遠雷エンライ――――暗幕アンマク、壱









暗い夜だ。明かりが一つもないがための暗さではない。ひたひたと足音を忍ばせ闇が辺りを包む ように、世界は暗澹に染まろうとしていた。それを、男は何を思うでもなく眺める。
闇をより強いものへと導く要因、その最もたるものが自分であることを、男はよく知っている。







昔の話を、ダンテの口から聞いたことは一度もない。好奇心から聞いてみたいと思ったことも あったが、今となってはその会話へ流れることすら厭っている。それはそうだろうと、ネロは 拗ねたように思った。誰が、想いを寄せる相手と憎くてならない男との馴れ初めを聞きたいと 思うものか。

ダンテはネロの想いには、相変わらず気付いていない。それで良いのだとネロは思っているし、 下手に露見して気まずくなるのはもっと嫌だった。彼はおそらく、今までのようにネロに接して くれなくなるだろうから。そうなるくらいなら、ネロは今のまま、焦れったく彼を恋い慕うほうを 選ぶ。
少なくとも、ダンテはネロのことを大事に想ってくれている。無論そこにある感情は親愛以外の 何ものでもないけれど、その感情をネロは独占していると言っても良かった。親なのだから 当然だと彼は言うだろうが(その言葉を、もう何度聞いたか判らない)、ネロにとっては何より 大事なことなのだ。
これで、彼があの男ではなく自分のものであったなら。そう考えぬ日は、ない。馬鹿なことだと、 愚かなことだとは当然判っている。ネロは彼の腹から生まれた。そのネロが、あの男よりも早く ダンテに出合うなど無理も良いところだった。

こん、と。扉が軽い声を上げた。扉の外、上部に時折くっついている小さな蝙蝠が発した声だ。 何故そこにへばり付くのか(こちらの蝙蝠には、木の枝などにぶら下がるという習性のないものも いる)、ネロは一度訊いたことがあったが、よく理解出来ぬことを延々と語られ、以来全く気に 留めぬようにしている。あれにしか判らぬ何かがあるのだと思うことにして。最近では、扉を 叩く音を真似て鳴くという技を身に着けたらしい。役に立つか立たぬかは際どいところだ。

誰か来たのかとは、ネロは思わなかった。この部屋を訪れる者は少なく、大半は一人の人間で あるからだ。人間、とはこの広い城に一人しかいない。

「坊や、いるか?」

扉から顔を覗かせたのは、やはりダンテだ。人を食ったような笑みを絶やさぬ彼を、ネロは部屋へ 招き入れた。わざわざそうしなくとも勝手に入って来るのだけれども。
ダンテはどこか気怠そうな足取りでネロの部屋に入ると、窓辺に据えられた小卓と揃いの椅子に 腰を下ろした。また王に付き合わされたのかと、眉を顰めそうになってネロは慌てて自分の想像を 打ち消した。嫌悪と憎悪に紛れて、小さくはない羨望が顔を覗かせかかる。そんな自分が許せない から、馬鹿な想像はせぬに限るのだ。
一人、処理をするのも情けなくてならないことだし――

「なぁ、坊や」

声をかけられて、ネロはぎくっとした。ダンテが首をかしげて見せる。

「どうかしたか?」

「い、いや、べつに……」

不自然にどもったことには何も思わなかったのか、ダンテは小卓に肘をつき、掌に顎を乗せた。 それで、と脈絡なく用件に入ろうとする。このあたり、ダンテは奇妙にずれたところがあって、 彼の子であるネロですら首をひねることがある。
まぁ、これも慣れだが。
ダンテの、こちらを真直ぐに見つめる双眸に眩しいものを感じつつ、ネロは問うた。

「それで、って?」

「何か悩みがあるんだろ? 優しい俺が聞いてやるから、話してみろよ」

何のことを言っているのだろう。それがネロの素直な反応だった。声にはしなかったがダンテにも 伝わったらしく、ん? と首をひねっている。

「違うのか? 確かにそう聞いたんだがなぁ……」

「聞いたって、誰に」

「お前さんお気に入りの黒いやつ」

あいつか、とネロは内心で低く唸った。何とも余計なことをしてくれたものだ。どこぞの空を 飛びながらにやにや笑っているだろうかの者を思い浮かべ、ネロはやはり内心で呪いじみた悪態を 吐いた。実際、呪いたい。次に顔を見せたら羽根の数本でも毟ってやろうか。それだけで気が 済むか判らないが、

