花葬――参
かの人は呪う。
とあるものにかかわる、もしくはかかわろうとするすべてを呪う。
死ねと囁けば、胸の内の靄が晴れる気がした。しかしそれは見せかけの晴れ間であり、
すぐまた靄は胸を覆い、躰の隅々を包んでしまう。
死ねと囁くごとに。
靄は濃さを増し、鉄を侵す錆のようにゆっくりと、じわりじわりと黒くくすんでいく。だが、かの人は
自身が黒に染まっていくことには気づかない。ただ、呪う。死ねと囁く。死んでしまえと呪咀を唱える。
毎日、毎日、繰り返し。何度も、何度も。魂をすり減らしながら。
かの人は呪い続ける。何かを。
――誰かを。
事務所は翌日の昼には元通りの状態に戻っていた。血のりの痕跡は見事に拭き取られ、外れかかった扉の
蝶番は新しいものにすげ替えられ、一見すれば、ここに死人が倒れていたことなどわからない。
昨日の一件は夢であったのか、などと錯覚をしそうなほど、きれいにされていた。
人足を手配したのはエンツォである。面倒ごとを押しつけたのは貴様なのだから、後始末も当然請け負う
べきうんぬん、脅しに近い口上を述べたのは兄だ。ダンテはそれを、ただ聞いていた。そういった交渉――と
言えるかどうかはさておき――は兄に任せておけば間違いがない。何ごとも好みや気分次第で決めてしまう
ダンテと、すべてを客観的に判断できる兄との、大きな差だ。
事務所に据えた黒檀のデスクに腰掛け、床を睨む。“失せもの探し”の依頼。オルゴールの写真。
浴室に現れた男。眼球をえぐられた男の屍体。これらをつなぐ鍵は、“探す”という単語である。
当初はただ、古めかしいオルゴールを探せばいいだけだった。だけ、とはいえ手がかりは写真のみ。
それも写真を印刷した紙切れ一枚であり、他にはなんの情報もなかったのだから、一口に探すと
言ってもなまなかにことは進まなかっただろう。
依頼を請けて数時間もせぬうちに、事態は動いた。唯一の手がかりを焼失した代わりに、男の幻影が現れ
「探してほしい」との言葉を残したのである。しかもダンテの名を呼ばわって。
ただの“失せもの探し”は、一転して何から何まで不可解な怪異と成り果てた。加えて、昨日の一件だ。
わからないことばかりで、いったい何からどう手をつけていいものか、さっぱりきっぱりわからない。
何を探せばいいのか、もはやそれすらもあやふやな状況だ。
無意識にため息をついていたらしい。斜め後ろから、どうした、と低い耳障りの好い声がかけられた。
そちらを見るでもなく、べつに、とつぶやいた声音は拗ねたような響きがあったことに、ダンテは
気づかない。兄がひょいと肩をすくめたことも含めて。
心ここにあらず。まさしく然りである。
ぼんやりしている彼の頭に、兄の掌が乗った。くしゃりくしゃりと髪を掻く指先は優しく、ダンテは
思わず目を細めた。
「なに、バージル」
兄の手が、何か考えるように止まる。
「買い出しに行くが、どうする」
銀髪碧眼の見目の佳い男がふたり。並んで歩いていれば嫌でも人目を惹く。ぱっと見では彼らが双子である
とは気づかないにしろ、目立つことに違いはない。人通りの多い道に立っていれば、声をかけてくるものは
少なくないだろう。ただ、双子の片割れ――バージルの醸す雰囲気は他者を易々と寄せ付けぬ何かがあるため、
人々は結局、彼らをただ見つめ見送ることしかできない。
自宅からもっとも近いスーパーマーケットは、のんびり歩いて十分ほどの距離にある。普段、ダンテが
このスーパーマーケットを訪ねることは、まず稀だ。料理を始めとして、家事のすべては兄バージルに
任せきっており、食材はもちろん、日用品の買い出しもすべて兄が行っている。彼がスーパーマーケットを
訪うときは、兄が傍らにいるのが常だ。ダンテ一人では、何が安くて何が高いかもわからず、
そこいらの子どものほうがよほどしっかりして見えるほどである。
兄は慣れた足取りでスーパーマーケットの床を踏み、入り用のものを手際よくかごに投じていく。
何気ない動作でありながら、かごの中は整然としていて、ダンテはいつ見ても不思議で仕方がない。
完璧な、完璧主義の兄。対して己は、なんとも欠けに欠けた人間であることか――
普段から口数の少ない兄は、やはり一言もなく店内を巡る。その足に淀みは感じられず、どの品物が
どの棚に陳列されているか、しっかり記憶しているのだとわかる。ダンテはそんな兄の後ろを、隣を、
