遠雷――――序幕、参
地獄、という言葉がある。その言葉は宗教とよくかかわりを持ち、罪という言葉と根強い関係が
ある。
ひとは、死したる後、神のおわす楽園へ昇天するか、苦痛に満ちた地獄へ堕ちるか、どちらかに
振り分けられる。秤にかけられるのは、死者の罪だ。少しでも罪を負ったものは地獄へ堕ちる。
そこで永劫の苦しみを味わうか、罪を浄化し神の御元へたどり着くかは、各自の罪の重さにより
決定されるという。
神を信じ、祈り、崇め、称えよ。そうすれば天の扉は開かれる。
人々は神に縋り、少しでも罪が軽くなるよう、救いを求めて一心に祈り願う。主よ。汝の子を
守り給え。救い給え。
信じて疑われぬ天の楽園に、人々は憧憬する。同時に無視することのできぬ地獄という存在を
畏怖する。
誰も、それらが実在すると確かめた者はないというのに。
楽園も、地獄も。どこにあってどんな場所であるのか、そもそもあるかもわからないというのに、
憧憬や畏怖の念を抱くなど不可思議なことだ。しかし、人々の想いは変わらない。なぜならば、
楽園や地獄といったものが“ない”と証明することもできないからである。
“ない”と信じる者は“ある”と言う信心深い者を嗤い、“ある”と信じる者は“ない”と言う
不信心者を恐れる。
神や悪魔の存在なども、そうだ。信じる者と信じぬ者は二分され、互いに相容れない。
ある者は、悪魔が実在することを知っている。悪魔どもの棲む世界の存在を知っている。
しかし、そこは地獄とは似て非なる世界であることは知られていない。知ろうとする者は
少なくないけれども。
ひとが想像する地獄に似て非なる、太陽の存在せぬ闇色の世界――一部の人間は魔界などと
呼ばわる――にも、集落があり街がある。むろん、それらの様相は人界のものとはまるで違う。
まず、その暗さ。明かりを必要とせぬ種が多くを占めるだけに、明かりは街のぐるりを囲むように
ぽつぽつと灯籠が立っているばかりだ。その灯火により、そこに街が存在することがかろうじて
わかる。
街の内部には、夜露をしのぐに足れば充分といったふうの、物置小屋の域を出ない家が雑然と
並んでいる。こうして定住をする者は、ある一定の年数を生きてきた者が多い。若い者は安定を
望まず、小競り合いを起こし、人界へ出ようとする者もいる。小さな暴動や争いが起こる
中心には、必ずこういった思慮に欠く者の存在があると言っていい。
彼らの暴れる理由は、大半が糧にかかわるものだ。糧、とは人間のことである。
血と悲鳴を好んだ王が弑され、取って代わった王は、人間を庇護するかのように同胞たちに
人界への行き来を制限した。多くの同胞がそれに反抗したが、訴えは王に届かない。言葉どおりの
頂点にある王には、力ですら抗いようもなかった。
糧は、時折何かの間違いでこちらへ迷い込んだ人間。それを商人と呼ばれる同胞が目ざとく捕らえ、
売る。それが充足のいく数ではない上、市場に出された人間は力あるものが優先的に買い占めて
しまう。血気盛んだが力で及ばぬ者は、ただただ我慢を強いられた。
抑圧された食欲は怒りとなり、憎しみとなり、ある日王への不満は爆発した。力では及ぶはずも
ない王へ直接挑むのではなく、王が塞いだ人界への道をこじ開けたのだ。
そこには糧が溢れている。彼らは狂喜した。食らっても食らっても、糧はそこかしこに満ちている。
まさしく夢のようだった。血がこんなにも甘く、悲鳴がこんなにも心地好いものだと、彼らは
永らく忘れていた。
腹が満たされても、彼らは糧を狩ることに終始した。血飛沫に身を洗い、悲鳴に耳を濯ぎ、肉を
裂く感触に酔い痴れた。そこはまさしく、彼らにとっての楽園であった。
しばしの間、彼らの暴挙を静観していた王は、唐突に立った。自ら人界へ降り立ち、自らの剣で
もって同胞を粛清したのである。誰もが、弁解する間もなく息絶えた。命からがら逃れた者は、
魔界へと舞い戻り隠遁せざるをえなかった。見つかれば粛清される。息をひそめ、影に身を
隠した。
王はその後、人界への道を再び塞ぎ、自らの力の一端を使い結界を張った。強大な力はその一部で