「で、何を悩んでるんだ、坊や?」

ダンテの呑気な声に現実に引き戻される。ネロはまたしてもぎくりとしてしまった。

「な、悩み?」

「さっきから様子が妙だし、やっぱり何か悩んでるんだろ。喋っちまったほうが楽になるぜ」

ほら、遠慮するな。

いかにも懐が深いというふうににこりと微笑して。可愛い(と思っているかは知らないが)息子の ために出来るだけの尽力をしようと、そう意気込んでいるに違いない。それがありがた迷惑で あるとは思いもせずに。
案じてくれることは有り難いし、嬉しいことだ。それは確かなことなのだけれども、悩みを打ち 明けろと言われてするりと喋ってしまえるかと言えば、まったくそうではないのだ。悩みがないと いうことではない。それはダンテが話を聞いたというムニン――王の耳である大鴉の言葉が正しい。 が、その悩みというのは誰あろうダンテのことなのだ。それを本人に相談するなど、ネロには 出来ない。だって。

(ばれたら、)

名を伏せて話すことは出来るかもしれないが、どこで露見してしまうか知れたものではない。 ダンテは自身のことにはひどく鈍感な性質をしているが、だからといって絶対に安全とは言えぬ だろう。
話せない。話せるわけがない。けれど何もないと言って突き放すこともためらわれる。彼が 落胆するにしろ、より強く追求してくるにしろ、どちらもネロには有り難くないことである。

「坊や?」

ネロを子ども扱いしてならぬ彼は、いつもの鈍さを発揮して小卓を挟んだ向かいの椅子に腰掛けた ネロの顔を、身を乗り出して覗き込んでくる。ぐっと近くなった彼との距離に、ネロが内心で たじろいているとはまるで気付かずに。

「その呼び方、やめろって」

苦し紛れにネロは言った。坊や坊やと言って憚らぬ彼に、ネロはいつも口を酸っぱくしてやめろと 言うのだけれど、改められたことはない。
ダンテは男らしい顔立ちににやりとした意地の悪い笑みを乗せ、

「坊やは坊やだろ。むきになるなよ」

「なってない」

「それがむきになってるって言うんだよ」

くっくと笑う彼を、ネロは時折嫌いだと思う。いっこうに自分を一人前の男として認めてくれない 彼が、どうしようもなく嫌いで――そしてどうしようもなく、いとおしい。だから、たちが 悪いのだ。

「なってないって」

唇を尖らせてそっぽを向いたネロに、ダンテはくすくす笑っていたが、すぐに笑みを消した。

「誤魔化そうなんざ百年早いぜ、坊や?」

とっとと喋っちまえよ。

ときには異常なほどあっさり引き下がるダンテであるが、今回ばかりは絶対に引かぬつもりで いるらしい。その決意は構わないが、喜べぬことに違いはない。ダンテは話を聞くまでネロから 離れぬだろう。いつもならば喜ばしいことが、今に限っては面倒でしかなかった。ネロはただで さえ、嘘を吐くのが下手なのだ。のらりくらりとかわしてダンテとの時間を引き伸ばす、 そのような策を弄する余裕は見事なまでにない。

「坊や。坊やって。なぁ、――ネロ」

ぎくっと、する。ネロ。ダンテがくれたその名を、当のダンテはあまり呼ぶことがない。 坊や坊やと口癖のように言うばかりだ。それが時折、名を呼ばわる。声の強弱には関係なく、 ネロはダンテに名を呼ばれることに弱かった。心臓を掴まれたような気分がするとでも言おうか。 だから普段は坊やと呼ばれているほうが良いのかと、つい思ってしまうほどに。
卑怯だと、思う。こんなときばかり名で呼ぶなど、卑怯だ。
むくれてダンテを睨む。ダンテの余裕ぶった表情が、やはり憎たらしい。鼻を明かしてやりたいと 思うけれど、ダンテのほうが一枚上手であることはよく判っている。ネロはいまだ若く、 経験豊富な彼に勝てるわけもない。剣でも、そうだ。

「ネーロ」

しつこく名を呼ばれる彼。その都度どきりと跳ねる心臓と、どちらが疎ましいかといえばもちろん 自分の心臓だ。こんなだから、毎度ムニンにからかわれるのだ。

「そんなに聞きたいのかよ」

話して、後悔するのはどちらだろうか。ネロは目をじわりと細めた。何も知らぬダンテは完全に 聞く体勢に入っている。
もうどうとでもなれ。ネロが自棄になりかけたとき、突然、それまで余裕綽々な様子でネロを 見つめていたダンテが、躰を折って咳き込み始めた。えっと声を上げ、椅子から腰を浮かせた ネロを、ダンテが手を払うようにして見せる。近付くなということなのだろうか。軽く傷付いた ネロだが、少し早とちりをしたようだ。

