遠雷――――暗幕、六
それはとても、とても嫌な微笑み。
男の目が少年のようにきらきらと輝くのを、ネロは直視しないよう極力目を逸らした。正直、
予想以上の気持ち悪さだ。喜びのあまり抱き付かれては困るので、すぐに飛び退けるよう膝を
柔らかくしておくことも忘れない。
「よくぞやり遂げてくれたね、お、王子!」
「その呼び方はやめろ。気色悪い」
抱き付かれずには済んだようだが、結局鳥肌が立つ思いをせねばならないとは皮肉なものだ。
王子、など寒気がする。確かに自分は王の子だが、それよりも彼の子だという強い思いがある。
一口に王子などと、間違っても呼ばれたくはないのだった。
自分には名がある。ネロという、彼がくれた名が。
不機嫌さに輪のかかったネロなど見向きもせず、男は大きな図体を小さく丸めて(それでも
ネロより小さくなることはないが)掌に乗せたものを凝視している。それはネロが男に渡した
もので、ネロは男に依頼されてそれを持ち込んだのだ。
ネロは男の喜びように嫌悪を抱かずにはおれなかった。が、もっとも嫌悪すべき対象は誰であるか、
ネロはよく知っている。だからこそ、苛立つ。舌打ちをしたいが、なぜ君も喜ばないのかと
とんでもないことを言われそうなので心の中でのみ毒づく。
(ちっ……)
男の分厚く大きな掌の上、一見、きちんと折り畳まれたただの白い布だ。広げれば、ネロの胴体が
丸々隠れる程度にはなる。無論、ただの布ではない。その表面には、一つ、二つ、赤茶の染みが
落ちている。元は真紅だったものが、空気に触れることで酸化し錆色に変色したのだ。
染みの正体は、血液である。ネロのものではない。ネロの母――王の“半身”でもある彼の流した
緋色だ。
様子が妙だという情報を、どう理解したものかと考えながら、ムニンは黒い羽根に覆われた翼を
ばさりと広げて空を泳ぐ。どんよりと重たげな曇天は、ムニンの翼をも重くしているかのようだ。
羽ばたく動作は緩慢で、いつものようなきれがない。心もまたこの天候のように晴れぬせいも
あるのだろう。
ばさり、ばさり。
全身を黒に包んだ大鴉の、存在に気付く者は数少ない。地上からは随分離れているし、
こんな距離では、ムニンが通常の鴉どもよりよほど体躯がよろしいことにも気付かれにくい。
目を留めるものも中にはおり、訝しげな表情をしているようだが、ムニンの正体が知れるわけでは
ないので翼を休めて警戒するまでもない。
ムニンが遊泳しているのは、いわゆる“人間界”と呼ばれる世界の空だ。
王の先兵であるムニンに課せられた任務は、情報収集に一貫する。あらゆる情報を得、王に
伝えるため、ムニンはすべての空を巡る必要があり、人間の棲む世界の空も例外ではないのだ。
人間界にはムニンの生まれた世界――“魔界”、と一種の知識のある人間はそう呼ぶ――の
いきものが数多くふらふらとしている。それら同胞のほとんどが、陰にしか棲むことのできぬ
微力な連中で、問題視されることもまずないと言っていいのだが、時折度を越すものが現われる
ことがある。
鼠も追い詰めろれば猫を噛む。人間は非力だが、それゆえの知識と知能を持ち合わせており、
襲われ食糧にされるばかりではおらぬのだ。
人間界ではそうしてバランスが取られていた。時代ごとに現れる、悪魔狩りと呼称される人間に
よって、度を超えた同胞は駆逐された。
それらの背景も、ムニンの調査対象になる。
現王は情報を重視する。前王の時代には、ムニンがこうして世界中を飛び回ることはなかった。
前王は情報など力の足しにならぬと考えていたのだ。だから、現王に敗れた。己に力で勝るもの
などいるわけがないと、信じきって疑わなかった。
ムニンは歴代の王に仕えてきたが、現王ほど情報収集に熱心な王はいなかったと記憶している。
それはムニンの片割れも同じだ。
双子の大鴉であるムニンの片割れは、名をフギンと言ってムニンと見目全く違うところがない。
見分ける点はただ一つ。ムニンは右目が紅く、フギンは左目が蒼い。
そのフギンは、魔界の空を飛んでいる。王の先兵は彼ら二羽しかおらず、そのためひどく忙しい。
翼を休めることができるのは、日に数度もなかった。
ムニンは人間界を担当することが多い。魔界の空気が懐かしくなることもあるが、面白さで言えば
こちらが断然上だからだ。
こちらには様々な人間がいる。肌の色も言語も一つではないし、あちこちで争いが絶えない。
光と陰の落差が激しく、昨日の成功者が今日は首と胴が別れを告げていることもある。
昼、というものがあるのも、面白いとムニンは思う。太陽が世界をあまねく照らし、その光は
直視できぬほどに眩しく美しい。
月しか知らなかったムニンにとって、こちらは驚くことばかりだった。
ふわりと翼に風を孕ませ、とある一戸建ての屋根に羽を休める。随分と古い建物だ。
人間の気配はない。もう誰も棲んでいないということを、ムニンは知っている。以前――もう
どれほど前のことになるか――には、ここにはまだひとが棲んでいたのだけれども。
年月の経つのは本当に早い。
ムニンは独りごち、ひとで言えば肩をすくめるように翼の付け根をもそりと動かした。ため息が
出る。
自分は王の所有だ。しかし、けっして個に縛られるものではない。フギンはとくに、誰に対しても
