遠雷――――暗幕、四
二つの世界はおよそ対極の一言に尽きる。書庫の主――アグナスと名乗った男はそう
切り出した。
「対極。つつ、つまりはまるで正反対の環境を有しているということだが、共通点はいくつも
あると私は考える」
さながら講義のように、アグナスはメモを抱えてうろうろと動き回りながら語り続ける。
対極な二つの世界。その共通点とは何か。まずは支配者なるものが存在すること。
「ただし、ここ、こちらの王は一人だが、あちらは幾人も王がいる。国が一つではないからだ。
そそ、それは、共通点と言えど一致しないがね」
同じ場所を行ったり来たり、そうしておらねば唇が回らないのか、アグナスの足が止まるとこは
ない。まるでぜんまい仕掛けの玩具のように。
「そして、戦争」
その単語を口にした瞬間、アグナスの瞳がきらりと光ったように見えた。争いを好むたちで
あるのか、悪趣味であることは問うまでもなく判るけれども。
「国が全くの一つであるこちらですら、あ、争いは絶えないのだ。い、いくつもの国に分かれて
いるあちらは、こちらの比ではないかもしれない」
実に興味深いとアグナスは呟く。にたにたと笑う、その顔を無性に殴りたいと思うが、目を逸らす
ことで辛うじて耐えた。今は辛抱せねば。本題はこれからまだ先のことなのだから。
「諍いの絶えぬところには陰がある。かか、陰は心地好い。我々のようなものには、とくにね」
同意を求められているような気はするが、あえて無視を決め込むことで話の先を促す。アグナスの
講釈にいちいち口を挟んでいたら、いつまで経っても話が先へ進まないだろう。
話に乗ってこないことに興ざめしたのか、アグナスがため息を吐いた。それすらも癇に障る
けれども、耐える。
「こちらと違い光のあるあちらにも陰はある。否、光があるからこその陰かもしれない。
その陰には、こ、こちらの住人が潜んでいることが多い。なぜだか判るかね?」
判りやすく問題を出すことで話に乗せようとしたのか。視線を少しばかりアグナスへ戻すと、
期待に満ちた瞳と目が合って少々後悔する。「さぁ」とつっけんどんに言い放ち、また視線を
逸らした。実際、答えなど判らない。
出来は良くないが反応は悪くない生徒に満足したのか、アグナスがくつりと笑った。
「かか、感情だ。恨み、嫉妬――そういったどす黒い感情の渦。陰にはそれが澱みのように
溜まっている。
だから、い、居心地が好い」
そうして陰に集まったものが、あちらの住人を殺すことは往々として起こる。食事はどんな
生き物にも必要不可欠な行為だ。こちらの住人は、あちらの住人を餌にする。ひとは、こちらの
住人にとり非常に旨いものなのだとアグナスは言う。自分はまだ、味わったことがないのだと、
舌なめずりをせんばかりの風情で話すアグナスに、嫌悪を抱かずにはおれなかった。
ひと、とは彼だ。彼を喰うなど、自分には考えられない。どんなにか飢餓に喘いでいたとしても。
想像だに出来ないことだ。(ただ一瞬、喉が渇いたような感覚を覚えたのは、きっと気のせいに
違いない。)
思考を読んだか、顔に出ていたか。アグナスがくつくつ笑い、言った。
「き、君は噂に違わぬ子息のようだ」
うるさい、と。口の中だけで悪態を吐いておく。こんな初対面の男にからかわれるほど、自分は
判りやすい性格をしているのだろうか。なぜか自分に懐いている、王の耳たる大鴉ならば、
内情をよく知っているだけにからかわれることもしばしばなのだが。
「さて、ここからが、ほ、本題だ」
勿体ぶって、アグナスがにんまりと唇の両端を吊り上げる。苛立ったが、しかし早く話せとは
言わない。他者のペースに巻き込まれることを、自ら望むようなたちではない。
アグナスは一人、熱っぽく語り続ける。
「あちらには、どの時代にもこちらの住人を狩ることを、な、生業とする者がいるらしい。
あちらも狩られてばかりではないということだ」
ひととは中々に打たれ強いいきもののようで。アグナスの口調は一定して笑みを含んでいる。
この男にとって、そうした血なまぐさい事象はすべて文字から得た情報であり、現実としての
認識に欠けるところがあるのではないか。だから、いかにも楽しいことのように語ることが
できるのだろう。
こうして書庫にこもっている限り、己は狩られる立場にはならぬから。絶対に安全な
