遠雷――――序幕、壱
彼だと、思った。
彼しかいないと、思った。
己の直感に間違いを見出すことは男にはできず、また否定しようという気持ちすら一欠片も
抱かなかった。
彼だ。
長いこと、自分は彼を捜していたのだと、根拠もなくそう思った。根拠がない、とは何ごとも
論理的に固めねば気の済まぬ男には、よほど似つかわしくないことであったけれども、男は
それにすら疑問を抱くことはなかった。
見つけたのだ。心底から欲しいと思うものを。ならば何をためらうことがあるだろうか。何を
疑う必要があるだろうか。
男は、王だ。比喩ではない。あちらの、一部の人間が魔界と呼ばわる、瘴気に満ちた闇の世界の王。
血と悲鳴を好んだ前王を斃し、王座を得たのはもう随分以前のことだ。
世界を手に入れた男は、しかし何ら充足を得ることはなかった。元より権力を欲して王座を奪った
わけではないのだ。ただ、強い者と闘いたかった。世界で最も強い王と刃を交えれば、常に抱いて
いた何かが満たされるやもしれぬと思ったのだ。
が、それは誤りだった。
男の心には何かしらの穴が空いたまま、埋められることなく王としての日々はすぎていった。
彼の存在を男に伝えたのは、耳として使っている大鴉の片割れだ。特異な人間がいる、と大鴉は
言った。はっきり言えば奇妙なやつだ、と。
特異、奇妙。そんな言葉に興味を惹かれるほど、男は若くなかったし好奇心が強いわけでも
なかった。しかし大鴉が語る“奇妙さ”は、意に反して男の関心を惹いた。
時を同じくして、人間の世界で大きな顔をしてのさばる同胞が殖えていたことは、男にとって
幸運であったかもしれない。
粛清。人間を喰らうことに没頭するあまり、度を越した馬鹿どもには自ら厳罰を与えよう。
王の決定に背くものは一人もなかった。
人間の世界がどうなろうと、男の知ったことではない。しかし秩序は保たれねばならない。
悪魔と、人間。それぞれの世界は互いに干渉し合い、しかしどちらか一方がもう一方を喰い
つぶすことなく存在せねばならない。それが秩序だ。均衡が壊れればどちらの世界も消滅する。
男がそれを知るに至ったのは、玉座に就いたまさにその瞬間だった。
彼は、大鴉の言葉通り奇妙な人間だった。
まず、王たる男と同等に渡り合えるほど腕が立つ。無駄な動きが多く、技にはまだまだ精練さが
足りなかったがしかし、男に手傷を負わせたのは彼が初めてだった。前王ですら不可能だった
ことを、彼はやってのけたのだ。気に入らぬはずがなかった。
遭えば殺し合う。
そんなことを五度ほども続けただろうか。そのつど、男はかつてない昂揚を味わっていた。
愉しかった。素直に認めてしまえるほど、気持ちが昂ぶった。それは一種、快楽に似た
感覚だった。
欲しいと思ったのは、一度目の殺し合いの時だったかどうか、そのあたりの記憶は定かではない。
おかしなことだが、彼との殺し合いの記憶は常に朧気で、しかし鮮烈な印象だけは色濃く残って
いるのだ。忘れられるものでは、ない。
同胞どもの粛清は、ほとんど時を要さず完了した。その場には、悪魔狩りという肩書きを背に、
彼の姿もあった。
共闘した、とは言えぬだろう。
男は同胞を、彼は敵を、それぞれがそれぞれのやり方で屠ったのだから。
彼は始終、不機嫌そうであった。取るに足りぬ輩ばかりであったためらしい。弱い、と何度も
吐き捨て、苛立ちをあらわにしていた。彼は常に、強い者との闘いを求めていたのだ。それは
そう、ちょうど、以前の自分のように。
粛清の後、男は彼と殺し合った。
こちらから仕掛けたのではない。先に剣の切っ先を向けたのは彼だ。足りねぇ、と彼は言った。
血が治まらねぇ、付き合えよ、と。
否やはなく、男は応じた。実際、望むところだった。血が治まらぬのはこちらも同じ――彼の血の
濃いにおいを、男はよく覚えている。
甘い、甘いにおいだ。
粛清だ、と男は言った。彼にとっては狩りである。共闘をした覚えはなく、ただ手応えのない
悪魔どもを彼は単純作業の要領で屠った。
詰まらない。まったく面白みの欠片もない狩りだった。ただ群れているだけの下級悪魔が彼に
敵うわけもなく、むろん男もそれは同じだった。
男はひどく腕が立つ。彼はこれまで、男ほどの手練に出合ったことがない。つまり彼を苦戦に
追いやった相手などこれまで一人とてなく、また彼に本気で手傷を負わせた相手も男が初めて
だった。
もうちょっと命を大事にしろよ。――そう言ったのは馴染みの仲介屋で、彼はそれを笑って聞き
流した。いらぬお節介だ、とは口にはしなかった。
大事にしてやるほど大層なものかと、彼は常々思っている。母の死以来、彼は己の力だけで
生きて来た。生きるだけで精一杯だったころはよかったと、今になって思う。少しばかりの
余裕ができた彼は、心にぽかりと大きな穴が口を開けていることに気付いてしまったのだ。