忠誠心というものを持ったことはないようだ。現王についても、そう。ならば自分はどうか。
(これは、言っちまえば単なる仕事だしな)
王に仕えること、王の命で情報収集に飛び回ること。すべては“仕事”だ。自らに課せられた
義務を、日々順調にこなしているにすぎない。それゆえ本来は、王以外の者と関わる必要も
ないのだけれども。
ダンテという名の悪魔狩りに、もっとも早く目を付けたのはムニンであった。だから、という
理由付けはおかしいかもしれないが、ムニンにとって彼は確かに特別な存在なのだ。
仕事という枠を越え、ムニンが自ら関わりを持とうと思った、初めての存在。王が彼に惹かれた
ことについては、ムニンは当然であろうと思っている。
廃屋、という言葉を用いたくはないが、そうとしか表現できぬ空き家の屋根にぽつんと一羽。
ここで羽を休めていると、古い記憶をついつい引っ張り出してしまいがちになる。
ムニンは翼を広げて屋根を蹴った。軽やかな筈の羽ばたきは、しかし先刻よりも心なしか重く
なったように思える。
脳裏には、我が子を案じ、整った眉根を顰める彼の――それでもなお秀麗なおもて。
傷がきれいさっぱり消えるのに、一両日もかからなかった。我ながら特異な体質だ。異常と
言っても差し支えないだろう。便利であることは間違ないが、気味が悪いことこの上ない。
彼の体質を知る人間は、今彼の周りにはいない。もとは一人いたが、彼女は十年近く昔に他界した。
親しくなろうと思い、努力を重ねた相手もいたが、必ずあちらが彼を拒むのだ。彼の体質云々など
かかわりなく、なぜか。見目は他に見劣りしないというのに、こればかりはどうにもならぬ
らしい。
男にばかり気に入られるなど、願い下げも甚だしいというのに。
今専ら彼に言い寄っているのは、片刃の剣を自在に操る男だ。言い寄る、とは表現が
不適切だろうか。男は、彼の命を狙う正体不明の人物である。
頭全体を包帯でぐるぐる巻きにした、奇妙な男。しかし腕は立つ。彼と同等、いや、それ以上かも
しれぬ腕の持ち主など、今まで存在しなかったというのに。
世界は広いと言うが、確かにそうかもしれない。
彼の世界は広いようで狭い。じめじめとした裏社会に棲んでいるのだ、ある種の広さは
知っているとは言え、彼の行動範囲はけっして広くはない。
そう考えると、男と遭遇することができたのは奇跡に近い。相手は彼を知っていたようだが、
彼は相手を知らぬのだ。どこにどう自分の噂が流れているのかなど、彼にはまるで興味はない
けれども、そのお陰で男は彼を狙うに到ったのだから、噂も侮ったものではない。
彼は、男と次にいつ遭遇できるか、そればかりを考えている。遭遇すれば、無論始まるのは
甘やかな語らいではなく殺し合いだ。
父のものだったという彼の愛剣と、男の剣とか噛み合う重い衝撃を思い出し、彼は独り
身震いした。恐怖では有り得ない。これはある種の快楽だ。快楽主義者である彼には、
今までにこれほど強烈な快楽を得た記憶がない。
セックスですら、この快楽には遠く及ばぬかもしれないのだから、よほどであろう。
男との殺し合いを思い出せば出すほど、興奮は強いものへと移行していく。次の遭遇が待遠しくて
ならず、どんなにか惚れた女相手にも、これほどの想いを募らせたことはなかった。
交じり合う剣と剣。濃い血のにおい。殺意をあらわにした言葉の応酬は睦ごとにも似て。
(あぁ、イッちまいそうだ)
早く来い、と。名も知らぬ男へ強く念じる。それは遠く離れた恋人を思うよりもなお強く、
そしてどこか切なさを含み。
この感情は果たしてどういった類に振り分けることができるのか。まったく判らぬけれども、
彼の心は浮き立つばかり。
快楽主義者である自分には、ただそれだけで充分なのだと、思う。ただこの快楽を追求したい。
くどくどしい理由など要らぬ。彼はひたすら、快楽を必要としているのだ。
(待ちきれねぇ……なんて、狂ってるな)
期待を膨らませる彼の唇は、知らぬ間に笑みを象っていた。
片眼鏡を嵌めた男は、薄暗い部屋で一人笑みを浮かべている。明かりは頼りなく揺らぐ蝋燭の
灯一つきり。薄気味悪いその微笑を見る者はおらず、その部屋はまさしく男の城に違い
なかった。
男の視線は己の手許に集中している。
広い、黒っぽい石を削って拵えられた横に長い大卓の、中央に奇妙な器具。男の視線の先は
その器具だ。大卓の脇には白い布。先刻手に入った、望んでやまなかったものがそれである。
望み叶った男は今、至福を噛み締めている。
自らの研究に生涯を捧げる者ならば、男の心境はよく理解されることだろう。しかし現在、
男のような偏執的な研究者は他に存在しないのだから、誰一人理解可能な者はいない。それを、
男は世の終わりのごとく嘆く。
こんなにも素晴らしい研究を、なぜ誰も理解せぬのか。理解できぬなど不幸の極みだ。
男は偏執的な頭脳でもって考え、考えた。
愚かな頭脳しか有さぬ哀れな同胞ども。
いかにすれば、この素晴らしい研究を、彼らに理解させ得ることができるか。
男は薄闇の中、ひたすらに考え抜いた。視線はただ一点、奇妙な器具を見据えている。
揺らめく小さな炎の光が、男の片眼鏡をきらりと弾いた。
カラスが出張りました。何となく萌えます。
話の中心が逸れてる気がしないでもなく…続きます。