愛錆――――前
暗き深淵に続く階段を、一段、また一段と下りて行く。
冷たい石段は、総てを拒絶しているようでもあり、地の底へ導いているようでもある。
生まれてこのかた、こんな場所があるとは知らずに育って来たのだと思うと、何と幸せ
だったのだろうと情けなくなる。世の中には知らずとも良い事柄は確かにあるが、これは
知っていなければならなかったことだ。
家の闇の部分を、知らずにいて何が主か。
かつん……かつん……
風もないのに手燭の火が揺らぎ、足許が危うくなる。本当に拒まれているようで、苦いものを
感じながら、しかし足を止めることはしない。
この足は決して、止めてはならないのだ。
「貴様は何を知っている」
木立の切れ目に建つ、寂れた小さな墓。
その墓を背に、バージルはアーカムを問い詰めた。ここに自分を導こうとしていたのは
アーカムだ。何も知らぬわけがない。
アーカムは心の読めぬ表情でバージルを見、ついとその背後の墓を見やった。
静寂は短い。
「私は何も知らない」
嘯くアーカムに、バージルは掴み掛かった。
「私を謀る気か。何かも知らぬ墓に、貴様が導くわけがない」
襟首を掴み、ぎりぎりと絞めているにも拘らず、アーカムは苦しげな素振りすらなく。
「私は何も知らないさ。ただ、君の知らぬことを少しだけ知っている。それだけのこと」
「話せ。総てだ」
間髪入れず、バージルは命じた。貴族が司祭に命じるなど、お門違いも甚だしい。しかも
アーカムは司祭長で、身分として組み込めばバージルよりも上なのだ。バージルはアーカムに
敬語すら使ったことはないが、それでも今のようなことはしたことがない。
バージルの中で、物事の優先事項が鮮やかに入れ替わっていることが如実に判る。
アーカムは苦笑して、バージルの手を外させた。
「君は本当にその子を愛しているのだね」
「あぁ」
言われるまでもなく、バージルは自覚している。
何ごとにも淡白で、執着などしたことなかった自分が、それがいなくなったというだけで
この取り乱しようだ。執着、などという言葉すら、単純なものに感じてしまう。
“それ”――――バージルの中には既にそれがどんな人間であったのか、記憶にない。
それを取り戻したくて、取り戻さねばならなくて、バージルは焦っているのだ。
バージルの焦りが手に取るように判るのだろう。アーカムが地面に膝をつき、神にする
礼拝の如く頭を垂れた。バージルに、ではない。その後ろ、小さな墓に対しての礼だ。
「遠くはない昔、ある屋敷に子が生まれた。妻を娶って早十年。子宝に恵まれなかった
その家では、誰もが皆歓喜した。しかし喜びは、子が腹にいる間のうたかたの幻でしか
なかった」
アーカムの低い声が、殷々と響く。
「子は、双子だった。――――古く、双子の邪神あり。全能なる我らが神の出現により、
邪悪なる双子は神の地を追われ、果ての大地にて復讐を誓う。……双子が生まれることは、
不吉、そして破滅を意味する」
しかし生まれてしまったものは取り返しがつく筈もなく。更には。
「双子を生み落としたことで、妻は半狂乱に陥った。それも仕方のないことではあるが……」
破滅を呼ぶ悪魔を産んだ、と妻は泣き喚いたという。
「その後、屋敷には誰が訪ねても一人の子しか見掛けることはなかった。双子が生まれたと
知っているのは、取り上げた産婆と屋敷の人間、そして……」
アーカムは一旦言葉を切り、立ち尽くすバージルを見上げた。
「私だけだ」
「俺が、双子……」
一人称が、当主となるまで使っていたものに戻っていることに、バージルは気付かない。
それ程に動揺していたということもあるが、何よりも、納得している自分への驚きが大きい。
