遠雷――――暗幕、弐
後悔、という言葉を覚えたのは、いつのことだっただろうか。
例によって、ネロは教育らしい教育を親から施されていない。それは躾のこともだが、学識に
ついても同様のことが言えた。ネロに学はない。必要を感じたこともないし、学識を得ようと
考えたこともなかった。母もそれについて何をも言わない。だからネロは、自分は馬鹿のままで
良いと思う。いや、思っていた。
ネロの母は、ネロの目から見てすら何かしら危なっかしいところが多分にある。地に足がついて
いないとまでは言わぬが、どこか現実に馴染まぬふうにネロには見えるのだ。その感覚はつい
最近になって感じたもので、それまでいかに盲目的であったか思い知らされるようだった。
母は、この世界の人間ではない。そのことは物心つく前から母に聞かされていたし、物心ついた
後はさもあらんと思ったものだ。彼は、一言で言えば異質な存在だ。この世界にはそぐわないと
でも言おうか、こちらに棲んで長いと聞くが、闇をまとっているふうが全くない。この光のない
世界に、彼が馴染む気配がないのはそのためかもしれなかった。
ネロは母だけを見て育った。父はいるし、ある種母よりも大きな存在感を以てネロの奥深くに
巣食っているが、ネロは一心に母を見つめ続けている。母はネロのすべてだ。彼のそばに在る
ためだけに、ネロは生きていると言っても過言ではない。
ネロは彼を愛している。それは母に向ける親愛の意味ではなく、一個の存在として彼を深く
愛しているのだ。
であるから、悩みは尽きない。
打ち明けることのできぬ想いは、ネロの心を時に黒く澱ませる。おこりのように、彼を奪いたいと
いう衝動が顔を出すこともある。が、ネロは自身の臆病をよく判ってもおり、彼の唇を奪ったこと
さえ一度たりともなかった。彼から頬などにキスをされることはあっても、そこにネロが抱く
ような醜い劣情は欠片もないのだから、根本的にすれ違っていることは間違いない。
彼はネロを子ども以上のものとして見ることがない。当然であろう。ネロは彼の腹から生まれた。
子へ愛慾を抱く親はおらぬでもないかもしれないが、少なくとも彼はその類ではない。ネロが
彼から親愛以上の愛を注がれることは有り得ないのだ。
虚しいと思うことは、よくある。やめてしまえと思うことも、多々。しかしネロはどうあっても
彼を愛しているし、彼の唯一の親愛を得ていると言えるのだから一種の優越感がないわけでも
ない。彼はひどく社交的だが、同時に極端な人見知りでもある。容易く他者へ心を開くことが
ない。だから生まれたときから彼の親愛を得ているネロは、ささやかな優越に満たされるのだ。
学識うんぬんを気にするようになった理由と言えば、やはり彼のことが挙げられる。何をする
にも、ネロの中心には彼がいる。それを疑問に思ったことは一度もないし、これからもそう
だろう。
この世界は、力だけがものを言う。力さえあれば学などなくとも生きるに事欠かず、裏を返せば、
この世界における学者という存在は、まず間違いなく力で劣るもののことであった。力が統べる
世を分析し、解析を重ね、いかに破滅的であるかを説いて自分たちの存在を守ろうと試みるものが
学者だ。そして学を深めようとする者の中には、あちらの世界へ関心を抱いている者が少なく
ない。
あちら、というのはネロの母がかつて棲んでいた世界だ。こちらとの大きな違いは昼があること、
それから力を有するだけでは生きていけぬこと。つまりは全く似たところのない世界というわけ
だ。その世界を、ネロは見たことがない。彼から少しばかり聞きかじった程度の、偏った知識しか
ネロにはなかった。だから知りたいと思ったのだ。彼の故郷のことを。そして叶うならば、見て
みたいとも、思う。
彼が闇に染まらぬ理由が、あちらの世界にあるような気がしてならない――それを突き止めたいと
いう気持ちもあった。
堕落することに権利など必要ではない。人は誰しも堕落と隣り合わせに生きている。昨日まで
真面目に働いていた者が今日突然に麻薬に染まることも、あるいは血に魅入られ殺人者となる
ことも、すべてが可能性の範疇にある。堕落とは、常に人に寄り添い人を我がもとへ引き込まんと
何ごとか囁きかけているものだ。
腐っていると知っていながら、ただ自らのために生きることしかできぬ世界に、彼は生を受けた。
父は知らない。母は彼が十になる年に亡くなった。親族はいない。正しく庇護を喪った彼は、
