遠雷エンライ――――暗幕アンマク、伍









ここしばらく、ネロの様子がおかしい。

ダンテは頬杖をついてぼんやりしている我が子を、こちらも頬杖をついてじっと観察した。 いつものネロならば、ダンテがそちらを見やると必ず視線が絡む。そして慌てたように、ネロの ほうが目を逸らすのだ。その頬がわずかばかり赤い理由は、深く考えたことのないダンテで あるが。

珍しいこともある。

ダンテはひとりごち、我が子の観察を続けた。

自分とほぼ変わらぬ姿形の、我が子。ネロが生まれてきたときのことを、ダンテは今でも鮮明に 覚えている。まず思い出すものは、黒みの勝った赤。そして乳を求めるように脇の下に潜り込んで きた、つたない動き。
王は子を殺せとダンテに迫った。不要なものだと断言した、冷酷な言葉をダンテは忘れない。 王の子であるからこそ、ダンテは産むことを決めたのだ。たとえ王に阻まれたとて、ダンテの 意志は変わらなかった。
男の身でありながら、子を成し産むというのは異常なことだ。だが、こちらの世界では往々に 起こり得ることであると、ダンテは王の目であり耳である大鴉に聞いた。そして、子のほとんどは 産み落とし――子を慈しみ育てるものなどいないということも。

不憫。その一言に尽きるとダンテは思った。子は親に愛され育つべきだ。望まれぬ命、慈しまれぬ 命など不幸極まりない。だから、ダンテは我が子をきちんと愛することを決意していた。まさか 自分が子を宿すなどとは想像もしていなかったが、せっかく授かった命を、どうして愛せずに おれるだろうか。

ダンテは、母に愛されて育った。父は朧気にしか覚えていないが、少なくとも粗悪に扱われた ことはないと記憶している。
母は優しくも厳しい、美しいひとだった。ダンテが十になるかならぬかというころに逝って しまったが、母の記憶がダンテの中から褪せることはない。ダンテは母を深く愛していたし、 それは母がダンテを深く愛していてくれたからに違いない。だから、だろう。一人っ子だったが、 ダンテは寂しいと思ったことがなかった。

子を愛し慈しむという考えは、母の影響を大いに受けているのだろうと、思う。

見つめる先の我が子は、ふとした瞬間、父である王に表情がひどく似ていることがあって、 ひとりどきりとしてしまうこともあるけれども。自分とそう変わらぬ体躯までに成長したネロは、 しかしながら、ダンテにとってはまだまだ幼い子どもである。
子がいつまでも子どものままでいることなどできないとは、ダンテ自身がもっともよく知っているの だが。

ネロは、なおもぼんやりとどこぞへ思いを馳せている。好きな女の子でもできたか、と。 訊きたいのを精一杯我慢しているダンテである。なぜ我慢など似合わぬことをしているかと 言えば、ダンテの好むような女性をこちらで見たことがないからだ。ネロの好みを知っている わけではないとはいえ。
こちらの世界では、性別などあってないようなものだ。城に仕える下僕――という言い回しを ダンテは嫌っている――の中には女性もいる。なかなかの美人も少なくはない。が、それが本性の 姿ではないと知っている手前、手放しに美しさを讃えることもできず、愛する我が子に勧める こともできずにいるというわけだ。
ネロには、可能であるならばあちらの世界の女性と結ばれてほしいとダンテは思っている。 見目うんぬんも大いにかかわっているが、やはり中身の問題が最も大きい。あちらとこちらでは、 考え方や思想が異なりすぎる。ダンテはネロよりも長くこちらに住んでいるが、いまだにこちらの 住人の考えることが理解できずにいるくらいだ。

一生かかっても、無理だと思う。

やはり自分は、突き詰めればあちらの人間なのだ。王に添うてこちらにやって来たといえども、 馴染めるわけがなかった。
王のそばを離れることは望まぬが、ネロを連れてあちらに行ってみたいとは、思うことがある。

ぼんやりとどこかを見つめていたネロが、不意に視線をこちらへ呉れた。流し目を呉れるような その仕種に、王の姿を重ねてしまって内心どきりとする。

視線が絡んでいるというのに、ネロは何かしら言葉を発することなくダンテを見つめるばかり。 なぜか居心地の悪いものを感じて、ダンテは腕を伸ばしてネロの顔の前で手を振った。瞳孔が 初めて収縮したかのように、ネロの瞳がぱちりと瞬く。