場所にいて、外部からの情報を文字として受け取るだけの男なのだ。感覚が麻痺しても不思議は
ない。
かく言う自分とても、アグナスとそう立場は変わらぬのだけれども。けれど、自分とこの男とは
違うと思いたいのだ。
「あちらの住人はこちらの住人のことを、あ、悪魔と呼ぶ。それを狩る者は、そう、悪魔狩りと、
よ、呼ぶわけだ。悪魔狩りは時代によって人数も質もまちまちだが、と、ときに突出した能力を
持つ者が出現する」
アグナスは靴底を鳴らして小走りに駈け、顔ごと逸らしていたこちらの前へ回り込んだ。
背を丸め、顔をずいと近寄せてくる。じつに、鬱陶しい。眉間に思い切り皺を寄せ、アグナスを
睨み付けた。
「何だよ、」
「あちらに棲む我々の同胞を脅かした悪魔狩りの名は、こちらの書物にも刻まれている。一人、と、
特に秀でたとされる、我々の同胞に恐れられた悪魔狩りの名を、君に、お、教えてあげよう」
悪魔狩りの名など、聞いたところで自分には関わりのない人物に違いないのだから、興味など
沸くわけがない。にもかかわらず、アグナスの紡ぐ言葉にじっと耳を澄ましているのは
なぜなのか。――小さな予感が、ちらりと頭をよぎったからだ。
(まさか、)
「その悪魔狩りは、それ以前に現われたどの悪魔狩りをも凌駕するほどに、つつ、強かった。
王がその存在に興味を抱くほどに」
その王とは、今現実こちらの世界を統べる王だとアグナスが語る。脳裏にある小さな予感が、
少しずつ膨らみ始めた。
アグナスはにぃといやらしく笑み、白い手袋をかぶった指を一本、こちらへ向けた。
「ネロ、君の母上こそが、その、あ、悪魔狩りだ」
当たらぬほうが良いと思われる勘や予感ほど、真に現実と寄り添っているものだ。
血を流しすぎただろうか。躰中がひどくだるく、重い。
ダンテは毛布から腕を出してぐっと伸びをした。凝り固まった関節がぴしぴしと音をたてる。
痛みがないわけではないが、適度な痛みはいっそ心地が好いくらいだ。脱力して、ダンテは
はふと息を吐いた。
ゆうべ――いや、一昨日の夜のことだ。どうも感覚が鈍っている。
ダンテはとある廃ビルで、一人の男と命のやり取りをした。顔を包帯でぐるぐる巻きにした、
いかにも異様な容姿の男だ。
この界隈では(おそらくどこの土地へ移っても、であろうが)右に出るものがないほどの腕利きで
あるダンテと、男は驚くことに互角であった。いや、互角以上かもしれない。おかげでダンテは
深手を負ったし、あちらにも小さくない手傷を負わせた。血を流しすぎたというのは、そういう
わけだ。
床や壁が赤く染まる程度に互いに血を流していながら、どちらの命も喪われてはいない。
なぜかと、ダンテは考える。あの奇妙な男はダンテの命を奪おうとしていた。にもかかわらず、
ダンテは生きている。実力はほぼ互角と見たが、押されていたのはダンテの方だ。調子が
出なかった、とは間違いなく言い訳にすぎない。
男はなぜ、ダンテを生かしておいたのか。
(なぶり殺しにでもしてぇのか……)
有り得ぬことではないと、思う。男はひどくサディストのにおいがしたし、ダンテが負った傷に
しても急所は際どいところで逸れている。致命傷にならぬ程度の深手。長時間、血を流させる
ことを目的としているかのようなそれは、男の性格(趣味?)の悪さを露呈しているとダンテには
見える。
とはいえ、その傷もすでに塞がりつつあるが。
どんな具合かと、ダンテは寝そべったまま傷跡へ手をやった。脇腹を少し胸へ逸れたあたりに、
周囲とは手触りの違う引きつれた部分がある。
「……っ、いちおう、塞がっちゃいるか……」
触れるとまだ痛みを覚えるが、今日中はかからず完治してしまうだろう。およそ尋常ではない
回復力だが、彼にとってはこれが正常なのだ。五感や運動神経、精神力、自己治癒能力――どれを
比較しても、彼は常人をはるかに凌ぐ。なぜ、とはダンテ自身も預り知らぬことであるのだが。
そのダンテをすら凌ぐ勢いで、男はダンテに迫った。いったい何者であったのか。ダンテの命は
諦めたのか――それはないだろうと、ダンテは直感的に悟っている。
(あいつは来る。近いうちに、必ず)
予感ではない。確信だ。少なくともダンテならばそうする。だからあの男も、という論理は
成立しないが、このままで済むとは考えられない。