幼い頃から、バージルは何かしら欠けたものを感じていた。
欲しいものは何でも手に入ったし、使用人らは望まずともバージルにかしずいた。しかし、
いつも何かが足りなかった。
その答えが、今になって判ったのだ。
しかし今問題となることは、自分の半身はどこに消えたのかということだ。しかしその答えは、
既に判っている。
「殺した、のか、俺の半身を」
ふつりと沸き上がるものは、嘆きではなく、怒り。
「殺してここに埋めたのか、貴様が!」
咆哮に似た恫喝に、アーカムはしかし首を左右にする。
「確かに、預かった亡骸は私がここに埋葬した。しかし、私は曲がりなりにも神に仕える身、
命を弄ぶことは出来ない。判るね、だから私は、総てを知っているわけではないんだ」
アーカムが知っていることは、バージルが双子であったこと、そしてその片割れが死んだこと
だけなのだ。それだけでも、バージルにとってはまさに寝耳に水である。しかし今は、そのこと
自体は置いておく。気になることが他にあるのだ。
「待て、今……預かった、と言ったな? 誰からだ」
アーカムは立ち上がり、辺りを憚るように告げた。
「君の、執事をしている男だ」
もどかしい。
――――もどかしい。
何故こんなにも回り道をせねばならないのか。
バージルは馬車から馬を外し、制止しようとする馭者を振り切って館に戻った。勿論、
使用人らは主が血相を変えて戻ったことに驚き、狼狽えた。しかしその中で、ただ一人
落ち着いている人物がいる。
長く、執事を務め抜いた男だ。
「ウェイズ、私の書斎に来い」
馬を駆る間に、少しは頭も冷えた。何ごとにも動じず、年老いてなお賢しい執事は、
ただ穏やかに頭を垂れる。
おろおろとする使用人らには一瞥もくれず、バージルは執事を伴って書斎へ向かった。
書斎には、基本的に本棚が並び、窓際に机が鎮座しているだけの殺風景な部屋だ。しかし
バージルは書斎に足を踏み入れた瞬間、慣れている筈の部屋に違和感を覚えて眉をしかめた。
背後から、ウェイズが言う。
「坊ちゃんは、神の御許へご無事にゆかれたのでしょうか」
出し抜けな言葉だ。しかしバージルにはその意味が嫌という程判る。
「……存在そのものを消された子供が、簡単に浄化を受け入れるとは思えんがな」
「……左様でございますな……」
表情は穏やかなまま、しかし声音は心なしか沈んでいるように聞こえた。
子供を死なせたのがこの執事であるかは別として、子供の死に様を知っているのだろう男が
こんなにも悲痛そうにしている。それがバージルの気に障った。しかしそれを非難するより早く、
執事がやはり唐突に切り出した。
「旦那様、どうか私に暇を下さいますよう、お願い申し
上げます」
暇が欲しい、つまりはここを辞めたいということだ。
「何故、」
「私は決して許されぬ罪を犯しました。本来ならばその時に屋敷を去るべきでしたものを、
亡き大旦那様のご好意に甘えて今まで……」
「単刀直入に訊く。お前の罪とは、あれを殺したことか」
「……それは、」
執事が言い淀む。バージルは机の上に腰掛け、執事を見据えた。
「殺して、後の処理をアーカムに託したのか。話せ、総てを。処断はそれからだ」
話を聞けば、もしかすれば欠けたものが埋まるかもしれない。反対に、何の解決にもならない
かもしれない。しかし、総てを知りたかった。
隠匿された“真実”を。
ウェイズはしばらく迷っているようだったが、意を決したのか、静かに語り始めた。
己の片割れの、悲痛な最期を。
可哀想な子供を取り巻く人間の、冷酷な所業を。
地下に続く階段は、ひどく長く感じた。
こつん、こつん、
