愛錆――――後
アルタハ教会の北の外れ。小さな石が鎮座するだけの寂しい墓に、アーカムは一人、
訪れていた。
古い友人の息子がこの墓の存在を知ったのは、つい昨日のこと。既に総てを知ったのだろう
ことを思い、アーカムは小さく笑った。
「そろそろ、行けそうかな?」
そこに誰がいるわけでもない。しかしアーカムの口調は、明らかに誰かに語りかけている。
そこにあるのはただ、小さな墓石。
「もうこんなところに止どまっている必要はなくなる。君は、君の望むものになれるだろう」
微笑むおもては、子を慈しむ父のそれ。
木立ちのざわめきに紛れて幼い声が聞こえた気がして、アーカムはその場に膝をついて
神に捧げるそれのように拝礼を施した。
願うらくは、哀しき魂に安らかなる眠りを。
胸元のクロスを握り締め、頭を垂れたまま動かぬアーカムの手を、そっと触れる小さな手が
あった。
書斎には天井に届く程背の高い本棚が並び、そのいずれもにびっしりと本が詰まっている。
バージルは細い梯子を使い、天井に近い棚から一冊の本を抜き出した。昔、父がよくこの辺りの
本を読んでいたことを思い出したのだ。
子供の頃から、バージルはよく本を読んだ。外で遊ぶよりも、活字に囲まれて過ごすことを
好む子供だった。尤も、貴族の子が平民の子のように遊び回ることは稀だが。
父の書斎にある本は、ほとんど子供の時分に読んでしまった。しかし、ただ一角、黒檀の机に
近い本棚だけは、触らぬよう父に戒められていたのだ。
梯子に足を掛けたまま、バージルはぱらぱらと古びた本の頁をめくった。何の変哲もない、
宗教にまつわる学問書だ。しかしある挿絵を見た瞬間、バージルは頁をめくる手を止めた。
異教を手厳しく批判する中に、それはあった。
一対の、全く同じ姿形をした悪魔の兄弟。
それはかつては神として、一部の異教徒によって崇められていたという。贄を求め、血と肉を
好むという邪悪な性を有するその“神”を、全能たる天の主がこの地から打ち払った。主は
新しい教えを説いて人々を救い、邪悪な神からの開放を遂げたのだ。
主によって地の果てへ追われた邪神は悪魔へと堕ち、神の地に住む総てのものを食らい
尽くす。
絶対の救世主たる神を愛し、信じれば、悪魔の口から守られる。――――古い伝承と変わらぬ
記述を一通り読み、バージルは本を閉じて首を振った。
双子の悪魔がいかに邪悪で醜悪であるかが、ひたすら書き綴られているのである。そして
その末尾には、主の偉大さといかに素晴らしいかを。
疲労を感じて本を元の場所に戻し、その隣に挟まった小さな冊子に目を止めた。
本というには小さく、薄い。
手に取ってみると、それは思いがけず父の手記だった。
日記、とは違うらしい。日付はなく、ただ走り書きした文字がまばらに並んでいるだけだ。
『双子の邪神』
『悪魔』
何度かその単語が繰り返され、またしてもバージルを気鬱にさせた。やはり、父も双子が
生まれたことを邪神の再来と信じたのだろうか。
ぱら、と頁をめくっていくと、気になる記述がバージルの手を止めさせた。
『子供が消えた。』
いかにも書き殴った、荒い文字。
『残っていたものは大量の血。子供はどこへ、』
さらに記述は続く。
『どこへ。私の子を、誰がどこへやってしまったのか。いや、誰の仕業かは判っている。
あの子を地下に閉じ込めろと煩かった男だ。妻の為と思い、折れたのが間違いだった。あぁ、
愛する我が子。私を赦してくれ。お前を暗い石牢に閉じ込めた私を、どうか……』
懇願で、その頁は終わっていた。ぱらり、とめくる。何もない。しばらくめくったが、
黄ばんだ紙が続くばかりで文字は一つも見当たらない。
あれが最後だったのだろう。そう見切りを付けようとした時、文字があった。
『私は間もなく死ぬ。』
死期の迫った頃に、震える手をどうにか動かして書いたらしい。
父の死因は内臓に巣くった腫瘍だった。激しい痛みが常に父の躰を苛み、ついに善くなる
ことはなく苦しみ抜いて死んだ。母はその二年前に他界していた。
インクの滲んだ字は、どうにか読める程度のものだった。
『死は恐ろしい。しかし私は恐れてはいない。先にいった妻が待っている。ともにあちらで
バージルを見守ろう。』
それは死を前にした恐怖を紛らわせるための、強いて綴られた文字にも見える。しかし、
次に続く文字を目で追って、そうではないのだと判った。
『しかしあれがいては、あの子には逢えない。どうすればあの子に逢えるだろう。』
手記が途切れて、この間五年。父は一度も、バージルの片割れのことを忘れてはいなかった