気が付いたのはほんの偶然で、けれどももう、無視することはできなくなった。
何をどうしればこの穴は塞がってくれるのか。彼は躍起になったが(そのために馬鹿なことを
いくつしたか、覚えていない)、何をどうやっても穴は埋まらず、それどころか拡がっていく
一方なのだからたちが悪い。
努力がまるで実らぬと悟った彼は、“頑張る”ということを放棄した。
ただ唯一、わけの判らぬ連中を屠っているときだけ、彼の心はわずかばかり安らぐのだ。すがる
ように、彼はその、わけの判らぬ連中――悪魔と、誰かが呼んでいた――を狩った。そのために、
便利屋という稼業は実に役立つのだと実感もした。
がむしゃらに悪魔を狩り、一年もすぎるころ、彼は自身の生に何の意味も見出だせぬように
なっていた。いかに悪魔を狩ろうとも、心に開いた穴は塞がらない。ただ虚しさばかりが満ちて
いく。こんな生き方をしたかったわけではない。けれども、ならばどんな生き方をしたかった
のか、彼にはまるで思い出すことはできず。
自身の命を弄ぶような、無謀に無茶を重ねる日々を送るようになったのは、それから間もなくの
ことだ。
作業は、十五分もかからずに終わった。
二人がかり、と言えるほどに共闘などせぬまま、彼はほとんど抜くことのなかった剣の柄を握り
締めた。一瞬で抜き放つ。切っ先は、澄ました顔で佇む男へ。
男の、氷のような双眸がこちらをちろりと見やる。包帯まみれで顔立ちは知れないが、その視線は
彼をまさしく縛り付けた。血が騒ぐ。こんな昂揚、他では絶対に味わえない。逃してなる
ものか――逃げるわけはないだろうけれども。
「なぁ、もうちょっとだけ付き合えよ」
笑う彼。男の、鞘を握る手が腰溜めに寄った気がした。そう、いつなりとも剣を抜けるように。
鞘を持たない彼とは、まったく違う剣術を操る男。その太刀筋の美しさを、彼はひどく気に入って
いる。
まぁ、ゆっくり眺めている余裕などありはしないのだけれども。
「良いだろ? 半端に暴れちまって、血が治まらねぇんだ……アンタが何とかしてくれよ。
なぁ?」
聞きようによってはベッドへ誘うような言い回しであることを、彼は自覚しながら口にした。
脳裏では、どちらも同じようなものだ、と思っている。極端かもしれないが、彼にとって男と
命のやり取りをすることは、セックスに勝るほどの快楽に繋がるのだ。
共闘などに愉しみは見出だせない。手応えのない悪魔どもが、彼に快楽を与えてくれるわけも
ない。
この、男だ。
思い返しただけで身震いをしてしまうほどの快楽を、男は易々と彼に与える。この機を逃して
よしとする彼ではない。
男は彼の予想通り、殺し合いに応じてくれた。鞘を握る手に力が込めれたことを、彼は見逃さ
なかった。自然、笑みがもれる。さすが、よく判っていらっしゃる。
顔――包帯に覆われて素顔は判らぬが――を合わせれば命の取り合いをするばかりの関係だが、
彼は男をよく理解していると言って良かった。交わす言葉は少なかろうと、打ち合わされた剣は
雄弁に語ってくれる。だから、男のほうも彼のことを理解しているに違いなかった。
がきり、と。火花を散らせて噛み合う剣は、今宵もひどく饒舌だ。
ときに遊ぶように、しかし手加減などするわけもなく。男の片刃剣が放つ蒼白い光は、まるで
睦ごとを囁いているかのように。彼を惹きつけ、離さない。
「愉しいな……あんたもそうだろ? なァ!?」
思い切り突き出した切っ先を、男はこともなげに鍔で弾く。常人ならば衝撃で後ろへ吹き飛ぶ
ほど、彼の力は強い。やはり、男は普通の人間ではないのだと確認する。まぁ、男が何者で
あろうと問題ではないが。
男は無言だ。しかしその口許には笑みがあるように、彼には見えた。笑っている。包帯で
ぐるぐる巻きの顔から表情を読み取るなど、できるものではないというのに、なぜか彼には
判るのだ。剣撃の重さも、足の運びも、全身で喜びをあらわにする彼とは違い、何の変化も
見受けられぬというのに。しかし、確かに男は笑っている。
彼は、それがひどく嬉しかった。なぜかなど知らない。自覚もしていないほどだ。
ほとんど無意識に浮かれた彼の、切っ先がわずかにぶれた。羽毛のように軽い足の運びがずれ、
滑ったようにバランスを崩す。それはほんの一瞬のこと。しかしその隙見逃してくれるほど、
男は甘くはない。
熱が、肩を襲った。剣がコンクリートの床に落ちる。
「っぐぅ……!」
右肩に深々と突き立てられた片刃剣を、彼は掌が裂けるのも構わず握った。男を見る。
「痛いか?」
愉しげに問う男は、間違いなくサディストだと彼は思う。対して彼は、断じてマゾヒストでは
ない。悲鳴をあげ、男を喜ばせるなど御免だ。
「判ってるくせに、いちいち訊くんだな」
くどい男は女の子に嫌われるぜ?
