愛傷アイショウ――――前









滴る透明の雫を一つ、弾いてあなたを守りましょう。





自分に縋り付いて眠る子供の背中を、バージルは一定のリズムで優しく叩く。

ぽん、ぽん。

泣き疲れて眠った子供は、それでもバージルから離れようとはしなかった。離せばその 瞬間にバージルがいなくなるとでも思っているかのように。幼い見目には似つかわしくない、 強い力でシャツを掴まれ、バージルは着替えることも出来ずそのままベッドに入ったのだ。
いつもならば絶対にしないことだが、この子の為だというだけでどうでも良くなった。

側にいてやらねば、この少年は寂しさのあまり死んでしまうのではないか。そうバージルに 思わせるだけの必死さが、この子供にはある。

普段は言葉少ない――――バージルに対してだけはそうではないが――――内気な子供。 しかしバージルと引き離されそうになった時の、あれは少し異常と言わねばならない。

何故そうまでも引き離されることを嫌がるのか。いや、怖がるのか。
恐怖よりも恐慌という言葉が似合う、あの恐れようは一体何なのだ。

慕ってくれているだけとは、とても思えない。

「……お前は、一体私の何なのだ……」

少年の銀の髪に鼻先を埋める。ランズフォード家で聞いた不快な言葉を思い出して、 バージルは奥歯を噛み締めた。あの男が言っていた、真実とは何のことだというのか。

この子供の何を、あいつは知っているのだろう。

考えると、不快感が増した。

自分は知らず、あの男は知っている? 冗談ではない。これを拾ったのは自分で、これが 慕うのは自分だけなのだ。あんな男が、これの何を知っているという?

この、ひとではない生き物の、何を。

頬に硬いものが触れ、バージルははっとした。少年の頭に生えた、小さな角だ。

「……あぁ……」

わけもなく呟き、バージルは子供の背中から腕をずらし、手を腰に滑らせた。
普段ズボンの中で丸めて隠している尾は、眠る時だけは外に出してある。少年曰く、苦しいの だそうだ。だからベッドの上だけは、丈の長いかぶりのシャツ一枚を着せている。
今夜は着替えさせることが出来なかった為、仕方なく下だけ脱がせてあるのだが。

すべらかな肌理の細かい肌が掌に心地好い。その肌を破って、ぷつりと生えた細く長い蔓の ような尾。植え付けられたように腰と尻の中間から伸びるそれの付根を、バージルは指先で なぞった。
滑らかな肌よりも少しかさついた尾の感触が、これが尋常の生き物ではないとバージルに 突き付ける。しかしバージルには、これが忌むべきものとは思えないのだ。

悪魔だと、自ら名乗る少年――――。

本来ならば、悪魔は忌まわしき存在だ。教会は神を崇め、悪魔を忌む。悪魔は排除される べき忌み物であり、神の子たる人の敵である。と。
しかし、とバージルは腕の中の小さな悪魔を見つめ、思う。

これが忌むべきものか。この子供が、本当に忌まわしき生き物なのか。
愛してやらねば死んでしまいそうな、この愛しい生き物が。

「……ダンテ……」

名を与えたのは、あくまで成り行きだった。しかしその名を呼ぶごとに、この子供が隅々まで 自分のものになっていく不思議な感覚に陥る。

人がこれを忌むならば、私だけはこれを愛し抜こう。そうすれば、これには本当の意味で私しか いなくなる。今でも私にしか懐かないが、それでは弱い。

この繋がりを、もっと強いものにしなくては。
子供が決して、不安を覚えることのないように。

愛して、やろう。



腕の中で、ダンテが小さく身動ぎした。夜は明け、窓から差し込む陽は燦々として明るい。

バージルは結局、一睡もしなかった。
ダンテの眠りを見守りたかった、と言えば聞こえは良いが、実際は昏い思考に囚われていた 所為でろくに眠れなかったのだ。

「んぅ……」

もそりとダンテがバージルの胸に額を押し付けた。むずがるように頭を左右にして、 擦り付けてくる。その幼い仕種に、バージルは目を細めた。と、

「……っん、……ぁじる……?」

銀の睫毛に縁取られた瞼が、つと持ち上がった。

「お早う、気分はどうだ?」

昨晩のことをぶり返すのは得策ではないと判っている。が、バージルは訊かずには おれなかった。いや、ダンテの口から聞きたかったのだ。
大丈夫、と。その一言が。

髪を撫で梳いてやると、ダンテは気持ち良さそうに目を閉じた。これが猫なら、ごろごろと 喉を鳴らしているのだろう。

「ダンテ、」

「……へいき、」

もう大丈夫だと言い、しかしバージルに甘えてしがみつくのは、やはりまだ昨晩のことを 引きずっているからなのだろう。元より甘え上手な子供ではあるが。

「……そうか。腹が減っただろう? 起きて、飯にしよう」

バージルが促すと、ダンテはバージルの胸に顔を埋め、うん、と小さく頷いた。

「書状の処理が済み次第、出掛ける」

食事の準備がなされている間、バージルは執事を相手に日程の確認をした。バージルの予定を 組み立てているのはウェイズで、朝食時にその日の予定を確認するのが日課と なっている。
ウェイズはバージルの膝に陣取り、別の椅子に座ろうとしないダンテを不審には思わなかった ようだ。ちょっと目を細めたのは、バージルがしたように猫を愛でるそれと同じであったの だろう。この執事は初めから、ダンテを可愛がっている節がある。