不気味な静寂を破る、バージルの靴音が高く響く。地獄の底へ続く階段の、最後の一段を
ようやく下りる。
地下には、罪を犯した使用人に折檻を与える為の牢が三つ、しつらえてある。しかしこれらが
本来の役目を果たしたのは、今から三十年以上も昔が最後だと言う話だ。表向きはそれ以来
一度も、ここには人が下りていないということになっている。
地下は黴臭く、陰気だ。何より暗い。壁にいくつか燭台を置く穴が掘ってあるが、そこに
明かりはない。たとえ明かりがあっても、おそらくここは暗いままなのだろう。
陽光の射さぬ場所は、どうあってもその暗さを隠せるものではない。
壁にそって二つの牢が並び、その更に奥、狭い通路を歩いた先に、牢と言うよりは部屋に
近いものが一つある。
そこには鉄格子がなく、あるのは閉ざされた木戸のみ。南京錠が下りるようになっていたの
だろう扉には、錆びた鉄の切れ端がこびりついている。
牢だが、牢ではない。バージルには、牢よりも陰湿な部屋に見えた。
錆びきったノブは、バージルが少し捻ると乾いた音をたてて取れてしまった。仕方なく、
バージルは扉を蹴破った。どうせ、中には何があるわけでもないのだ。
あるのは、澱み。
しかし、
「せっかちな奴だな、おい。ノックもなしか?」
揶揄うような声が、虚ろな部屋にバージルを迎え入れる。
誰だ、とは、バージルは問わなかった。かつてここに閉じ込められていた、己の半身だ。
「会うのは生まれて以来だな。まぁ、厳密に言えば、だけど」
半身はバージルと違い、お喋りな気質なのだろうか。手燭の明かりに浮かぶ秀麗な面に笑みを
浮かべ、人懐こく言葉を紡ぐ。
「折角会えたってのに、挨拶もなしかよ? 俺の片割れは随分冷たい人間なんだな」
その顔立ちはバージルと同じ。それは当たり前のようで、しかし奇妙なことでもある。
この半身が死んだのは、十年前のことだろうに。
「何故、」
短い問いを、しかし彼は正確に理解した。
「俺のもう半分が見たアンタを、そのまま写したのさ」
「半分?」
「あぁ、そうか……アンタの記憶、消したんだっけ」
溜息混じりの言葉に、バージルは聞き捨てならぬと眉根を寄せる。
「お前がやったのか」
「俺だけど、俺じゃねぇよ。言ったろ、俺の半分って」
「半分とは、どういうことだ。それに何故お前はここに止どまっている?」
矢継ぎ早に問い質すと、彼は肩を竦めて見せた。
「アンタ、物好きだよな。あれの記憶がなくなったんなら、わざわざ過去をほじくり起こす
ことねぇだろうに、何でここに来た? 俺が死んだのはもう、十年も前のことじゃねぇか」
忘れちまった方が、知らねぇ方が楽だろう。
それは心底呆れたように言う。明かりにぼんやりと浮かぶ白い面立ちは、酷く複雑な表情を
していた。
「確かに、知らぬ方が楽、なのだろう。だが、私は知らずにのうのうと生きて来た自分が
許せぬのだ。それが、私の半身のことならば一層な」
「そっか……じゃあ教えてやるよ。俺はこの部屋で死んだ。それは知ってるな?」
執事のおっさんに訊いたんだろ、と彼は軽く言う。だが、
「死んだのではなく、殺されたのだろう」
まだ十歳にしかならぬ子供を殺したのは、執事ではなかった。執事はそれを止められなかった
ことを悔やみ、この独房に子供を閉じ込めることを止められなかった自身を嫌悪していた。
殺したものは、既にこの世にない。
殺された本人は、何故かあっけらかんとしている。
「まぁ、そうとも言うな。んで、執事のおっさんが死体をここから運び出したってわけだ。
ここまでは良いか?」
「……あぁ、」
「んな顔すんなよ、なぁ?」
何故彼がこちらを労るように笑うのか、バージルには判らない。
