遠雷――――序幕、弐
遠くで、落雷があったらしい。蒼白い稲妻が、岩山の稜線をほんの一瞬照らしだした。
一年を通じて、こちらの世界に快晴という空を見ることはできない。そもそもからして太陽が
存在しないのだ。たとえ雲が晴れたとしても、顔を覗かせるものは月ばかり。気鬱になるのは
当然のことだと、彼はため息をつきながら思う。
何という世界だろう。
悪魔どもの棲む世界が存在することは知っていたし、ろくな場所ではないだろうとも思っていた
が、その印象にはおおいに侮蔑がこめられていた。くだらぬ世界に違いない、と。まさか
その通りであるとは思いもせず、また自分がその世界の住人になろうなどと、夢にも
思わなかった。
山の稜線が再び蒼白く切り取られる。
(雷……)
光が見えるばかりで音はない。理由は遠いというだけではなく、彼がいるこの場所が、
外界の一切から切り離されているからだ。
ここは城。外観は岩山そのものだが、内部は驚くほどに広く、有り得ぬほどに快適である。
城の保有者は王。この世界を統べる者。そして、彼の“半身”。
キスは、血の味がした。
なぜ男があんなことをしたのか、ダンテにはわかるわけもない。暴挙、と言っても過言ではないと
彼は思う。彼らは殺し合いをしていたのだ。認めるのは癪だが、優勢だったのは男のほうである。
しかし男はダンテにとどめを刺すのではなく――男の笑みが、言葉が、頭から離れてくれない。
ダンテは毛布にくるまって、何度も男の言葉を反芻した。血まみれのひどい有様で帰宅してから
ずっと、彼は考え続けている。
男の真意はどこにあるのか。しかしわからない。あまりにも突拍子がなくて、彼の脳は混乱の
極みにあった。
――我が“半身”となれ。
囁き、男はダンテの首筋に顔を埋めた。わけがわからず硬直した彼の、首の付け根にちくりとした
痛み。咬まれたのだと、あとから知れた。赤い点がふたつ、じくじくとした痛みとともに残って
いる。小さな傷などすぐに塞がり消えてしまうというのに、その赤い染みは鮮明さを失うことを
知らない。忘れるな、とでも言わんばかりに。
何の話かとダンテは問うた。“半身”とは何のことか。当然の疑問だ。しかし男は
詰まらなさそうに、そのままの意味だと吐き捨てた。
「もう一度、言う。我が“半身”となれ」
繰り返された言葉を、ダンテは無論理解できなかった。混乱する彼を蔑むように見つめ、
男は言った。
「“半身”とは伴侶とほぼ同意……ただし広義の意味で、だがな」
前者は、危険が伴う。男はやけに饒舌に語る。
「私が死ねばおまえも死ぬ。おまえが死ねば、私は力を失う。これは我らにとっては死に等しい。
“半身”とはその名のとおり、互いが互いの半身となるのだ」
わからぬ話を、男は淡々と続ける。
「おまえたちの言うところの魔界へ、来てもらう。おまえは王の“半身”となるのだから、
当然のことだがな」
「……王、」
茫然とつぶやいた彼の声音には、懐疑の色が濃かった。王を名乗る男は、ぐるぐる巻きにされた
包帯に指をかけた。どういう仕掛けであるのか、包帯が簡単にほどけて男の素顔があらわになる。
一度も見せたことのない、素顔が。
「えっ……?」
鏡映しのような自分そっくりの男が、形の良い唇を開いた。
「おまえに嘘は吐かぬ。信じるか否かはおまえ次第だが、」
続く言葉が、彼を苛むことになる。
「次は、逃がさん」
再び降り注いだキスの、意味は。
王は初めから強引な男だった。
人の意見など聞きもしないし、求めてもいない。強固なまでに確立された自我が、他者という
他者を必要としないのだろう。そんな男が“半身”としてダンテを選んだ。城の者はみな驚いた、
と大仰に言ったのは王が耳として使っている大鴉だった。
王の世界に、他者は必要ではない。ではなぜ玉座など望んだのか。――自分はいったい何で
あるのか。自問自答に答えはなく、しかし一つだけはっきりしていることがあった。
王は、ダンテにだけは、嘘はつかない。
得れば力は増加するが、反面、喪えば力のほとんどを失うという危うさを併せ持つ“半身”を、
