幽宮 / 4
それは一条の光すらない真の闇の中、ひたひたとこちらへ近付いて来る。
その足音は確かに聞こえるのだけれども、肝心の姿はまるで見えない。ひたひた、ひたひた。
大きくなることも小さくなることもない足音は、彼を包囲するかのようにどちらの方角を向いても
聞こえてくる。そうでありながら、一人分の足音しか聞こえぬのだから気味が悪い。
ひたひた、ひたひた。
止まることなく、ずっと、ひたすらに聞こえるそれ。
堪らなくなって彼は駆け出した。いっこうにそばへは寄って来ない足音。しかしその場にじっと
していることはできなかった。
あちらは自分が油断するのを待っているのではないか、いつまでも
立ち止まっていて、ふと振り向けば目の前にまで詰め寄られているのではないか。
彼の足を駆けさせたものは、紛れもない恐怖であった。
目が、覚めた。
いっぱいに瞠った瞳には、見慣れた薄汚い天井が映り、陽当たりの悪い立地らしく窓からは
ぼんやりとしか明るさしか取り入れられていない。それでも、そこは今の今まで彼がいた闇の中と
比べれば、眩しくすらあった。
夢。彼はからからに渇いた喉を震わせて呟いた。汗をかいているらしく、寝着が膚に張り付いて
気持ちが悪い。早く着替えなくては風邪を引いてしまいそうだ。いや、それよりもシャワーを
浴びるのが先か。
はぁとため息を吐くと、彼が落ち着くのを待っていたかのように大丈夫かと問う声がかけられた。
低い、落ち着いた声だ。彼は身を起こしながらばつが悪そうに髪を掻いた。唇が知らず、尖って
いる。
「変な夢見た……」
ぼそりと呟き、不揃いの爪で胸のあたりをがりがりとやる。それを、男が咎めた。
「よせ、傷になる」
指摘どおり、彼の胸には引っ掻き傷が幾筋も残ってしまっている。しかし彼は、自分のつけた
傷などいっこうに気にしなかった。女ではないのだから、躰にいくら傷が残ろうとも構うことは
ない。それよりも、だ。
彼はにやりとし、眉を顰めている男を見やった。
「俺はだめで、自分は良いわけか?」
彼が自らつけた爪の跡とは異なる紅いものが、彼の膚にはいくつも散っている。それらは傷という
には淡く、薄紅色の花弁のようにも見える。(人工的に作り出された花しかみたことはないが。)
無論、情交の痕跡だ。
彼らは昨晩、飽きるほどに何度も膚を合わせた。その都度男は彼の白い膚を吸い、情痕を刻んで
いた。彼の蒼白くすらある膚を気に入っているらしい男には、そうせずにはおれぬ理由があるの
かもしれない。
男は白々しく、それは別だとのたまう。
「お前も、爪を立てるのは俺だけにしておけ」
「は?」
意味が判らず首をかしげた彼に、男は詳しく説明することはしなかった。肩を竦め、風呂を使う
かと問うてくる男に、腑に落ちないながらもこくんと頷く。
「一緒に入ってやろうか?」
にやにやと笑う男に、彼はちょっと鼻の頭に皺を寄せた。
「シャワー浴びるだけじゃ済まなくなるだろ、絶対」
「ほう? 俺がそんな、自制の利かない男だとでも?」
片方の眉を器用に吊り上げた男へ、彼はちがうと首を振り、舌足らずに言った。
「俺が我慢できねぇ」
男を絶句させることに成功した彼は、くすくす笑ってキスをねだった。
自らを快楽主義者と豪語する彼にとり、自制などする意味もしようと思ったこともない。しかし
ながら、彼とて選択はする。快楽を得られるからと言って誰とでも寝るわけではまったくないし、
何にでも手を出すわけでもない。麻薬の類に頼る気にならないのも、そうした選択ゆえの
ことだ。
彼が専ら嵌まっていると思うのは、男とのセックスである。男ならば誰でも良いとは絶対に
言わない。矜持の高い彼が自ら足を開くのは、グルーに対してだけだ。他は有り得ないし、
そんなことは当たり前のことだと思っている。
だが。
彼がもっとも快楽を得られるのは、グルーとのセックスではない。
人形狩りの仕事が、月に何度もあることはめったにない。それは当然のことで、
DoLLの個体数そのものが多くないのだから、そう頻繁に遭遇できる
ものではないのだ。トニーは狩りのない間、便利屋として他の仕事をこなす。無論、正規の
仕事ではない。依頼を持ち込む者はその素性を問われないし、便利屋や荒事師といった連中の
素性もまた然りだ。
どんな仕事も、一応はこなす。トニーは腕利きと有名であり、彼に持ち込まれる依頼は引きも
切らない。それでも彼は名声にあぐらをかくことはしないし、むしろそんな名声など煩わしい
だけだと思っている。トニーの本業は、あくまで人形狩りであるからだ。
この月に入って、トニーの狩った人形の数はすでに三体になる。これは異常と言って良かった。
しかしトニーはこの異常な現象の所以を調べようという気もなく、ただDoLLを狩ることにより