「俺はさ、確かに親父や母さんを恨んだこともあったよ。けどな、執事のおっさんがいつも飯を
持って来てくれて、一緒にいてくれたから、恨むのはやめようって思ったんだ」
「ウェイズが、か」
「そんな名前だっけ。もう忘れちまったけど……いっつも頭撫でてくれて、さ。アンタの話も
おっさんから聞いたんだ」
子供のように、彼は破顔する。
「俺と同じ顔で、でも性格は全然違うんだ、って。……会ってみたいって言って、困らせたこと
もあったなぁ」
寂しく笑う彼を、バージルは抱き締めたいと思った。自分はここにいる、と。側にいるの
だと、抱き締めて。けれど、
「ずっと真っ暗なところにいるとな、人っていろいろ駄目になるんだよ。脚なんか立てるだけで
走れやしないし……ちょっと疲れて来た頃に、あいつが来たんだ」
バージルは無意識に息を飲んだ。彼は自分を殺したものの名を知らないが、執事は当然ながら
知っており、彼が殺される瞬間を見たのだと言う。
「悪魔は死ね、だってさ」
「お前が悪魔なら、私も同じだ。我々は双子なのだからな」
苛立ちを紛らわすように、バージルは低く言った。彼がはっとしたように目を瞠り、次いで
どこか嬉しそうに目を細めた。
「……俺の死体を抱いて、おっさんは泣いてくれたよ。それから俺をここから出してくれた。
でも、俺は半分しか外に出られなかった」
「どういうことだ?」
「心がさ、離れなかったんだ。ここ……っていうか、この家から。だから、魂って
言うの? それは半分だけしか死ねなくて、結局綺麗なものにもなれなかったんだ」
中途半端に千切れた魂は、人の輪廻から外れてしまったのだと彼は語る。輪廻、というものを
バージルは信じてはいないが、彼の話は信じられた。
「人の輪廻を外れて、その半分は何になったというんだ?」
「ん……本当の悪魔に、さ」
悪魔、とバージルは口の中で繰り返した。それが聞こえたのか、皮肉だよな、と彼が力なく
笑う。
「まぁ、それにしては随分可愛げのある悪魔になったみたいだけど、綺麗なものじゃないのは
確かだ。魂が欠けてる限り、もう人には生まれ変われない」
「綺麗な、もの、か? 人間が?」
違う。人間程汚いものはない。それが、何故綺麗なものであろうか。
「俺は、ひとが好きだよ。酷いひともいるかもしれない。けどさ、執事のおっさんみたいなひとも
いるんだし。それに、アンタもいる。……ここに来てくれた」
だから、好きだよ。
「お前は……お前はそれで良いのかっ……!?」
バージルは不意に涙が零れそうになって、咄嗟に彼に背を向けた。その背に、彼の手が
触れた気がしたが、振り向くことは出来なかった。肩が震える。
背後から、泣いているような、笑っているような声が静かに響く。
「……ありがとうな、兄さん」
とん、と背を押されるような軽い衝撃があり、バージルはふらふらと部屋から出た。
「……っ」
振り向いたそこには、もう誰の姿もない。
あるのは、今までどうして気付かなかったのか、赤銅色の、血溜りの痕。
明かりを廻らせれば、鉄錆の色はそこかしこにあり、壁の色が残っている箇所の方が
少ないということに愕然とした。
これ程に血のりを撒き散らすには、どこを斬れば効率が
良いか。
「…………」
喉をついた言葉は、けれども声になることはなく、掠れた息になって湿った空気に溶けた。
前?
次?
戻。
何だか惰性で書いた気がして仕方ありません。
ほとんど説明。みんなの口調がすべて説明口調という面白くないことに…!
何だかいろいろすいません…。
加えて、ここのバージルはどうも他のに比べて別人感がしてなりません。
えせバージルと大人ダンテの逢瀬編、どうも消化不良感が残りました…(猛省)