王はあえて欲した。大鴉の話によれば、“半身”なしでも力は比類のないものであったという。
つまり王は、危険だけを得たことになる。
わからなかった。初めは、何も。王はただでさえ何も語らない。理解を求めるふうもない。
わかるわけがなかった。
理解する必要はないのだと、すっかり開き直ってから、もう二十年ほどになるだろうか。
咳が出た。このところ、体調が優れない。理由はわかっているが、こればかりはどうにもならない
こともわかっているので、薬師も匙を投げた。安静にしているよりほかない。
王の寝所は広い。比例して寝台も広く、ダンテが大の字で寝そべってなお三分の二ほど余っている。
狭いよりは良いと思うのだが、広すぎるのも考えものだ。というのは贅沢だろうか。
寝ていろ、と王は言って寝所を出ていった。世界を統べる者はいつでも忙しない。政務という
ものに全く携わらぬダンテには、大変なのだろう、とぼんやり思うくらいのことしかでき
なかった。手伝おうにも、それに必要な知識を持たないダンテは邪魔になるだけだ。
詰まらない。口の中でつぶやいたとき、物音がした。王ではない。あの男の気配はどんなに
離れていてもわかる。いつからか、そんな躰になってしまった。
王の寝所への立ち入りは、王とその“半身”以外許されていない。それを破って入ってくる者に、
ダンテは一人しか心当たりがなかった。
「ネロ、」
またか、と含ませたのが伝わったらしく、白の勝った銀髪の青年が肩をすくめる。
「かまうもんか」
ダンテが身を起こそうとすると、ネロはそれを制止した。寝たままで良い、と。
「具合悪いんだろ。無理すんなよ」
「座るだけで無理とは言わねぇだろ」
苦笑するが、ネロの表情は堅いままだ。まずかった、とダンテはほぞを噛む。ただでさえ、
先日ネロの目の前で喀血してしまったところなのだ。心配をかけたくないと思うほど、
この青年の眉間に刻まれた皺は深くなる。
ネロは寝台に腰を下ろし、左足を寝台に乗せる格好で躰をひねった。そうしてダンテの顔を
覗き込むように見下ろしてくる。王によく似た、秀麗なおもて。ダンテが身を痛めて産み
落とした、文字どおりの我が子。ダンテ以外の誰からも生を望まれなかった、哀れな子。
「大丈夫か?」
顔色が悪いからだろう。ネロの声音は慎重だ。
「おまえに心配されちゃあ、な」
まぜっ返すように茶化すけれど、それでネロが安堵するとはダンテも思ってはいない。ネロは
迷子にでもなったかのような不安げな双眸で、蒼白いダンテのおもてをじっと見つめてくる。
ダンテは腕を持ち上げ、我が子の頬を撫でた。ネロの肩がぴくっと震え、いかにもおそるおそる、
ダンテの手に己の手を重ねる。脆い硝子に触れるかのように、そぅっと。
「大丈夫だ。間違っても、死にやしねぇ」
今まで何度も、死の淵に立ったことはある。が、あの世とやらを覗いたことはないし、まだ当分、
逝くつもりもない。
ネロはそれを真面目に受け取ったらしく、渋面を浮かべた。
「死ぬとか、言うな」
「ネロ?」
「そんなこと、冗談でも言わないでくれ」
言霊、というものが実際に存在するかどうか、ダンテは知らない。が、ネロがこわい
表情をして畏れているのは、まさに言霊であるに違いなかった。
そんなものは存在しない、と笑えば済むことだろう。けれどもダンテは、笑えなかった。
まだ少年のあどけなさを残した我が子の、自分を案じる瞳は真摯そのものだ。
「……ネロ、俺は大丈夫だ。おまえを独りにはしやしない」
まだ、ダンテにはやらねばならぬことがある。この孤独なこどもを、独りにしてはいけない。
ダンテの言葉に少しは安堵を得たのか、なら良い、とぶっきらぼうに言ったネロは、彼の手に頬を
すり寄せるようにした。猫のようだと、ダンテは思う。ダンテを慕うさまは犬のようでもある。
どちらにせよ、かわいいと思わずにはおれない。
「なぁ、ネロ」
もし、俺が死んだら。おまえはどうする。
「? なに」
