幽宮 / 3
見られている。そう感じたのは今が初めてではない。
常に、誰かが自分を見つめている。しかしその視線の主は、突き止めようにも出来ないのだ。
視線を辿った先には、いつも何もない。
だから今は、ただ見られるがままに放置している。
「よぅ、首尾は上々だったみたいだな」
陽気な声に、トニーはちょっと眉をしかめ、グルーはいつものことだとトニーの肩をぽんと叩いた。
仕事が上がって酒場に顔を出すと、男――エンツォは決まって上機嫌で彼らを出迎える。
人形狩りを遂行し得る人間は少ない。そして人形を無事狩ったとなれば、公の組織から非公式に
謝礼が下されるのだ。それが人形狩りに附属する多大な報酬である。ちなみにその報酬の一部は、
狩りを行なう便利屋ないし荒事師を選んだ仲介屋に渡される。つまりエンツォが上機嫌であるのは
そういうわけだ。
「俺がしくじるわけねぇだろ。なぁ、グルー?」
カウンター席に陣取りつつ傍らのグルーに同意を求めると、男はにやりとし、どうだかな、などと
嘯いた。トニーはむっとして、なんだよそれ、とグルーに噛み付く。
「お前さんの腕が立つことは認めるし、頼りにもしてるが、」
「が、何だよ」
「無茶がすぎる」
すっぱりと言われ、トニーは唇を尖らせた。これはグルーにいつも言われている言葉で、はっきり
言って聞き飽きてしまっている。しかしトニーにはグルーの忠告を聞き入れる気がないのだから、
何度も言われても仕方がなかった。聞き飽きたと思っていても、グルーの小言はある種快くもある
のだから。
「べつに、かすり傷もねぇんだから良いじゃねぇか」
ぶつぶつ文句を言えば、そういう問題じゃないと返されて。いつものように不味いエールを
注文したグルーの横合いから、トニーは「いつものアレ」と唇を尖らせたまま注文する。
グルーとは逆側の隣りで、エンツォがまたかという顔をしたが見ぬふりを決め込む。好物を
食べるのに他人にどうこう言わせはしない。
「ちぇっ……」
恨みがましく舌を打ったトニーを、グルーは餓鬼だと思っているのに違いない。ただでさえ、
グルーには子ども扱いをされてばかりなのだから。そうやって拗ねるからこそ、グルーはトニーを
子ども扱いしてやまぬのだとは、トニーは気付いてはいない。結局のところ、彼はまだ
若いのだ。
隣りにいながら彼らのやり取りを眺めるだけだったエンツォが、ふと思い出したように声を
上げた。そういえば、と。
「まだ聞いてねぇだろうが、どうも腕の立つ新人がいるらしいぜ」
酒場の主人に頼んだものが運ばれるまで、暇を弄んばねばならぬトニーはエンツォのほうへ躰を
向けた。
「あぁ? 新人?」
気のない声だと自分でも思う。エンツォも当然思っただろうが、いつものことと気に留めなかった
ようだ。トニーが身を乗り出すのは人形狩りの依頼を持ち込んだときのみなのだから、他の話に
興味を惹かれぬのは今に始まったことではない。
左隣りで、グルーが先に出されたエールを煽っている。あんな不味いものをよくも飲めるものだと、
トニーはいつも思う。
「こっちにゃまだ顔を出してねぇが、そいつなら人形も楽に狩れるだろうって話だ」
話しながら、エンツォはどこか面白くなさそうだ。自分が世話をしたのでなければ、その新人が
人形を狩ってもエンツォの懐には何も入って来ない。それでだろう。勝手なことをされては困ると
思っているのかもしれないが、一仲介屋に他者の仕事を制限する権限はない。秩序や規範にしろ、
そういった人を戒めるものは、ここには存在すらしないのだから。
「どういう奴なんだ?」
エールで舌を湿らせたグルーが、トニー越しにひょいと顔を覗かせた。トニーの肩に顎を乗せる
ような恰好だが、トニーはまるで気にしていない。
エンツォもまた、彼らのそんなさまは見慣れており。
「いや、俺もまだ見たわけじゃねぇんだ」
後頭部をがりがりと掻くエンツォに、トニーが肩を竦めた。
「なんだ、結局噂だけのもんなのかよ」
落胆するでもなく、ただエンツォを揶揄するだけの軽い口調。エンツォはしかしそれには乗らず、
まぁな、とため息を吐いた。
「だがただの噂ってわけでもないぜ。確かな話だ。そのうち、ここにも顔出すだろ」
奇妙な緊張感を窺わせるエンツォに、トニーはふぅんと気のないままだ。グルーはそんな
トニーを「やれやれ」とでも言いたげな表情で見たが、しかし何を言うでもない。どうせまた、
やんちゃ盛りの息子を見守る父親のような顔をしているのに違いない。まったく、面白くない
ことだ。
それを、嫌だとは思わぬ自分自身こそが。
不機嫌さを繕ったとて、注文した品が目の前に置かれてしまえば自然と笑みが込み上げる。
トニーはこのときばかりは子どものような笑みを隠しもせず、好物のストロベリーサンデーに
食らいついた。そんなトニーを、おとな二人はやはり父親のような眼差しで見つめるのだ。
これも、いつものこと。
突き刺さる視線は強く、しかしどこから放たれているかは判らない。視線の先を追うことに飽いた
彼は、ただその矢のような視線を浴びるばかりだ。
その、矢に。いくばくかの心地好さを覚えるようになったのは、男と躰を繋げることに慣れた
頃だっただろうか。
気が散っていると、そこまでは思わないのだけれど、何か、心のどこかがこちらを向いていない
気がしてならない。
(まぁ、今さらだが)