「なに、」

とは、こちらのせりふだ。だがこの様子では、ネロにはダンテのことを凝視していたという自覚は ないに違いない。

「……さっきから、何ぼんやりしてるんだ?」

それすらも自覚がなかったのか、ネロが「え?」と再び瞳を瞬かせる。ダンテによく似た大きめの 双眸は、とぼけているふうにはまったく見えない。
ダンテは肩をすくめた。

「まぁ、良いけどな、べつに」

気にはなる。当然のことだ。ネロは自分の、たった一人の子どもなのだから。

「なぁ、ダンテ」

かあさん、とはネロは呼ばない。ダンテは女ではないのだから、呼ばわり方に関して違和感を 覚えたこともなかった。むしろネロが、王を父とも何とも呼ばわらぬことのほうをこそ気にして いるダンテである。が、ネロには王を父と呼べとは、ダンテは言わずにいる。いや、言えずに いるというのが正確だろう。王もまた、我が子の名を呼ばわったことがないのだ。子にばかり 強要することはできない。
顔色は変えず、ダンテは首をかしげた。

「うん?」

長年培った分厚い面の皮は、まだ若いネロに見破られることもなく。

「あのさ……」

やけに口ごもる我が子に、ダンテは不審を覚えた。やはり、様子が妙だ。

「どうした、坊や? トイレなら我慢しないで行って来いよ?」

わざとそんなふうに言ってやれば、ネロは判りやすく顔を赤く染め、違うと喚いた。なんで そっちに取るんだ、だとか、怒りをあらわに喚くネロを、ダンテはかわいいものだと思う。
腹を、けっして比喩ではなく痛めて産んだ我が子だ。かわいくないわけがない。

「違うなら何だ? ほら、言ってみな?」

生意気盛りの我が子はダンテが子ども扱いすることをひどく嫌うけれども、そうせずにはおれぬ ダンテの気持ちは理解できぬに違いない。まぁ、当然のことだろうが。
ネロは何かを迷うように視線を彷徨わせ、べつに、とぼそぼそ呟いた。何もないわけではなかろう 表情に、ダンテは軽い苛立ちを覚えたがぐっと飲み込んだ。ネロが自ら話す気になるまで、じっと 待つのが親の務めではないのか。

「……そうか」

短く呟いたダンテに、ネロが向けた視線の意味はいったい何であったのか。他者から向けられる 感情のすべてに疎いダンテは、深く考えるということすらしなかった。







そうか、と。呟いたきり黙り込んでしまった母との間に、気まずい空気が横たわるのをネロは 感じた。やはり言ってしまおうかと、軟弱ではないはずの意志が挫けそうになる。が、駄目だと 自身を戒め、奥歯を噛み締める。母には、言えない。しかし話さずに解決するかと言えば、 けっしてそうではないから悩んでいるのだ。

血を、一滴。

アグナスの要求は実に単純なものだった。
彼の血を一滴でも採取し、自分に引き渡すこと。ただそれだけだ。理解に苦しむようなことは何も ない。ただ、どのようにしてそれを実行するのか。ネロの悩みはその一点だ。

血を少しでも流すことがあるとすれば、どのような状況下であろうか。彼はただでさえ、 このところ躰を動かすということをしなくなった。体調が優れないのかと問えば、ネロが 自分に勝てるくらい強くなればいくらでも手合わせしてやる、とおどけて見せられた。こちらは 真剣に問うたというのに。
すんなり手合わせが叶ったとしても、ネロの腕では彼にかすり傷を負わせることすら難しい。 もっとも、彼を傷付けることにそもそも躊躇いがあるのだが。
どこぞで、指先をほんの少し切ったりなどしないだろうか。もちろん自分のいるところで、だ。

(そんな好都合なこと、ないよな)

内心でため息を吐く。こんなことだから、母に不審に思われてしまうのだ。母には心配をかけたく ないと、常に思っているというのに。
ネロのことを思い、案じてくれるのは母以外にはいない。だからこそ、母には何も心配をかけたく ないのだ。

「……ごめん」

結局、ネロの口からは意味のない謝罪の言葉しか出ては来なかった。彼がちょっと、首を かしげる。

「何がだ?」

本当に不思議そうな声音と表情だ。妙にあどけない雰囲気に、やはり自分は彼を愛していると思う。 母子としての愛情がいつから恋慕に変わったのか、覚えていないほど幼いころから、ネロは母だけを 愛してきた。それはこれからもずっと、変わらない。たとえ自分のものにならぬひとであると知って いても、ネロは彼だけを生涯愛し抜くと決めている。
己がこの先どのくらい生きるのか、まだ想像もつけられぬほど、ネロは若く、そして幼い。