ダンテは身震いした。恐怖や怯懦からのそれではない。武者震い。ダンテは、あの包帯男と
もう一度殺し合うことを愉しみにしている。
「ダンテ。過去最強の、あ、悪魔狩り。その名を知らぬ同胞はおらず、その名を恐れぬ同胞も
また、い、いなかった。この書庫に棲む私の耳にすら、は、入ってきたほどだ。文字ではなく、
ね」
彼に遭遇した同胞は、みな殺されたという。さもあらんとネロは思った。彼は強い。ネロは
剣術で、彼に勝ったことなど一度もないのだ。これでもネロは、そこいらの同胞らなどより
強いと自負している。そのネロがどうあっても勝てぬのだから、およそ尋常ではない強さだ。
人間でありながらなぜそうも強いのか、ある意味で幼いところあるネロは考えたこともなかった
けれども。
「……王は、彼を殺すために向こうに行ったのか?」
同胞(王にとっとは民と言えるか)を次々に殺戮する悪魔狩りの命を、自ら刈り取るために。
王以外にそれを遂行できる者はいないから。
ネロの疑問を、アグナスは肩を竦めて否定した。王はべつの用件を片付けるため、あちらへ
渡ったのだ、と。
「べつの、用」
「そうとも。あちらでひとを喰う同胞は昔から絶えないし、王も見てみぬふりを、な、なさって
いた。だが時折、度を越す輩がいるのだよ」
まるで自らの目で見て来たことのように、アグナスは語る。小さな小さな片眼鏡が、きらりと
燭台の光を弾いた。
「王はそうした同胞に度をわきまえさせるべく、あちらへ渡ったわけだ。結果は言うまでもないが
ね。その“作業”の片手間に、か、かの悪魔狩りとの接触を図ったというわけだ」
王と母が出合う。それはすなわちネロの誕生に繋がる出合いであるが、心弾むような感覚は
ネロにはなかった。片手間に、という言葉が引っ掛かっているのか、それとも母を得た王への
嫉妬か、ぐるぐると腹の底に渦巻くものが、ある。
急に押し黙ったネロに、アグナスはくるりと背を向けた。
「王はお強い。それまで最強の王と謳われていた前王を、“半身”を得ずに、こ、殺してしまえる
ほど。だが私が興味を惹かれたのは王ではない」
くるっと、アグナスが再度こちらへ向き直る。
「君の母上だ」
そうだろうな、ネロは口の中で呟いた。ネロをして“噂どおりの”と表現したアグナスだ。王との
折り合いが悪いことくらい知っているだろう。そんなネロに研究の手助けなど求めるわけがない。
手助けできることも、する義理もネロにはないのだから。
「王はなぜ彼を殺さなかったのか。最強たる王にならば造作もなかったはず。彼を一目で見初めた
からか? それとも、彼があまりに強く、こ、殺せなかったか? どちらにせよ、彼はただの
ひとではないと私は、か、考えている」
「人間じゃないなら、何だって言うんだ」
ネロはアグナスを睨めつけた。人間である彼の血を受け継いでいるからこそ、ネロは自身が彼と
変わらぬ容姿を持って生まれたと思っている。ネロの躰で人間ではない部分は半分の血と
右腕だけだ。身体能力こそ人間より優れているとは思うが、尋常ではない力を持っているという
こともない。ネロは彼に似た。だからネロは自分を、半分以上人間だと信じている。
アグナスは語る。
「彼は確かに、に、人間だ。王の“半身”となることで、ひと以上の寿命を得はしたが、ひとで
あることに、ちち、違いはない。だが……」
いちいち勿体つけて話をする癖はどうにかならぬのか。苛立ちもあらわにネロは舌打ちをした。
アグナスが慌てて両手を顔の横へ挙げる。落ち着きたまえという猫撫で声が、さらにネロの機嫌を
逆撫ですると判っていないのだろうか。
「君の母上には何かがある。それが突き止められれば……いやいや、ほんの一端でも判れば、わ、
私の研究は飛躍的に前進するというものだ」
アグナスは野望を宿した双眸をぎらりと輝かせた。ネロがその、飛躍への糸口であることを疑いも
していない。
(ダンテに何があるって言うんだ)
何もあるわけがない。そう否定する傍ら、アグナス同様真相を突き止めたいと望む声がどこかから
囁かれる。そんなことはないと、自分は母を信じていると、純粋な子どもの部分が叫ぶ
けれども。
「……俺に、何をさせたいんだ?」
ネロの唇は、本人の意志を押し退けて、勝手なことを紡いでしまっていた。
母子の接触がまったくないまま…
面白みのない説明的な文章で申し訳ない限りですorz