それから十年近くをただ独りの力で生きていかねばならなかった。
死のうかと思ったことは何度がある。なぜ自分は息をしているのだろうかと、愛用の銃を
こめかみにあてた。しかし引き金を引いたことはなく、込み上げる自嘲を噛み殺しいっそう
みじめな思いをするばかりだった。
生きることの意味を、彼はずっと探していたのだ。それを自覚したのは、とある昏い夜のこと
だった。
夜は暗いものだ。しかしその宵はいつにも増して闇が深いように彼は感じていた。膚にまとわり
つく嫌な空気に不審を覚えつつ、彼はアスファルトを蹴って路地を駆けた。
彼は基本的に夜、仕事をする。必然的に生活は昼夜が逆転しがちになるが、毎日仕事がある
わけではないので全くそうとも言えなかった。
仕事のあるなしにかかわらず、彼の生活は他者からすれば随分堕落を感じさせるものだ。まず、
午前中は寝て過ごす。昼間際になってようよう起床し、飯はほとんどデリバリーか外食だ。自分で
飯を作るということは一切しない。そのためキッチンは新品のまま埃が溜まっている。大した宝の
持ち腐れだが、掃除をする気すらないのだから救いがない。
それでよくも生きていられるなと、顔馴染みの男に何度言われたか知れなかった。が、彼の
生活姿勢が変わることはなく、それを見兼ねてか利用できると思ってか、彼の庇護を買って出る
物好きもいたがすべて蹴ってきた。彼の矜持がそれを許さなかった、という理由もあるが、誰が
男に養ってもらおうなどと思うものか。
困ったことに、彼のそばにはなぜか判らぬが女が居着くことがない。口説いて断られる例は多く、
しかし彼が醜い容姿をしているかといえばけっしてそうではないのだから、仕事仲間からは
しばしばからかいのねたにされる。それだけなら良かったのだが、これまた困ったことに彼は
よく男からそういった誘いを掛けられることが多いのだ。これは大変いただけない。彼は断じて
同性愛者ではないのだから。
舌打ちを一つ。どうにも気分が乗らぬことへ対してと、今夜の仕事を請ける理由となった男へ。
男はいわゆる仲介屋だ。単純な説明を付け加えるなら、彼のような生業の人間にとある筋からの
依頼書を渡すというのが仲介屋の仕事である。依頼主との間を取り持ち、利益を得る。依頼書を
渡された者が期待通りかそれ以上の働きをしたならば、比例して仲介屋の評判も上がる。つまり
その逆も起こり得るということで、悪評を得た仲介屋が姿を消すことは珍しいことでは
なかった。
仲介屋を名乗る者を間に立て、依頼主からの仕事をこなすのは荒事師と呼ばれる請負人だ。彼らは
どんな仕事でも金さえ支払われれば請けるという性質を持つ。社会に馴染むことができず、爪弾に
された人間が大半を占め、それゆえに狼藉者が多く評判はあまり良いとは言えない。しかし依頼が
なくなることはなく、彼らのような生業が廃れることもないのだった。
彼は、荒事師ではない。金のためならば殺人程度のことは簡単にしてのける荒事師どもと違い、
彼はどんなに理由があっても人を殺すことだけはしないと決めているし、仲介屋を通じて依頼を
持ち込む側へ伝えさせてもいる。人を殺してまで金を得ようと考えたことはなく、それはこれ
からも変わらない。
荒事師ではない彼は、自らを便利屋と称している。何でも屋、とでも言おうか。荒事師とは
はっきりと線を引いた彼のやりようを、生ぬるいだの甘ちゃんだのと嘲る声は今も消えない。
しかし彼は誰からの侮蔑も嘲弄も気に留めてはいない。言いたいものには言わせておけば良いし、
どんなに侮られようと自らの姿勢を変えることには繋がらないのだから。
彼には信念がある。それを曲げることは、自分自身を否定することに直結する。
話は逸れたが。彼が今夜請けた依頼の内容とは、実に面白みのないものだ。面白いかどうかは彼の
感覚で決まる。自らの命を削るような際どい綱渡りを好む彼の感覚を、理解できるものは今の
ところ存在しない。彼は、他者を傷付けることは拒絶しても、自らが傷付くことは一切構わぬと
考えているのだ。
彼が今駆けている路地の先に、四ツ辻がある。それを右に折れたさらに先の、地下を含め
五層造りのビルが目的の場所だ。そこに、依頼主が待っているとの話だった。
顔馴染みの仲介屋によると、時間厳守とのこと。面倒臭いと彼は吐き捨てたが、辛抱しろとやけに
なだめすかされた。この仕事を蹴れば、しばらく飯の種にありつけないかもしれない、と。仕事を
選り好みしすぎるきらいのある彼は、不承不承、諾と頷いた。彼よりも随分年かさの仲介屋は、