ふらふらしながらついていくばかり。あたかも、主人につき従う犬のように。
情けない。けれど、これでいいのだと納得している自分も確かに存在しており、結局、彼は兄を追い
抜くことはできないのである。
自由気儘な猫か、主人
どちらになりたいのか、ダンテは時折、自問する。
まるで会話のないまま会計を済ませた双子は、店を出たところで揃って足を止めた。買い忘れた何かを
思い出した、という理由ではない。何かが五感とはべつの部分に触れたようにダンテには感じられた。
感覚は違えど、兄も同じ何かを感じたらしい。流し目を呉れるように一瞬、こちらに走らせた視線は
痛いほどに鋭かった。
スーパーマーケットの出入口付近で、小柄とは言えぬ男が二人、棒立ちになっていれば周囲が迷惑そうに
ざわつくのは当たり前だ。しかし誰も「邪魔だ」とか苦言を投げつけて来ないのは、彼らの周りにだけ、
異様なまでに張り詰めた空気が漂っているからかもしれない。
ぴんと張った弦のように、尖らせた神経を均等にあたりを窺う。動きはすぐにあった。
男が立っている。驚いて瞠った目はきれいなエメラルドグリーンだが、ダンテの視線は男の足元に走っており、
瞳の色など見てはいなかった。
陽に焼けた影。黒いそれがざわざわと気味悪く波打って、まるでべつの生きもののようだ。
誰何の声を上げるより早く、それが動いた。男の影がアスファルトに手をかける。ずるりと躰を
持ち上げたそれは、水面から陸へ上がるように身を起こし、一瞬の間に中空へ翻っていた。黒い、
濃い靄のような塊だ。双子の頭上に舞い上がったかと思うと、半瞬のちには、操り糸が切れたかの
ようにべしゃりと彼らの足元に叩きつけられた。
意志を持つ黒い靄。しかし悪魔と認識するには存在が弱くありすぎ、かといって彼らのどちらもが
靄から目を離さないのは、それがあまりにも強い殺気を放っているからだった。
「……油断するな」
兄の静かな、落ち着き払った声音にダンテは頷く。当然、と返したダンテに、兄はやはり凪いだ水面の
ように平面的な声でもって、違う、と言った。
「標的はおまえのようだ」
「俺?」
心当たりはないが、身に覚えのない恨みを買うことはよくある。これもその手合いだろうか。命を
凌ぎ合うことはきらいではないが、せめて人の身でもって現れてほしいものだ。
つまらないことを考えていると、再び靄が動いた。周囲は凍り付いたように、この不可解なことの
成り行きを凝視している。なんだあれは、だとか、警察、という囁きはちらほら聞こえるけれども、
誰も取り立てて騒いでいないのは、まだこの靄が誰に対しても危害を加えていないからであろうか。
靄はゼリーのようにぐにょぐにょと背を伸ばした。足か尻尾か、それとも根か、一部だけは地面に
つけたままである。ダンテよりも頭一つ分ほど低いところで、それは身を伸ばすことをやめた。丈と、
幅は。丁度、人を思わせる。
(――誰だ)
声なき誰何に、応えるものはないはずだった。しかし。
「み、つ、け、た」
しわがれた、地獄の獄卒を彷彿とさせる恐ろしげな声音が、確かにそう発声した。見つけた。その言葉が
何を意味しているのか。立ち尽くす彼に、人型の靄の、口にあたるあたりにぴしりと亀裂が入った。
三日月形に切り取られたそれは、靄が笑っているのだと遅まきながら彼にも知れた。
笑う。みつけた、と繰り返し、靄はさらに笑う。不気味な光景だ。しかもそれらがすべて、ダンテに
向けられたものだというから、いっそう気味が悪い。
「誰だ、てめぇ」
口汚なく問いただすと、それは不意に笑うのをやめた。三日月形に裂けた部分が、さらにがばりと
大きく裂ける。瞬時に、ダンテはアスファルトを蹴って右へ身を踊らせた。ダンテが立っていた
ところに、靄が突進していく。裂けた口は、ダンテの喉元を正しく狙っていた。
「わけ、わかんねぇ」
呟く彼の眼前で、蒼白い閃光が靄を真二つに切り裂いていく。悲鳴があがった。靄のそれと、彼らを
ゆるく囲んでいた物見高い人間たちのそれ。
彼はどちらの声も聞いていなかった。すぐに体勢を立て直し、靄の背後に回って右手を突き出す。
その手に握られているのは、黒い銃だ。
銃声。さらに、悲鳴。
ダンテが続けてトリガーをしぼろうとし、兄が細身の片刃剣を再度振るおうする。が、どちらも、靄の