母の双眸から逃れるように、ネロは小卓の上に視線を泳がせた。色素の淡い彼の瞳は好きなのだが、 長時間視線を絡ませていられないのだ。恥ずかしさだとか、照れだとか、そういうものが勝って しまってならない。情けない、とはいつも思うこと。

「ネロ?」

不意に名を呼ばれ、ネロはぎくっとした。心臓が跳ね、うるさいくらいにがなりたてる。鎮まれと 念じるけれども通じない。彼に聞こえたらどうしてくれる。
動揺を表情に出すまいと苦心するネロをよそに、彼は何を思ったか椅子から腰を上げた。そして 小卓越しに、腕を伸ばしてネロの頬に指先で触れる。ネロは弾かれたように顔を上げた。 そこには、どこか哀しげな表情を浮かべた母がいて。

「何があったか知らないが、ひとりで抱え込もうとするなよ。お前は見てて危なっかしい……」

語尾はほとんど囁くような小さな声だった。だがけっして弱さを感じさせぬのが彼らしい。
あぁ、と。ネロは思う。
彼のことが好きだ。愛しすぎてどうにかなるのではないかと思うほどに、彼のことを愛して やまない。なんて、いとおしい、ひと。

「ダンテ……」

ネロは無意識のうちに呟き、やはり意識せず自分の頬にある彼の手に、自らのそれを重ねた。 母の指が、ほんのわずかだけれどもぴくりとする。
彼の手を引き、抱き締めて。自らの下に組み敷き。そうして我がものにできたならば。それは どんなにか素晴らしく、魅惑的なことであろうか。

「ネロ?」

母の声音に、男への不審といった色合いはない。彼はネロを男として認識していないからだ。 ならばいくらでも触れてやろう、と。そんなふうに開き直ることができないのは、ネロの 生真面目さの表れである。
意気地がないとは、自覚している。どんなにか歳を食っても、自分はきっとだめなままなの だろう。
王になど、及ぼうわけもない。

「ネーロ。どうした、黙ってちゃ判らねぇだろ?」

彼はネロの頬にぴたりと掌のあて、揶揄するような笑みを浮かべている。自分は彼に、無償の愛を 注がれている。それがありありと判って、優越感がネロの心にじわりと拡がる。が、しかし、 同時に劣等感をも味わわねばならぬ。彼がネロに抱く愛は、ネロが彼に抱く愛とはまるで別のもの なのだ。それをまざまざと突き付けられる、こんな瞬間をネロは厭う。
嬉しいと思ってしまう自分をはっきりと自覚しているからこそ、余計にだ。

「なぁ、ダンテ」

「うん?」

この想いを彼にぶつけることができたなら、あるいは解放されるのだろうか。何度も持て余しては 飲み込んできた自問は、今日もやはりネロの喉の奥でとぐろを巻く。

「……俺も、あんたみたいな楽天家に生まれりゃ良かった」

頬に添えられた手に、すりりと頬をすり寄せる。厚みのある彼の手には、柔らかさといった言葉は まるで当て嵌まらぬのだけれども。
ネロは彼の手が、腕が、躰が、すべてが好きでたまらないから。

「何だ、そりゃ?」

わけが判らねぇ、と。首はかしげてもネロの頬から手を離すことはない彼を、ネロは何があっても 愛する自信がある。

――血を、一滴。

それで彼の何が判るのか、ネロには見当もつかないけれど。少しでも彼の何かが判るのならば。

(機会を窺う価値はあるはずだ)

彼が何ものであっても、ネロの、彼への深い愛情が薄れるわけがないのだから。










母はとある真夜中、突然に逝った。殺されたのだ。正体の判らぬ“何か”に、母は腹を切り 裂かれて死んだ。

絶対に出て来てはだめ。

そう言って割れたコンクリートの隙間に幼い自分を押し込め、殺された。“何か”は自分を しばらく捜していたが、やがて諦めてどこぞへ姿を消した。
隙間から這い出して、震えながら母のそばへ駆け寄った。母は、まだ息があった。が、自分の顔を 見つけると同時に息をすることをやめた。冷たくなっていく母にすがり、瞳が涸れるまで泣き続け た。

血まみれになって死んだ母。その頬に浮かんだ優しい微笑を、いまだ、忘れることができない。





母は仕合わせだっただろうか。いつからかいなくなった父を捜そうとは思わなかったのか。
自分は。



幸福の在処を、きちんと見据えているだろうか。



















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次?
戻。



ネロ+ダン、のみ。+が×にならないのがもどかしい。
過去話が消えた!と最後の最後に気付き、こんな結果となりました。