のだ。むしろ、異常な程に執着していたのだろう。
バージル自身も父にはよく可愛がられたが、この世にいないということが一層の執心を
持たせたに違いない。
『愛しい我が子。お前への愛は死しても消えることはない。いつか逢える時を信じ、私は
死のう。死はすべての始まりだ。恐ろしいものではない。いつかどこかで再会することを
祈る。』
インクの染みが大きく落ち、続く言葉で手記は終わっている。
『私の可愛いダンテへ。愛している。』
男は誰かに呼ばれた気がして、ふと顔を上げた。館はどこもかしこも静まり返っており、男を
呼ばわる声などどこからも聞こえはしない。
眉を顰めて、男は手許の本に目を落とした。それは天地創造の様子を描いた宗教書だ。祖父の
有していた本で、幼い頃からよく読み聞かされていた。その所為か、男が敬虔な神の信徒になる
のに時間はかからなかった。
この館に使用人として入った経緯は、父がそうだったからという単純なものだ。
父は壮年まで、違う主に仕えていた。しかし暇を出され、この館の主に拾われたのだと話には
聞いたことがある。しかしその父は間もなく死に、自分がその後を継いだという形になった。
父が以前の館を去らねばならなかった理由は、この本のようによく聞かされた。
――――忌み子。
双子が生まれたことが、自分にとって最大の災いだった。よかれと思い行ったことが認めら
れず、一方的に解雇されたのだ、と。
聞かされた言葉にはいつも呪詛が込められていた。それが通じたのかなど知りはしないが、
その館の主と妻は、数年後にそれぞれ死んだ。
彼らの残した子には、会った。自分よりもいくらか歳の若い、しかし妙な威圧を背負った
青年だ。あれが伯爵位にあるのかと思うと、我が身の何と惨めなことか、嘆きたくもなる。
しかも常から仕えているここの令嬢は、あの伯爵をいたく気に入っているらしい。彼女が誰と
結婚しようが構いはしないが、あの家を選ぶなど自ら不幸に堕ちるようなものだ。
しかし、面白くはある。
男の興味は令嬢などではなく、ましては件の伯爵でもなく、あの、小さな子供にある。
「…………」
ドアをノックする音がして、男は顔を上げた。この使用人の詰め所をノックする人間といえば、
使用人頭くらいのもの。ドアが開いてみれば案の定、使用人頭がいつもの穏やかな雰囲気を
纏って部屋に入って来る。
「何でしょうか」
今は令嬢付きの家庭教師が来ている為、休憩中だった。しかし仕事を言い付けられれば、
差し障りのない範囲には動く。
しかし使用人頭はあっさりとそれを否定した。
「これを。今し方届いたものです」
差し出されたものは、蝋で封を施された手紙だ。ご丁寧に押印されたこの印は……
「どうして、私に?」
勿論使用人頭に判る筈はない。ともかく礼を言い、男は封を切った。
そよぐ風に遊ぶ、ふやりとした銀糸の髪。
蒼い双眸が見つめる先には、同じ銀の髪を持つ、貴族の青年。
バージルは貴族服の上着を脱ぎ、シャツの袖が汚れるのも構わず土を掻き分けた。
土の入り込んだ爪は、無残に割れている。じくりとした痛みも感じぬかのように、バージルは
黙々と土を掘った。
そんなバージルの姿を照らすものは、暗いカンテラが一つきり。ざわざわと木立ちが不気味に
ざわめく中、一心に土を掘り返すバージルは気違いじみて見える。
道具を使うことは、勿論出来た。しかしバージルはあえて、自らの手で土を掻くことを
選んだ。
この手で、ここに埋まったものを救い出してやりたかったのだ。
父が愛し、死の間際まで求めた双子の片割れを。
あの手記を読んだ後、バージルは再び地下牢に降りた。そこにはもう、彼の姿はどこにも
なかった。しかし誰かがそこにいた気配は残っており。
バージルは彼のいた部屋に入り、鉄錆の染み込んだ床に座って灯を消した。暗い、湿った
空気は、確かに彼を“駄目”にしたのだということが判り、陰鬱な気分になった。
こんな場所に、あれは十年もいさせられたのだ。その間に自分はぬくぬくと過ごし、何不自由
なく育った。
謝罪の言葉など、言えよう筈もなく。
ただじっと、古い血の匂いに鼻が馴れていくのを感じていた。
彼は自分をして、半分に分かれたと言っていた。だから輪廻の輪から外れ、悪魔という
醜いものになってしまったのだ、と。
ならば牢に残った彼が解き放たれれば、別たれてしまった魂はひとつになり、あれは再び人の
輪廻に戻れるのではないか。
どうすれば良いかは判らない。しかし父の手記の、最後の言葉がバージルをつき動かした。