得られる快楽に溺れた。そんなトニーを、グルーが何をか思案するような双眸で見つめていたが、
トニーはそのことに気付かなかった。
人形を狩れば、その後はセックスにもつれ込む。血が滾るとでも言おうか、それこそ辛抱ができ
ないのだ。この猛ったものが女に向かないのはなぜであるのか、トニーにも理由は判らない。
「なぁ、トニー、」
坊やと呼びたいところを無理に名に変換したといったふうに、グルーが声をかけてきた。トニーは
片方の瞼を薄く持ち上げ、己が唯一身を任せる男をちろりと見た。
「……なに」
また小言か説教かと、身構えるではなく考える。が、違った。グルーはトニーのぼさぼさになった
銀髪を手櫛で梳くように撫ぜながら、彼に問うてくる。
「どう、思う」
「なにが、」
「人形のことだ。おかしいとは思ってるんだろう」
焦れたように言葉を繋ぐグルーに、トニーはちょっと肩を竦めて見せて、期待外れであろう言葉を
紡いだ。
「べつに? 人形が狩れるんなら、おかしかろうが何だろうが歓迎するだけさ」
グルーが大袈裟にため息を吐いた。トニーがこう切り替えしてくるという予想は、おそらくして
いたのだろう。
「おまえは……今月に入って、これで三度目だぞ。確かにおまえには歓迎する以外ない状況かも
しれんが、これァ異常だ」
「だから、どうするってんだ? 俺は人形を狩るのが仕事で、探偵業は専門外だ。あんたは荒事師
だけど、同じようなもんだろ」
放っておけば良いのだ。何かしら異変が起きているにしろ、自分たちにはかかわりのないことに
違いない。しかしグルーはそれで納得できぬようで、トニーの髪を撫ぜる手をぴたりと止めた。
トニーは眉を顰める。
「グルー?」
呼ばわれば、再び髪を梳きだす武骨な指。しばらくの沈黙が続く。嫌なだんまりだと、トニーは
思った。男は何を考えているのか、自分は何を思えば良いのか、判らなくなってくる。
元来おしゃべりなトニーは、しかしグルーとの間に生まれる沈黙は嫌いではないのだけれども。
こういう、重い空気は好きではないので。
数分か、十分以上も過ぎただろうか。グルーがぼそりと、独り言のようにこぼした。
「……俺はおまえが心配だ」
「…………」
案じてもらう必要も意味もないと、いつもならばトニーの口からはそんな言葉が出ていたに
違いない。実際、トニーは腕利きと評判であるし、周囲の評価に関わりなく自分の力は自分が
最もよく知っている。どんな場面であっても切り抜ける自信があるし、それはトニーが唯一背を
預けるグルーもよく知っている筈だ。だが、トニーはそれを口にはできなかった。しばし押し
黙り、ようよう紡いだ言葉は我ながらひどくかすれていて。
「あんたの心配性には参るよ」
とても、情けないと思った。自分がどんな表情をしているかは判らないが、少なくともグルーには
見られたくはないと、俯いてグルーの肩に額を押し当てる。
グルーはそれきり一言もなく、ただトニーの髪を梳いていた。
それを喜んで良いのか、トニーには判らない。
じゃりりと、靴に踏みしだかれたガラスの破片が悲鳴をあげる。粉々に砕けたガラスは、路地の
先からのけばけばしいネオンの光を反射しきらきらと輝いている。煌めくそれには目も呉れず、
男は路地の奥へと足を向けた。立ち去るその足許には、ぐったりと何かが横たわっていた。
人だ。暗がりではそのようにしか見えぬそれは、人間に酷似した人間ではないものである。DoLL。
命なき人形が、力なくそこに倒れているのだ。見開いた眼は何をも映してはおらず、それがすでに
全機能を停止させた状態であることを示している。
男は人形にすら一瞥を呉れることはない。不意に足の裏に柔らかな感触があった。人形の脚だ。
足首の辺りを思いきり踏み付けたようだが、それは奇妙なことでもある。人形は、男の背後、
数歩ほども離れたところに横たわっているのだ。普通ならば、この距離でその脚を踏むなど起こり
得ない。つまりは脚だけが、本体から離れこちらに転がっているということだ。
人形の躰をよくよく見れば、異様に小さいことに気付く。両の手足すべてが付け根ないし途中から
切断されており、かろうじて首だけを残した状態なのだ。無惨な分解を成したのは当然ながら
男で、人間と同じように痛覚のある人形は苦しみ悶えながら動力であり心臓でもある核を抉り
取られたようだ。胸にはぽかりと、空洞がある。
身体能力において人間を凌ぐ人形を惨殺した男は、澱みを知らぬ足取りのまま闇の中へと溶け
込んだ。
“息絶えた”人形の、開き切った瞳孔がちきりと一瞬収縮したように見えたけれど、核をなくした
人形が動く筈もなく、毒々しいネオンの瞬きが見せた錯覚であろう。
うっすらあの人がでてきましたよ…
[08/10/16]