あろうとも強力に違いなく、今なお結界はその役目を果たしている。
古びた本を閉じ、ふぅと息を吐いたのはうら若い青年。白銀の髪、碧玉の瞳。整った容姿を、
しかし青年は自慢にしたことはない。力こそがすべてのこの世界では、見た目など何の益にも
ならないからだ。
文字を目で追うのは正直疲れる。眉間を揉むようにつまみ、顔をしかめるその表情が、父である
王によく似ていることを青年は知らない。
革で丁装されたこの古びた本が、いったいいつ書かれたものであるのか、青年は知るよしもない。
ただわかることは、書かれた内容そのものがはるか昔の事象であることぐらいだ。
伝説ともされる王の名は、いまだもって同胞たちの耳に忌まわしく響くものらしい。畏怖か、
憎悪か。羨望という感情を見いだせぬのは、件の王が、結界を作り出した後に取った行動が
大きな要因となっているのだろう。
王はその地位を自ら放棄した。力こそがすべてである世界に君臨し、すべてを支配する権力を
いともあっさりと棄てたのだ。そうして、最強の悪魔は魔界から姿を消した。死したのではない。
人界だ。同胞たちに愛想をつかせた――のかどうかは想像あるのみだが――悪魔は、人間を守り
共存することを選んだのである。
(そこまで人間に肩入れする理由はなんだ?)
二千年も昔の人物へ、青年は想いを馳せる。人間を糧として見ないのは青年も同じだが、
人間を守るために同胞を殺そうと思ったことは一度もない。もし、母に手を出そうとする者が
あればその限りではないが。
青年の母は、人間である。青年にも半分は人間の血が流れており、見目こそ人間の姿形そのもの
だが、思考としては悪魔寄りなのだろうと、ぼんやりと思う。糧がなくては生きていけぬのは、
どんな種族も同じことだ。それを断つのは、まさしく残酷なことではないか。
最強と謳われた王の、人界へ降りた後の消息は知れない。この本にも、それは記されて
いなかった。知ったところでどうなるものでもないが、気にならぬといえば嘘になる。
(なんでだろう)
どこを読んでそう思ったのか自分にもわからないが、この悪魔が母に似ているように感じたのだ。
母は人間であるし、年齢を考えても繋がりがあるとは思えない。が、雰囲気、と言おうか、思考、
と言おうか。漠然と、そう思った。なぜかなど知るわけもない。
ため息をひとつ。瞼に焼き付いた彼の寝顔を思い出す。いつかの記憶よりも削げた頬は白く、
蝋のようだと思った。寄り添っていても低いままの体温が、死に逝くものを思わせてならず、
青年はいつまでも母を抱き締め、その穏やかな寝顔を見つめ続けた。
愛してやまぬ母。彼がもし死ぬことがあれば、自分はいったいどうなるのだろう。詮ないことを
考えては、何も考えつかずため息ばかりがもれる。自分が生きて、今なお息をしているのは母の
ためと言ってよい。この生はまさしく、母に添うためだけにあるのだ。
思考が飛んだ。青年は古書の、今にも剥がれ落ちそうな装丁に目を落とし、かつての王を想う。
二千年。最強の悪魔が張った結界はいまだに機能を失うことなく働き続けているが、それでも
人界から一切の悪魔が消えたわけではないらしい。力の弱いものほど、結界の隙間を擦り抜ける
ことができるようだ。そういったものが人界にひそみ、餌を食らっては力を蓄える。
血肉は力の源だ。食らえば食らうほど力は増す。そういう輩が増えたとき、王の対処法は王の
性格を如実に顕すものである。
放置か、粛清か。
多くの王は放置を選ぶ。わざわざ自ら人界へ出向く王など、めったといなかった。そうして、
二千年。人界にのさばる同胞を、自ら粛清するという選択を用いた稀な王が君臨する。それが、
青年の父。現王である。
王ほど力あるものが結界を越えることができるのか。青年の疑問はそこに集中した。王は強大だ。
当時は“半身”を得ていないとはいえ、玉座に在る時点で最強を意味する。誰よりも強く、誰をも
及ばぬ高みが玉座に就くものなのだ。
もし、王が人界を放置していれば。おそらく青年はこの世に存在しなかっただろう。王は