切れ端をかすめただけに終わった。すでに人型をなくした靄は、断末魔のそれに似た悲鳴をあげながら、
大通りのほうへとアスファルトを滑っていく。よい、とは言えぬ展開だ。
「チッ……!」
したたかに舌打ちして、ダンテは靄を追った。兄はなぜか、数秒遅れて彼に続く。しかしダンテは
それには気付かない。
ダンテの目に、靄が大通りの手前の辻をさっと曲がったのが映る。千切れかかった影が尻尾のように
なびき、本体から離されまいとしがみついている。
どこへ行こうというのか。息を切らすでもなく追うダンテは、頭の中でこの周辺の地図を広げながら、
内心で首をひねった。棲処に戻るつもりなのだろうとは、思う。相手は手負いだ。辻に行き当たる
たびにあちらへ折れ、こちらへ曲がりするのは、彼らを撒こうとしているからに違いない。
みつけた、と笑い、襲ってきたあの勢いはどこで削がれてしまったのか。靄にはどこかで立ち止まって
逆襲する素振りが見られない。
(詰まらねぇ)
拗ねたように、不謹慎なことを思う。靄がいつ、ダンテ以外の人間を襲うかわかったものでは
ないというのに。
そういえば、さっきまで背後にあった兄の足音が消えていることにダンテは気付いた。頭の良い兄のことだ。
靄の行く手に先回りをするつもりなのかもしれない。それとも、上に――建物の屋根を伝って靄を
追っている可能性もある。
何にせよ、どこかに必ずいることは間違いない。ダンテはただ、走るだけだ。
五分、十分――時計を着けないたちのダンテには、どれほど時間が経過したか窺い知ることはできないが、
ようやく終着点が見えた。靄がびくりと痙攣し、急停止したのだ。行く手には、兄が涼しげなおもてで
立っている。やはり先回りを仕掛けていたらしい。
「鬼ごっこは終わりだ。まずはあんたの名から訊こうか?」
銃身で肩を二度ほど叩き、のんびりと問い掛ける。あちこちが千切れて、人の形などとうにかなぐり
捨てた靄だが、殺気だけは捨てていないことにダンテは驚いてすらいた。まことに見上げた根性である。
しかし、彼らの相手ではない。
靄はくぐもったうめき声をもらし、ゆらゆらと揺れている。何を考えているのか。いや、靄の意志は
たった一つのことにしか向いていない。ダンテを取り殺すこと。殺意ばかりが満ち満ちており、
それに到る意図であるとか、要因などといったものが一切見えなくなっているのだ。
黒い躰は意志の表れか。
それとも本体はべつの場所にあって、これはただの傀儡でしかないのか。どちらにしろ、正体が
わからないのでは仕様がない。
「おい、……」
再び声をかけたダンテを、兄が止めた。やめろ、という静かだけれども人を威圧する声音に、ダンテは
ぴりっと口を閉じた。
「無駄なことだ。これに言葉は通じぬ」
そうかも、しれない。しかし問いかけずにはおれぬダンテの気持ちは、一切の無駄を嫌悪する兄には
判らないだろう。
ゆらゆらと絶え間なく揺れていた靄が、ふと、止まった。何か、ぶつぶつ囁いているらしい。ダンテは
じっと耳を澄ました。死ね。あまりにも明確な単語を、繰り返し繰り返し囁いているらしい。
「呪咀か」
厭そうに、兄がつぶやいた。呪咀。口の中で繰り返してみて、ダンテは眉をしかめた。この靄の殺意の
対象はダンテである。ならばこの呪咀は、当然ながらダンテに向けられたものということになる。
呪い――悪魔よりも、無数の銃口よりも、たちが悪い。正しい手順を踏んでいるかどうかにかかわらず。
靄は静かに呪咀を唱える。手を出す機を失ってしまったダンテは、ふと、靄が濃くなっていることに
気がついた。黒は、黒だ。けれども確かに、濃くなっている。影が光の加減で色を変えるように、
靄は少しずつ、少しずつくすんでいく。
「浅はかな知恵で呪咀など唱えるからだ」
いつの間にか真横に移動してきたらしい兄が、靄を睨みながら吐き捨てた。
「し損じた呪いは自身に還る。何の覚悟もない愚者が、安易に手を出した結果がこれだ」
靄はぶるぶると身を震わせ、呪咀の言葉の合間合間に、苦しげに呻く声が混じり始めた。時折、なぜ、
という言葉が聞こえる。ダンテは片目を眇めた。呪咀が自身に降り掛かり、自らの命を脅かしていると
いうことに、靄は気づいていないのだろう。
兄は「安易」という単語を選んだが、ダンテは違うのではないかと思う。この靄――誰か――は、己が
呪咀を使役していることに気づいていないように思えるのだ。全くの素人が激しい殺意の果てに唱え