純粋な瞳は、いつのときもダンテしか映してはおらず。ただ、ダンテのみを頼っている。
舌の先まで転がった言葉を、ダンテはそのまま飲み込んだ。言ってはいけない。言えば、
要らぬ不安を芽生えさせてしまうだけだ。この言葉は、まだしまっておこう。
そのときは、いつか必ず訪れるのだから。
「なんだよ、ダンテ?」
親を呼び捨てにすることを、ダンテは規制しはしない。ネロの好きにさせている。もっとも、
ネロがまだ二足で歩くことができなかったころは、かあさん、と呼ばれていたものだけれど。
ダンテは微笑し、忘れちまった、と首を左右にした。ネロは唇を尖らせ、何だよそれ、と拗ねて
しまう。
「思い出したら話してやるよ」
「とか言って、思い出したことあったかよ」
「さあなぁ」
年寄りは忘れっぽいんだ、と。笑えば、ネロは呆れたように笑って。
「目を離した隙に剣なんか振り回してる奴の、どこが年寄りなんだよ」
そういえば、最近あまり剣を握っていない。思い出したダンテは、にんまりとしてネロに
打診した。
「また、付き合えよ」
寝てばかりでは筋肉が落ちる一方だ。いざというときに剣を使えないなどという事態には
陥りたくない。
「血色がよくなったら、いくらでも」
そんなに顔色が好くないのだろうか。寝ていろと言うネロに、ダンテは憮然とした表情になる。
「そんな顔しても駄目だ」
心配させている。親として失格だが、心地好いと思うのも確かだった。傍らに、心を許せる者が
いるという安心感。せっかくだから、わがままを言ってやりたくなった。
「寝てろって言うなら、仕方ねぇ。おまえが責任持って添い寝しろよな」
「は?」
目をまたたかせ、いやそれはちょっと、などとどもっては狼狽するネロ。頬が赤いように
思うのは、この歳で添い寝など恥ずかしいに違いないからであろう。
「嫌ならいいぜ、代わりに鍛練に付き合ってもらうだけだからな」
「っ、なんだよ、それ!」
どっちか選べ、と迫る自分は、相当ひどい。だが狼狽するネロをつつくのは、思いの外楽しかった。
何とも、たちが悪い。
ネロはうめき、最低だ、と頭をかかえていたが、不意に、残った脚も寝台へ乗せた。どうやら
諦めがついたらしい。ダンテを放って部屋を出る、という暗黙の選択肢が存在したことに、
ネロは気付いていないのだろうか。くすくす笑うダンテとの間に、ネロはなぜか隙間を空けて
躰を横にした。
「ネーロ、」
呼ばわるダンテへ、ネロはまだ赤いままの顔でちらと視線を向けた。
「そんなんじゃ添い寝にならねぇだろ。ほら」
もっと間を詰めろと言えば、渋々、といったふうに身を寄せてくる我が子に、ダンテは苦笑する。
そんなに恥ずかしいものだろうか。ダンテの母は若くして亡くなってしまったので、今現在の
ネロの内心はいまいちわかってやれなかった。少なくとも、嫌ではないはず。自分の都合の
良いように推測する。
「これで満足かよ」
肘を枕にして寄り添い、仏頂面で言うネロに、ダンテは及第点をやることにした。これ以上
いじめると、この坊やは泣き出してしまいかねない。
「ま、合格にしといてやるか」
「……何か納得いかないな……」
ぶつぶつ文句を言うネロの胸に額を押しつけ、ダンテは目を閉じた。小さいとばかり思っていた
“坊や”の胸板は、いつの間にこんなに分厚くなっていたのだろう。肩幅もあり、背中も
ずいぶん広くなったに違いない。こうしてダンテのかわいい坊やは、父である王そっくりに
育っていく。少しずつ、少しずつ。
思考はぼやけ、霞んで、ダンテは眠りに落ちる。呼吸が深く落ち着いたそれに変わろうと
するとき、ネロが何かを囁いた気がしたけれど――夢の入口へ差し掛かった彼の鼓膜を揺らす
ことはなかった。
喧騒はもちろん、風の音すら遮られた城に抱かれ、彼は蒼天の夢を視る。
この、すべてのものから切り離された特殊な場所に、外界のざわめきが届くのは、あと少しばかり
先のこと。
ネロと絡ませたところ、今度は話の筋から遠ざかりました。
でも、なんとなく満足。
やはりネロ×ダンテはいいですな。不毛さが(酷)