バージルは自分を見上げて来るダンテを抱き寄せた。

「これも連れて行く」

離れないと言ったそばから出掛けようとするバージルに、ダンテが不安げにしていたのだ。 連れて行って貰えると判った瞬間、ダンテの瞳が嬉しそうに輝いたのを、ウェイズも 見逃さなかった。

「承知致しました」

疑問を抱くこともせず、深々と頭を垂れて執事は部屋を辞した。丁度、朝食の用意が出来た ところだった。

「ばぁじる、」

口に入れてやった苺をもくもくと咀嚼しながら、ダンテがひょいとバージルを見上げた。 どうした、と問うと、ダンテはことりと首を傾げる。

「きょうはどこに行くの?」

「あぁ……言っていなかったか。教会だ。お前は知らぬだろうが、アルタハ教会と言ってな、 先日約束を反故にしたので、その埋め合わせに行くのだが……」

「きょうかい……神さまがいるの?」

「……? さぁ、私は神など信じてはいないからな」

「……ふぅん……」

好奇心で輝いていた瞳が、不意に興味を失ったように瞼に半ば隠れてしまう。そうさせたのは、 おそらく教会という単語だろう。

「どうした?」

行きたくないなら残れ、とはバージルは言わない。ただ問い質すだけだ。

「なんでもない」

ダンテは言って、ぱくりと苺を銜えた。大粒のそれは小さな口には余ってしまい、もごもごと 口いっぱいに頬張っている。
バージルは苦笑して、ダンテの頭を撫でた。

「苺ばかりでなく、パンも食べろ」

「んむ……やぁら」

「食べねば、大きくなれんぞ?」

何気なく言ったその言葉に、ダンテはぴくりと肩を跳ねさせた。バージルはそれを、発育の 遅れた子供の典型的な反応と取った。

「ほら、食べなさい」

小さく千切ったパンの欠片を口許に運んでやると、少しの躊躇はあったものの、ダンテは パンに食らい付く。もそもそ咀嚼し、飲み込んだ。その間、当然と言えば当然だが、 無言である。

「旨いか?」

バージルは自分もパンを囓り、訊いた。うん、と心なしか気落ちしたような返事があり、 しかしバージルは大して気には留めなかった。大きくなれない、と言ったことを気にして いるのだろうと、己の中で完結させて。





アルタハ教会の司祭長は、名をアーカムと言う。左右の色が違うという珍しい瞳を持った僧で、 その見目の異様さもあって司祭就任の際は反対の声が強かったらしい。
しかし司祭に就任した後は、とんとん拍子に司祭長まで昇格した変り種だ。

他人に全く興味のないバージルが、何故こんな話を知っているかと言えば、答えはごく単純な こと。アーカムとは、十年来の知己だからだ。

バージルが若輩の身で伯爵家を継ごうとした際に、後ろ盾となったのがアーカムだったのだ。 それが丁度五年前であり、アーカムはその時既にアルタハ教会の司祭長を務めていた。
バージルの父はアーカムと懇意にしていた。その為バージルも自然と知り合いになり、 望まずとも友人という関係が出来上がっていたのである。

司祭とは懇意にしておいて損はない。

父の言葉だ。
教会というものはこの国のみならず強い力を保持している。ある程度の権力を持つものとして、 教会を無視することは不可能だった。
王から授かる爵位は、ともすれば教会の司祭に劣る。それ程に教会の持つ権威は強大なもの なのだ。



気鬱な馬車に揺られながら、バージルは窓の外に視線をやった。陽は高く、差し込む光は 暑い。
ふと、腕に重みがかかった。さして重くはないそれを、バージルは見やって微笑を 浮かべる。
ダンテがバージルの腕に頭を預け、じつとこちらを見つめていた。

「もうすぐだ。疲れたか?」

すっかりくたびれている自身を棚上げし、バージルはダンテの頬を撫でた。乳飲み子のような、 というのだろう瑞々しい肌が心地好い。

「だいじょうぶ。ねぇ、ばぁじる」

「うん?」

「……ううん、何でもない」

紡ぎかけた言葉を飲み込み、ダンテが首を左右にした。バージルは訝しげに眉を寄せる。

「何だ、言ってごらん?」

促すけれど、ダンテは首を横にするばかりだ。バージルが問い詰めようとした時、車外から 馭者の声が届いた。

「旦那様、間もなく到着致します」

言葉通り、馬車はすぐに停止した。
バージルは俯いてしまったダンテの顎をひょいと持ち上げ、

「行こう」

その痩身を軽々抱き上げた。



















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