分厚い手で彼の頭を遠慮なしにくしゃくしゃにした。
詳しい依頼内容は、そういうわけなので彼も知らない。この先のビルで聞かされるということだが、
約束の時間に間に合うかどうかが問題だ。予期せず、馬鹿な荒事師に難癖をつけられ、
そのあしらいに少々手間取ったためだ。
「くそ、」
口の中で悪態を吐き、顔を上げた先の件のビルを睨んだ。判りやすい廃ビルだ。自分が小さい
子どもだったなら、肝試しでもしたがったかもしれない、不気味な雰囲気を存分に醸し出して
いる。とまぁ、今はそのことは置く。この、地階に依頼主がいる筈だ。あえて地下を選ぶことに
意味があるのか、不審を抱きつつもドアも何もない黒い入口をくぐった。ずっしりと、何かが
肩に伸し掛かるような嫌な感じがしたが、引き返すことはしない。例えば自らの命を危険に
さらすことになろうとも、彼には進む以外の選択肢を選ぶつもりはないのだ。
「ダンテ、」
呼ばわると、彼は躊躇せずこちらへ顔を向ける。その顔色が少し悪いように見えて、ネロは不安を
覚えた。近ごろ、彼は体調を崩しがちであるらしい。
どうしたと応じる声音にも、いつもの覇気はないように思われた。しかしそうとは口に出さず、
あのさ、と用件を切り出すことにする。
「地下の、書庫のことなんだけど」
岩山かと見紛うような偉容を誇るこの城には、地下に何層かの空間がある。普段は出入りをする
ものすら少ないそこに、書物を納めた部屋がひっそりと存在しているのを、ネロはいちおうでは
あるが知っていた。が、足を踏み入れたことは一度もない。用事がなかったのだから当然で
あろう。
書庫などに何の用かと、彼も不審に思ったらしい。つと眉を顰めた。
「書庫がどうかしたか?」
「ちょっと、調べものっていうか……鍵とかあるならと思って、訊いてみただけだよ」
無難な言葉を選んだつもりなのだが、ダンテが眉間の皺を深くしたのでネロは内心冷や汗を
流した。何を調べたいのかと問われたときのために、答えは用意してあるが彼はときにひどく
鋭いことがあるので油断はできない。本当の理由を知られたとて構わぬと言えばそうなのだが、
隠しておきたいという気持ちが強かった。
「駄目か?」
問えば、彼は「いや、」と首を振りながらも煮え切らぬ口調で言った。
「駄目ってわけじゃねぇよ。ただな……」
頭を俯き加減にして後頭部をがりがりとやり、ダンテは迷いの消えぬ口振りで言った。
「気は進まねぇが、お前がそうしたいなら行って来い」
「……良いのか?」
すんなり許可が下りるとは思っていなかったネロは、ちょっとぽかんとしてしまった。その表情が
不審にすぎたらしく、ダンテがからかいを含んだ双眸でネロをじとりと睨む。
「何を調べるのかは知らないが、あんまり長居はするなよ。書庫の主に捕まって何を言われても、
とにかく全部無視してろ」
良いな? と。やけに念を押してくる彼に、いささかながら不安を覚える。書庫の主とは何なのか、
学者のことか、そしてすべて無視せねばならぬほどの何を言われることがあるというのか。
不審でもあるが、ともかくもダンテの了解は得たのだから一度は書庫へ行ってみるしかない。
ネロのなけなしの知識は、そのほとんどが彼から得たものだ。たまには、ダンテには何も訊かず、
自分の目で確かめることをしなければなるまい。そのために、書庫の存在を思い出したのだ。
「鍵はなくて良いんだな?」
確認すると、ダンテはひょいと肩を竦めた。
「あぁ。あそこはいつでも、誰でも歓迎体勢だ。と言っても、誰も近寄りもしないがな」
自分も含めて、という含みをネロは誤解しなかった。彼が書物に一切興味がないことは、ネロも
何となくだが気付いている。彼から教わったことは、剣の扱いと荒野での生き延び方、それから
あちらのことを少々。ただそれだけだ。とくに前者二つは徹底的に叩き込まれた。今は城で
のうのうと暮らしているが、もし独りで城の外へ放り出されたとき、生きる術を知らぬものは
死ぬしかない。彼はそれを懸念したのか、どうか。とにかく彼が重視するのは生き延びる方法で
あって学ではない、というのは確かだ。
「……早めに戻るよ」
おそらく心配でならないのだろう母のために、ネロは床に視線を
流したまま言った。安堵したのか、少しの間をおいてダンテがネロの頭をぽんぽんとやり、
「そうしてくれ」
ぼそりと呟いた言葉と声とが、やけに耳に残って離れなかった。
続きました。ネロたん、初めてのおつかい、みたいな…(違)