“半身”を得ることなく世界を治め――彼は、どんな人生を歩んでいるだろうか。想像も
つかないのは、青年が人界というものをまるで知らないからに違いなかった。
(見てみたい)
彼の生まれた世界を。太陽というものが存在する、光ある世界を。
どんなにか光に満ちた世界にも、深い闇が存在するということを、若い青年は知らない。
書庫は、そこに至る廊下ともども相も変わらず暗い。もうちょっと気張れ、と誰にともなく
ぼやいてみると、ぽつりぽつりと所々灯った燭台がゆらゆら揺れた。無理だ、とでも言いたい
のか、明るさは変わらない。
はりぼてかと疑うほど、見目と重さの釣り合わぬ扉を押し開く。あらかじめ持参した燭台に火を
灯し、向かうのは書庫の深部である。といって、さらに地下へ下るわけではない。書庫は横よりも
縦に広く、天井は見えない。一辺が十歩ほどの四角い筒が、入り口からもっとも離れた
位置に長く伸びる格好で配置されている。
梯子で上に昇れば、階層ごとに足場がぐるりと設置されている。全部で、三層。一つの層は
青年の背丈の倍程度だろうか。古い本ほど、より上段の階層に保管されているのだ。
するすると梯子を昇り、昇って目的の階層にたどり着くと、そこには先客がいた。書庫の主だ。
学識というものがまったく冷遇されているこの世界で、これだけの蔵書が残っているだけでも
奇跡であり、それを紐解こうとする者は少ない。青年よりも一回りほど大きな体躯を、不必要な
までにぎゅっと縮めた男は、この世界には稀有な学者といういきものである。
「な、何か収穫はあったかね、お、王子?」
何を話すにもいちいちどもるのは癖なのだと、理解しても耳障りであることに変わりはない。
青年は眉をひそめた。手にした本は、この片眼鏡がより薄気味悪さを醸し出している男が、
ぜひと言って勧めてきたものなのだ。確かに、収穫はあったけれども。
「何を企んでる?」
「たた、企むなんて大それたこと……わ、私はただ、真実をし、知ってもらいたかった
だけのこと」
片眼鏡をきらりと輝かせ、男が言う。知識とは、知りたいという慾望があって初めて得られる
ものだ、と。今の自分のように。
「わかるように言えよ。アンタは何が知りたいんだ?」
簡単な頼みだと言って、青年の母の血を求めた男。あれにどんな意味があって、どんな成果に
結び付いたのか、青年は知らされていない。ただ、後ろめたさだけが肩にある。何も知らない
母の血に、この男は何をしたのだろう。
男は見慣れそうにもない厭な笑みで顔を歪ませ、笑った。何をやっても相手に不快しか与えぬのは、
いっそ才能であるかもしれない。
「私はか、科学者なのだよ、お、王子。科学者がし、知りたいことはこ、この世に五万と
溢れている」
世界中のすべてが研究対象なのだと、男は言う。芝居がかった物言いが実に嘘臭い。
「……で、今はダンテに興味があるっていうのか」
彼の血は、男にどんな知識を与えたのか。怒りの形相で問い詰める青年に、男はわざとらしく
うろたえた。待ち給え、などと、いつも以上にどもってみせる。
「そ、そうだ、私のけけ、研究の一端をひ、披露しよう! そうすれば、お、王子も関心を
持つにちち、違いない」
嬉々として、男は青年の顔を覗きこんできた。思わず顔を背けた青年の手から、分厚い本を
ひょいと奪い取る。そして書架へ戻すのかと思いきや、本を手にしたまま器用に梯子を降り
始めた。青年は肩をすくめ、そのあとを追う。言いなりになるのは癪だが、今は目を瞑ろう。
青年には、そんなことを気にかけるよりも早く、知りたいことがあるのだ。
(あの本、ダンテと何の関係があるんだ)
疑問の答えは男が知っているのか。あくまで研究の一端と言うからには、すべての疑問が
解決されるわけではないかもしれない。それでも、無知でいるよりはいい。無垢と無知の
違いくらい、青年もわかっているつもりだ。
(ごめん、ダンテ)
なぜだか母への謝罪の言葉を心の中でつぶやいて、一瞬だけ、瞼を閉じた。
アグナス…書いてて楽しい私は相当だめだ。