続けた言葉が、積もり積もって呪咀に姿を変えてしまったのではないか。おそらくこの、靄も。
あるいは生霊の類であり、本人は夢を視ているような感覚なのかもしれない。
哀れなことに。
自業自得であっても、殺意が自身に向けられたものであっても、ダンテはこの誰かを哀れむ。しかし
この感情は兄には理解し得ないだろう。
兄の左手は、父の形見である剣があり、右手は剣の柄にかかっている。いつでもこの誰かを死に
至らしめることができるように。
靄はさらに苦しみもがき、ぶるぶると震えながら身を捩ってはうめき声をあげる。それでも頑なに
死ねと繰り返す。その意志は、力はどこから沸き上がってくるのか。痛みによってか、靄は身を
縮めるように中央に向かって収縮し、三分の一ほどの小ささになった。凝縮された黒い塊は、
ブラックホールのようにも見える。
「シ、ネ……苦、シ……イ、息が、……死ね……」
ぜいぜいと苦しむそれに、ダンテは銃口を向けた。一つ、銃声。銃弾は黒い塊の中心を正確に貫き、
コンクリートを穿った。悲鳴はなかった。ただ、なぜ、と。
「せっかく、見つけ、た、のに」
死ねと繰り返しながら、その声音は少しずつ弱くなっていく。呪咀を唱えながら死んでいく。こんな生を
望まず進んでしまった経緯とは、いったいいかなるものであったのか。
腰のホルスターに銃をしまい込んだダンテは、肩をすくめて己を呪い殺そうとしたものを見つめた。
黒い塊は地をのた打つように這い回る。もはやその命に猶予はない。
「ダ、ン、テ」
はっきりと、それは彼の名を呼んだ。こと切れる寸前のうわごとではない。確かな意志をもって
紡がれた言葉だ。
「あんたさ、え、いなけ、れば……」
乾いた砂がぱらぱらと散るように、黒い塵が風に舞う。さらさら、さらさら。
「死、ね」
最後の最後まで、それはダンテを呪っていた。よほどの執念。それほどの怨嗟。身に覚えのない何を、
自分はしてしまったのだろう。しかし無意味な謝罪はできない。それはいかにも無責任だ。
「気に病むな。無意味だ」
兄の声。ダンテはそっと顎を引いた。
カタン、
何かの、音。塵となって消えた靄の胎内から、黒い箱のようなものが産み落とされた。片手で少し余る
程度の大きさくらいだ。蓋が、落下した衝撃でかぱりと大きな口を開けている。
「なんだ、こりゃ……」
近寄り、腰を折って箱を取り上げる。火薬の臭いはしないから、爆薬の類ではない。そうとわかって
いるため、傍らの兄もダンテを止めることはしなかった。
掌に箱を乗せ、いろいろな角度から眺めてみる。蓋の開いた中身は、見慣れぬ金具。小さな鋲のような
ものが不規則に穿たれた円柱が横たわっており、推察されるに――
「これ……オルゴール、か……?」
ぜんまいを巻く螺旋は見当たらぬけれども、構造は確かにオルゴールのそれであろう。ちろりとも
音を奏でることのない箱。首をかしげるダンテの手から、兄が箱をひょいとさらった。先刻の
ダンテのように箱を観察し、中身を見、そして――おもむろに箱の中へ長い指を突っ込んだ。
「何してんだ?」
問う、ダンテの不審顔に、兄は無造作に箱を差し出した。右手には、箱から引き抜いたらしい何かを
握っている。ダンテはそっと箱を覗いた。と、――
「っう、……」
思わず、うめいた。お前の肝は鉄でできている、とまで言われるほど豪胆なダンテであるが、
この不意討ちには適わなかった。
眼球。人のものと思われる眼球が一揃い、ぴったりと詰められている。白く濁った光彩は灰青色。
もとはきれいな空色だったのかもしれないそれは、誰の目にはまっていたのか、ダンテはそこまで
考えることはしなかった。持ち主はすでに死んでいるに違いなく、誰かわからぬ死者をむやみに
悼むほど、ダンテは節操なしではない。
「このオルゴール、」
不意に兄が口を開いた。こちらもこの眼球の持ち主を悼むふうはない。
「どこかで見たな」
言われて、しばし。ダンテには兄の言わんとしていることに、遅ればせながら気がついた。
オルゴール。失せ物探しの依頼。見知らぬ男。目玉のない死骸。
「……わけがわからねぇ」
茫然としたダンテの呟きに、答えをくれるものはなかった。古びたオルゴールに納まった二つの眼が、
静かに彼を見つめている。
死者は彼に、何をか語らんとしているのか――ダンテには知るよしもない。