「……ぃ、じょうぶだ。心配すんな」

躰を起こしたダンテの顔はまだ苦しげで、言葉の合間に小さな咳を挟んでいる。大丈夫なようには 無論見えず、ネロは噛み付くように言った。

「どこが大丈夫なんだよ。横になったほうが良いんじゃないのか」

ダンテの寝室とは違い、ネロの部屋は一間のみで構成されているため、寝台はほんのすぐそばだ。 ダンテの傍らに近付きそちらへ誘導しようとするネロを、彼は首を振って拒絶した。

「んな大層に構えるんじゃねぇよ」

椅子から立ち上がると、彼が向かったのは寝台ではなく扉のほうで、ネロは思わず「待てよ」と 母の腕を掴んだ。幼い頃の記憶にあるそれよりも、明らかに低い体温が伝わってくる。そして 同時に、昔はもっと逞しかったのに、という思いが。

「ここにいちゃ、眠くもないのに寝かしつけられそうだからな」

茶化す口調はいつもと同じ。しかし語尾にかかるようにもれた咳に、ネロは眉をしかめずには おれない。もしや、母はどこか悪いのだろうか。

「誤魔化すなよ、」

腕を掴む手に、ダンテの手が重ねられた。冷たくすら感じられる指と掌。

「話、聞いてやれなくて悪いな。次は絶対、話してくれよ」

苦しそうに咳をしていたというのに、彼の頬にはいつもと変わらぬ笑みがある。手から力が抜ける のが判った。するりと、腕が落ちる。彼はそれを目で追ってから、ネロの頬へ掌をあてた。

「約束だ」

離れていってしまう体温を惜しいと思うのはいつものことで、彼の体温を独占出来たことなど 数えるほどもない。
ぱたりと扉が閉まり、来客などないだろうに「コン」と声がする。あるいはダンテを見送っての 声なのか、まだあの妙な蝙蝠が、飽きもせず扉の上に取り付いているようだ。

ネロは扉に凭れるように肩を押しつけ、はぁ、と深いため息を吐いた。

「何だったんだ……」

掻き乱すだけ掻き乱して、あっさり行ってしまった張本人へ。恨みを込めて呟く。彼との時間が 唐突に終わってしまったことへの落胆と、それと同程度の安堵を噛み締めていることも確か だった。また明日には追求の手が伸びるかもしれないが、ともかく当座は凌いだことになるの だから。
はぁ、ともう一つため息を吐く。何も知らぬというのは強い。しみじみと思い、ネロは脱力して 床に座り込んだ。







魔界などという、昼を知らぬ世界が存在することを知りもせぬ人間どもの溢れる都市を、男は 冷ややかな双眸でもって見下ろした。太陽のない世界に生まれた男は、しかし人間界なる世界の 存在を遥か昔より知っていた。
かといって人間どもに魔界なる存在を知らしめたいとは思わず、また人間界を支配したいと 考えたこともなかった。二つの世界は事実上隔絶されているからこそ、一つの世界として成立して いるのだと思っている。そもそも興味の埒外であった。

その興味のない世界へ男が現われた理由は、一人のとある人間の存在に興味を惹かれたから だった。何度警告を発しても人間界への介入をやめようとせぬ、愚かな馬鹿どもに身の程を わきまえさせるためもある。
男は昼のない世界の支配者となって久しいが、けっして城に閉じこもる型の王ではなかった。 しかし人間が殖えに殖えたこの世界へ降り立つのは、これが初めてのことである。

昼があるとはいえ、空に月の出た現在はこちらもあちらも変わりがない。

(月の姿形は同じなのか)

まるで違った二つの世界の、唯一であろう共通点を少しばかり見つめ、王たる男はひとりごちたが、 半瞬後には脳裏から消えている。すべては興味の埒外。男はそのとき、ただ件の人間への関心のみに つき動かされていた。





ネロと名付けられたいきものが世界に存在を現わす、そのきっかけとなる出合いはこの暗い夜に、 剣と剣とがぶつかりあう鋭い音とともに成立した。



















次?
戻。



続く、ような気配が…