願望
兆候には、気付いていた。けれど大丈夫だろうと高を括った。確かにある意味では、
それは”大丈夫”に違いなかった。
しかし、彼は後戻りの出来ぬ一歩を踏み出してしまったのだ。
それが、間違いだとも知らないで。
しかし、彼に後悔などというものはなかった。いや、正確に表現するならば、後悔など
出来ない、とせねばならない。何故ならば、彼は既に総てをなくしてしまったのだから。
過去があり、それを顧みて初めて人は後悔する。一秒ごとに過去を失って行く彼に、
人が当然のように行う“後悔”という行為が、出来よう筈がない。
そしてそれを、哀しいことだと感じることも。
このまま縮んでしまったなら、自分はどうなってしまうのか?
そんな、少し前までは常に付き纏っていた不安さえ、今の彼には無縁のものだった。
消滅は無か。
崩壊は死か。
男が泣いている。いや、涙は流していないのだが、彼には泣いているのだと判った。
涸れた瞳がこちらを見る。虚ろな双眸。彼しか映さぬ、哀しみの瞳。
彼は男が何故そんな目をするのか、判らない。
考えようとは、した。自分が悪いのだろうということは判るが、それ以上はどんなに
考えても少しも判らない。
考えるそばから、思考が散り散りになる。強い風に吹かれる砂粒のように、一所に
止どめておくことが出来ぬのだ。
男はそれを嘆いているのかもしれなかった。
人として当然持っているべき思考力が、彼はない。何を言っても理解の出来ぬ彼に、
男は苛立ち、そして泣いているのだろう。
ごめん、と。それだけを言うことすら彼には出来ず。口を開けども、喉から出るものは
掠れた空気の漏れる音のみ。
紙に文字を書くことも、彼には出来ないのだ。
思いを伝える手段を一切持たぬ彼には、男の涸れた涙を止める術はない。
それだけが、辛い、と彼に痛い程思わせる。
男が自分の何なのか、彼は知らない。しかし彼は、男が自分に必要不可欠な存在であること
だけは判っていた。それは頭で考えたものではなく、本能に近い直感。
この存在がなければ、自分は壊れるのだろう。
証拠はなく、しかし彼は確信した。
心と躰と、そして身の内にある人ではない何かが、この男が欲しいと叫んでいる。
それは強過ぎる程の慾求。
言葉を持たぬ彼には、しかしそれを表わす手段を知らず。
男の虚ろな瞳を、ただ見つめることしか出来ない。
無と、死。
それは決して、同義ではない。
例えば――――そんなことを、よく考えていた。
今になってはもう、記憶の断片すらも残ってはいないが。
双子という生き物は、何故生まれるのだろう。
幼い頃から疑問だった。
特に自分たちのような一卵性双生児は、遺伝子レベルで同一の人間であることが科学的に
立証されている。ならば、何故二人に別れて生まれる必要があるのか。そこが、彼には全く
理解出来なかった。
相違点は生まれ落ちて以降の、後天的に形作られる性格やものの考え方のみ。先天性の
何もかもが、同じ。
彼らは悪魔の父と人間の母から、半人半魔として生まれた。かなりの上級悪魔であった父の
魔力を、彼らはやはり均等に受け継いで。
兄はある日悪魔として生きる道を選び、人としての生を選んだ弟と袂を分かった。それは、
兄にとっても弟にとっても、長く引き摺る疵となった。
兄弟は三度殺し合った。
それでも彼らは、やはり悪魔でもなければ人でもなく、酷く中途半端な存在でしかなく。
たとえどちらかが死んだとしても、完全な存在とはかけ離れた生き物にしかならなかった
だろう。
死んだ筈の兄が生きて戻った時、弟はそのことを実感した。
彼らは二人で初めて、完全なものとなれるのである。
そう、例えばどちらかが死んだなら、彼らは成体になる機を失うのだ。
どちらか一方だけが死んではならない。
死ぬのではなく、一つになるのだ。
母の胎内は、暖かではなかったか。
分かたれることもなく、それによる哀しみなどなく、ただ緩やかな仕合わせがそこには
あったではないか。
それなのにどうして。
――――何故、二つに分かたれてしまったのか。
疑問はいつしか、形を変えた。
戻ろう。
何をも恐れずに済む、あの頃に。
哀しみのないところへ。
愛に満ち、仕合わせに満ちたあの場所へ。
……尤も、唯一の安らぎの場を持つあの人は、随分と前に死んでしまったけれど。
それでも、構わない。
哀しみも憂いもない場所が、すぐ側にあるのだから。
無は霧散を、死は転生を意味する。
どちらをも拒んだものは、どこへ行き、何になるのか。
傍らに暖かな何かの体温を感じ、彼はその何かに腕を回した。するとそれは、彼を優しく
包み込んでくれた。彼は辛うじて残った“嬉しい”という感情を精一杯に表わし、それに
全身をすり寄せた。
いつか同じようなことをした。そんな、ぼんやりとした既視感を覚えたが、いつのこと
だったかは判らない。
彼は、口も利けず、歩くことも出来ず、目すら見えなくなっていた。暖かな何かが実の兄で
あることに、彼は全く気付かない。何故なら、彼の総ての記憶は消失し、最早自分のことも
判らなくなっているのだから。
総てをなくし、真白いものになった彼が、それでも喪うことなく唯一守り抜いたものが
ある。
それは、一つの願い。
かつてはただの疑問でしかなかったそれは、時をかけ、経験によって形を変え、望みという
名の願いとなって彼の心を占めていた。そして、その願いの為に、彼は今自分という存在を
消そうとしている。
否、消える、という表現は正しくない。
この世に在る唯一と、一つになるのだ。
それは消滅でも、死でもない。
一つであるべき二つのものを、元来の形に“戻す”ということだ。
やり直したい、と願っているのではない。
未来を安んじたいのだ。
この先に待っているであろう哀しみには、きっと堪えられないから。
今までも、堪えたのではなく、忘れようとしていただけだった。堪えられないと判って
いたが、縋るものがなかった。だから、忘れるしかなかった。
けれど、もう。
自分は堪えることも、忘れることも出来ない。
だから。
だから、堪える必要もなく、忘れる必要もないようにするのだ。
一つに、して。
どうか、俺を受け入れて。
お前の一部に、なりたいから。
そうして、彼は昏き楽園を手に入れた。
『回帰』のその後をお送りしました。
激しく救われません。誰が?
それは最後までお読みになって下さった方の直感にお任せです。
ちなみにこれ、別バージョンのオチも用意してございます。
どちらがあなたのお気に召しますか…
ずいぶん雰囲気が違いますので、そのつもりでどうぞ。
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