ダンテ。そう、あれの名はダンテと言った。
詰まらないばかりの夜会の場で、偶然拾った痩せ過ぎの子供。それは偶然などではなかったの
だと、今ならば思う。しかしあの時自分は何も知らず、どうした思い付きからか、子供に本来の
名を付けて愛翫した。
愛した子供は、バージルを守る為に姿を消し、バージルの中にいた自らをも消した。それは
確かにバージルの未来を幸福に導く行為だったかもしれない。しかし総てを消してしまうには、
少年はあまりにバージルの深い部分に在りすぎたのだ。
愛し過ぎたのかもしれない。しかし己の半身であると知ってしまえば、それも当たり前なの
だと思う自らがいた。
その、愛する弟が眠る墓を。掘り起こそうと思ったのは、ある種の衝動からだった。
二つに分かれざるを得なかった魂が一つになるには、おそらくこれが必要なのだ。
さほど深く掘り進むことなく、それにぶつかった。その段になって、カンテラの灯が一つ、
二つと増えていることに気付く。
一つは司祭長であるアーカムと執事のウェイズ。もう一つはこれに死を与えた男の息子。
そして残りは、これを牢に閉じ込めるよう父に迫った当時の使用人らだ。
バージルは彼らを視界に収めるでもなく、棺というには粗末な箱の蓋を外した。脇に置いた
カンテラを取り、灯をかざす。生成りの麻布に包まれたそれは、小さい。
布をめくる。予想していた通りの姿で、少年は眠っていた。
痩せた躰。小さな手足。さらさらの銀糸。長い睫毛。ふっくらとした唇。朽ちることなく、
それはそのままの姿でそこにあった。ただ、蝋のような白い肌が、これを遺骸だと教えて
くれる。
ようやく辿り着いた。
バージルは笑みを浮かべ、カンテラを置いて子供に触れた。冷たい。しかし己の触れたそこに
温もりが戻った気がして、両手を伸ばした。
「おいで」
うん、と嬉しそうな返事が聞こえた気がした。
麻布ごと少年の躰を棺から抱き起こし、
「もう、寒くないだろう?」
微笑を浮かべて抱き締めた。居並んだ全員が息を飲む。遺骸を抱くバージルの背後に、明らかに
人間ではない何かの影が二つ、ひっそりと立っている。それは今の今までどこにもいなかった、
しかしその場の全員が知っている容貌だった。
バージルはそれらの気配を感じて、しかし振り向くことはしなかった。
「これでもう、お前を縛るものは何もない。ひととして、逝け。もしまたひとではないものに
堕ちるなら、その時は私も共にゆく」
その為に、お前の骸は土に返そう。
「また、どこかで逢おう。必ずだ」
――――うん。
――――いつか、な。
脳に直接響くような声は、その場の全員に届いた。バージルは背後の気配が遠のくのを
感じながら、ひそりと瞼を閉じる。
生成りの麻布がはらりと落ち。現れた骸は、首と胴が離れていた。
バージルは少年の胴を麻布に包んで地面に寝かせ、首だけを腕に抱いて立ち上がった。
ゆらり、と居並ぶ面々の顔を見渡す。
「あれは貴様らを赦すと言った。しかし、判るな?」
十年もの歳月を経て、バージルは半身を救った。後は、仕上げを済ませるだけだ。
しゃり、と軽い音をたてて、父の形見である片刃の剣を抜いた。あらかじめ、ウェイズに
持たせてあったものだ。そしてアーカムは、この場の証人となる。
「逃げたければ、好きにしろ」
狂気の混じった笑みを浮かべれば、そこにいたほぼ全員が脱兎の如く逃げ出した。動こうと
しなかったのは、ただ一人。バージルは剣をだらりと垂らしたまま、地面を軽く蹴った。
「旦那様、紅茶をお召しになられますか?」
「頼む。――――あぁ、あれはまだか?」
「間もなく仕上げにかかると聞きました。催促させましょうか」
「いや、構わん。待っても数日なのだろう?」
「はい」
「では、待とう。茶を頼む」
「承知致しました」
欠けたものの浮き彫りになる日常は、詰まらない。しかし、愛しいものを待つということは、
何とも楽しいことではないか。
それが、もしくは今生のことではないとしても。
いつまでも、いつまでも待っていられる自信が、ある。
「あまり待たせるなよ。ダンテ?」
頬には、笑みを。
それは愛しい彼が、凍った心にくれたもの。
何だかアレな感じですが、子悪魔編はこれにて終了です。
長かった…書くものはとりあえず長くなる傾向にあるので、書ききれて良かったです。
兄、大量虐殺。あえてその描写は入れませんでした。書けない。
ちなみに、あの中で一人だけ生き残った人がいます。アーカムと執事以外、なのは当然。
しかし父、何だか異様な程ダンテ愛の人になったなぁ…。