軽口を叩けば、男が右手をひねった。傷口がえぐれ、彼の喉をくぐもったうめきがつく。
「! うぐ……ッ」
熱い。燃え盛る火を押しつけられたかのようだ。
彼は荒い息を繰り返し、じっと男を見据える。誰が屈してやるものか。睨む彼は、なおも愉しさを
感じていた。およそ、異常だ。もとより尋常ではないのだけれども。
もしかすれば死ぬかもしれぬという窮地に立たされて、彼の頬は笑みを象った。それも良いと、
ジョークではなく思う。死にたいと思っていたわけではないが、この時ほど自らの命を感じられた
ことはない。それが、彼には嬉しかった。
生きている。そう実感できる瞬間を与えてくれる男に、感謝すらしよう。
微笑する彼は、男の左手がこちらへ伸びるのを視認した。首を絞めるつもりか――予想は外れた。
男の手は彼の髪を鷲掴みにした。ならば剣を引き抜き、のけ反らせた首を断つつもりか。
その予想も、見事に外れた。
男は思ってもみぬ行動に出た。
重ねた唇は驚くほどに柔らかく――血の味がした。
騒がしい。
黒い翼をひるがえし、フギンは地上を眺めている。何か、落ち着かない。ざわざわと大気が
ざわめいているようだ。翼が重い。何かが起ころうとする前触れか、それともいつもの嵐か。
確信のないまま王に報告をすることはできない。王はより正解な情報を自分たちに求める。何より
フギン自身、感覚でものを言って、時を無駄にすることは好みではなかった。
その点では、己は王の気質によく似ていると思う。王は無駄を好まない。いや、いっそ憎んで
すらいる。
かつて、王自らあちらの世界へ行くと言い出したあの出来ごと――無駄ではないかとフギンは
思っていた。が、そうではなかった。あのときのことはよく覚えている。横面を殴られたような
思いだった。
王は、“半身”を連れて凱旋を果たした。前王を斃したときですら必要性を感じさせることの
なかった、“半身”を。何を考えての行動か、誰もが疑問を抱き、そして誰一人その真意を
追及した者はいなかった。
なぜ、自身と瓜二つの彼を選んだのか。その疑問もまた、王にぶつけることなどできるはずも
なく。
片割れ以外のいきものを基本的に信用せぬフギンは、しかし彼を無条件で受け入れた。言葉には
出さないが、一目で彼に魅入られたと言って良い。その能力はともかく、自分の片割れが彼を
見出だしたことに納得もした。
地上に向けるフギンの双眸は鋭い。
人間の棲む世界はフギンの片割れが、こちらはフギンが飛び回って情報を集め、王に持ち帰る。
もうずっとこの役割をこなしており、大きな争いになりそうな騒動も未然に防いぐことができて
いる。
第六感に障る、地上のざわめき。根源はどこにあるのか、フギンはそれを探るべく翼を
はためかせた。
フギンが翔ぶのは、大半が彼のためだ。彼の命が安寧であるために、フギンは同胞たちを観察し、
監視している。王のためでは、ない。
「面倒なことにならなければ良いが……」
厭な予感は、およそ当たる。それを知っているフギンは、蒼い左目を眇めて彼を思った。
馴れ初めの最後から始まります。
が、一切息子出せず…無念であります。
母子のアレコレ好きなのに…
リクにお応えできたとは思えず;;
次回リベンジを計ります!