォのものに間違いない。エンツォがわざわざ事務所にまで脚を運ぶ理由は何か。
例のオルゴールの中身についての話だと、思い至るのに時間はかからなかった。跳ねるように躰を起こし、 腰にまとわりつく鈍痛のことなど気にもせず、寝着のまま部屋を飛び出した。

時刻は午前九時五分。いつものダンナには考えられぬほどの早起きをした朝となった。





薄気味の悪い空模様のせいか、その館と呼んで差し障りのない豪邸は、見るものにやけに不気味な印象を 植え付ける。閑静な高台の住宅地にあって、本来ならば羨望と憧憬を浴びるにちがいない建物であろうに、 奇妙なほど異質なもののように周囲から浮かび上がって見えた。しんと静まり返った館には、 人の気配もない。それでいながら異様な威圧感を感じて、彼は思わず傍らの男に視線を送った。
男は館を睨み付けるように見つめたまま、何かいるな、とつぶやいた。大きくはないが、独り言でもない。 それは確かに彼に向けられた言葉であった。そうらしい、と彼もまた囁くように応じる。
人の気配のない館からは、人ではない何かの気配を感じ取ることができる。そして彼らもまた、人ではない 何かの血を継いでいるだった。






ジャック・ウィリアムズ。三十二歳。有名企業に勤めており、五年前に上司の紹介で実業家の娘である タチアナと結婚。子どもはいない。父親から与えられた屋敷に二人で暮らしているが、ここひと月ほどは 病気を理由に休暇中。近所付き合いはしない主義であるらしく、ジャックが休暇を取った前後から、 外出する姿を見たものはほとんどいない。見かけても、いつもタチアナひとりだそうだ。
ジャックは生きているか否か。調査報告を読み上げるエンツォも、双子も、そのことについては 言及しなかった。どちらに転んでも、彼らにはかかわりのないことだからだ。他人の家庭事情に 首を突っ込む趣味はなく、エンツォにしても、そこまでお節介は焼いていられない。

「ま、住所さえわかれば、あとはこっちでどうにかするさ」

肩をすくめたのはダンテ。

「派手に暴れてくれるなよ?」

渋面を作り、じとりと睨んだのはエンツォ。

「……依頼人の名は?」

鉄面皮をぴくりともさせず問うたのは、バージル。

「ギルバートと名乗る人物だ。ツラは知らねぇ。ジャックとタチアナの親戚知人をあたったが、一致する 人物はいなかった。ただ……」

「勿体ぶるな」

冷たいバージルの視線と声音に、エンツォが顔を引きつらせる。バージルは手間と無駄を徹底的に 嫌うたちなのだと、よく知っているダンテは口を挟んだり茶々入れたりはしなかった。

「ジャックは休暇を取るひと月ほど前から、妙に浮かれていたそうだ。終始物静かなやつがどうしたのか、 理由を聞いても『信じられないに決まっているから話さない』の一点張で、首を傾げるばかりだったんだと」

「他人には理解できない『いいこと』、ねぇ……なんか意味深だな。浮気でもしてたとかか?」

首をひねるダンテに、エンツォが肩をすくめて見せた。

「その線も探ってみたが、ジャックは女受けがいいわりに女遊びには興味がないタイプらしくてな、 それらしい影はなかった。夫婦仲は上々だそうだ」

「……とりあえず、行ってみるか」

言って、なぜだか眉間に皺を寄せているバージルをちらりと見やる。

「そうする他あるまい」

低い声音は何かしら怒りが含まれているように感じたけれど、ダンテはあえて指摘することを避けた。 いらぬ火の粉は、こちらに降り掛かる前に防いだほうがいいに決まっている。






名前と、住所。エンツォのもたらした情報の中で、有益であったのはその二つだけだった。ダンテに とっては充分な情報量といえたが、傍らの兄はそうではないらしい。事務所兼自宅を出てからも、 兄はあまり機嫌がよろしくない様子である。
兄は何を知りたかったのだろう。
ダンテには兄の考えることなどわからないし、知ったとしても理解できるかどうか、甚だ疑問でもある。 だから、彼は兄の頭の中を覗こうとはしない。時折やってくる小さな衝動を、腹の底に押し込めることは あるけれども。

「どう思う」

バージルが不意に問いかけてきて、ダンテは数度、目を瞬かせた。珍しいこともある。口には 出さずつぶやいて、なにが、と返した。

「ジャックのことか?」
そうだ、というバージルの言葉はほとんど吐息のようだったけれど、彼の耳は正しく聞き分けた。

「生きてるとは思わねぇな。誰がやったかは……わからねぇし興味もねぇけど」

おどけたふうに血なまぐさいことを言ってみたが、バージルの反応はいつものように薄い。 しかしいつもと違ったのは、バージルの眉間から皺が取れないどころか深くなったこと、 だろうか。乗ってこないのはいつもどおりだが、普段ならば、やれやれと言いたげに表情が 和らぐことが多いのだ。

(なんだ?)

それでも直接問うことができないのは、バージルがやけに神経を尖らせているように見えて、今は 触れるべきではないと本能が抑制をかけているからであり、けっして、ダンテが臆病だからと いうことではない。

バージルのあとに続き、ウィリアムズ家の敷地に足を踏み入れる。古い洋館風にデザインされた屋敷に 似つかわしい、凝った玄関扉のノッカーを、やはりバージルが鳴らした。当然というべきか、 反応はない。鉄が噛み合う重々しい音だけが、やけに虚しく響くだけだ。
二度ノッカーを鳴らし、内側から扉が開かれる気配がないことを確かめてから、バージルはおもむろに ノブに手を掛けた。開くはずのない扉は造作なく口を開け、客でもない彼らをその胎内へ 招き入れようとする。
ふたりは惑うことなく玄関扉をくぐり、誰からのものかもわからぬ招きに応じた。





まとわりつくような闇――背後で、扉がひとりでに閉まる音が聞こえた。



















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