彼と初めて共闘したとき、グルーは素直に嬉しいと感じたものだった。腕が立つからこそ彼は常に
単独行動を好み、誰とも組みたがらないという話も聞いていた。その彼が自分に背中を預けて
くれたことを、嬉しく思わぬわけがなかった。
気に、なっていたのだ。ずっと。彼が酒場に出入りするようになってから(グルーが彼のことを
知ったのがそのときだった)、ずっと気になっていた。荒事師どもの中にいるような、
あの小綺麗な坊やを汚してやりたいなどという下劣な下心からではなく。
そう、グルーは初めから彼のことが心配でならなかったのだ。
強さゆえの危うさが彼にはある。強いがために孤立し――そして彼もそれを望んでいる――、
気安いようでいながら誰をも寄せ付けぬ。心の奥底をけっして見せず、しかし一方で開けっ広げな
所作を見せる。矛盾しているようだが、実際彼は緻密に計算した上で自身というものを演じて
いるのだとグルーには思われた。そしてそれは、間違いではないはずだ。
彼がグルーに、上辺だけであっても気を許してくれた理由は何であるのか、判然とはしない。
彼は気まぐれだ。だからおそらく、そういうことなのかもしれない。まぁ、それは良い。深く
考えたところで仕様のないことだ。
何にも囚われることのない彼が、今何かをしきりに気にしている。その原因は何であるのか、
グルーは考え続けているが答えは見出せていなかった。当たり前のこと、なのだろう。グルーは
彼ではない。彼の思惑など判るわけがないのだ。
しかしそれが、不満でもある。
いかに底から信を置く相手であろうと、他者のすべてを理解することは難しい。彼と自分も
そうだ。判っている。判っているのだけれど、それを納得したくないという気持ちのほうが
大きい。
(こうも、まぁ)
彼に“はまる”とは思ってもいなかった。いや、彼を初めて目にしたときから、もはや決まって
いたのかもしれない。
光を弾く銀色の髪、澱みを知らぬ碧眼。透けるような白磁の膚。爽快としか言えぬ、明るい性格。
しかしその根元に密かな陰を隠した彼に、一目で墜ちてしまっていたのだ。この歳になって、
何とも情けないことだけれども。
だから彼が自分に懐いてくれたことに、困惑こそすれど嫌悪など欠片も思わず。付き合ってみて
判った彼の子どもっぽさも、それゆえの背伸びも、グルーにはすべてが愛しくてならなかった。
だから、彼の内心を探ろうとはしない。知りたいという気持ちは当然あるが、しかし彼が
語りたがらぬことをこちらから追求すれば、彼はきっと自分から離れてしまう。そう確信を
持てるからこそ、グルーは今の距離を保っているのだ。これはおそらく、暗黙の了解という
ものだ。
(物足りなくはある。だが、それは贅沢ってもんなんだろうな)
グルーほどに彼が気を許した相手は一人もいない。馴染みの情報屋にすら、そうだ。だから
不満など覚えるべきではないのである。今以上に、など、それこそ贅沢というものだ。
グルーは横になっていた長椅子から身を起こし、短く刈った髪をがしがしと掻いた。近頃、
どうも馬鹿なことばかりを考えている。その自覚は充分すぎるほどにあるのだが、やめることが
出来ないからこそいっそう馬鹿らしかった。いくら考えたところで詮ないことだと、判って
いるのにやめられぬのだから。
肩と首が痛む。緩衝材のすっかりくたびれてしまった長椅子に、しばらく寝そべっていたの
だから当然のことか。自嘲して、グルーは首を捻った。こきりと軽い音がする。もう若くは
ないのだと、言い聞かせられているような気がした。
若くないことは判っている。彼のように、などといくわけがない。しかしグルーには稼がねば
ならぬ理由があるし、まだ荒事師をやめるつもりはなかった。彼との接触も、今の仕事を続けて
いなければ持てぬものなのだから。
(あぁ……)
いっそ、笑えてしまう。彼にすっかりはまってしまっている自身を、笑わずにどうしろというの
だろうか。
彼を独占しているような気になっている自分を、嘲らずにはおれない。彼は誰のものにもならぬ
のだと、最もよく知っているのは自分なのだ。馬鹿馬鹿しい。まったく、馬鹿馬鹿しいことだ。
もし、もしも、だ。
彼が他の誰かのものになったとしたら。
(俺は、)
どう、するのか。やはり冷静ではいられぬのだろうか。きっとそうに違いないと思いながら、
自制出来ると信じたがっている自分がいる。外聞が悪いだとか、そういうことを考えてしまう。
なまじ歳を取るとこれだ。もっと若ければ良かったとは不思議と思わないが、しかし若さゆえの
行動力には羨望を覚える。
所詮、世の中はなるようにしかならない。世を悟るにはグルーもまだ若いが、察せられるものは
ある。この世はそうそう都合の良いことなど起こらない。だから人間は、こんな狭い大陸に取り
残されても生き足掻いているのだ。まだ終わりではないのだと、自身に言い聞かせながら。
必死に、生きている。グルーも、そうだ。おそらくは、彼も。
どこか生き急いでいるように見えるとは、あえて見えぬふりをしているけれども。
出来得る限り支えになってやりたいと思うくらいは俺の自由だろうと、誰にともなく訴えて。
グルーは台所で硝子杯に汲んだ水を一息に飲み干し、深いため息を落とした。
こちらを見てほしいなんて、言う勇気すらないのだ。
グルトニ好きです。…いまさらですかね。
[08/09/13]