愛装――――後
屋敷の中庭に連れ出されたバージルは、先日よりも冷えた目でイサベラを見据えた。いや、
目を合わせることもほとんどせず、イサベラの気に入りだという花壇を睨んだ。
バージルが目下気になることは、引き離されたダンテのこと以外にはない。
あの付き人は、ダンテに妙なことはしないだろうか。人見知りの激しいダンテは、果たして
大丈夫だろうか。
表情にこそ出ないが、バージルは気が気ではなかった。
剣呑な空気を滲ませるバージルに、イサベラはやはり盲目的に話し掛けた。
「伯爵様、綺麗なお庭でしょう? 私が毎日水をやっているんです」
他の手入れは使用人任せでか。
バージルは口には出さず、痛烈に皮肉った。水をやるだけのこと、誰にでも出来る。手の
掛かる世話は一切しないだろうに、あたかも自分が育てたかのように言うのは愚かしい
ばかりだ。
土に触ったこともないだろう手が、バージルの腕に絡んだ。細い指、すぐにも破れてしまい
そうな柔い膚。バージルを見上げる灰色の瞳はしっとりと濡れ、唇はぽってりとして紅い。
まだ少女の雰囲気が残る面立ちだが、女としての魅力をはっきりと意識していることが、
色恋に疎いバージルにもよく判った。
普通の男なら、イサベラの魅力に少なからず靡くのだろう。虜にされ、夢中になる男も
いるかもしれない。が、バージルは違う。
「それで、私に話とは何でしょうか」
ほっそりとした手をやんわりと外させ、バージルは訊いた。一切の馴れ合いを拒絶した、
冷たい声で。
イサベラはさすがに傷付いたように目を瞠ったが、バージルにはどうでも良いことだ。
――――相手が皇族に繋がる者の娘だということは、家の為にも忘れてはならぬのだ
けれども。
今のバージルには、早くダンテを手許に連れ戻すことしか頭にない。
イサベラにもそれが伝わったのか、
「あの坊やは、伯爵様とはどんなご関係なのですか?」
そんなことを訊いてきた。
バージルは即答する。
「関係などありません」
と。しかし続いて紡がれた言葉に、イサベラの顔が強張った。
「しかし、何よりも大事なものです」
他に、ダンテについて語る言葉を、バージルは持たなかった。大事だという言葉にも、まだ
足りぬものを感じたが、たんに愛していると一言で言うには、バージルはダンテに異常な程
入れ込みすぎている。
「……あれ、あの子は、尊い身分の……?」
明らかに動揺したイサベラの問いに、バージルは嫌悪を抱いた。初めからイサベラなど
興味もなかったが、今決定的なものになった。
「貴女には関係のないことです。――――失礼致します。あれを連れて、早々にお暇させて
頂く」
ぴしゃりと言い放ち、バージルはイサベラに背を向けた。
「待って……お待ちになって下さい、伯爵様……!」
追い縋る声も、バージルには不快なものでしかない。振り向きもせず、言葉など一切掛けず、
バージルは中庭を後にした。こんなことならば、立場を考えてイサベラに付き合うことは
なかった。ダンテを連れ、すぐにも夜会を辞するべきだった。
そうすれば、ダンテにあんな顔をさせずに済んだではないか。
後悔しても、もう遅い。
バージルは足早に廊下を抜け、人に溢れるホールに戻った。さっと首を巡らせるが、ダンテの
姿はない。ダンテを預かると言った、あの付き人も。
どこに行った?
バージルは苛々としながら、トレイを手に動き回る使用人の一人を捕まえ、問い質した。
イサベラの付き人と、十になるかならぬかの子供はどこへ行ったのか、と。年配の使用人は
どうやら使用人頭だったらしく、幸いホール内のことをほとんど把握していた。
「それでしたら、貴方様がホールをお出になられてすぐ、別室に行ったようでしたが」
「それはどこか判るか?」
「さて……、しかしあの方向でしたら、もしくはテラスに出たかも知れません。お役に立てず、
申し訳ありません」
深々と頭を下げた使用人頭に、バージルは礼を言ってホールを出た。
先刻もそうだったが、ホールを出てしまえば、そこは別世界のように静まり返っている。
使用人らもほとんどが夜会に掛かりっきりになっているのだろう。人気のない屋敷は一種気味の
悪いものがある。
静寂を好むバージルは、しかし落ち着かぬものを感じていた。不安と焦燥。そして寂漠。
何故そんなものを感じるのか、バージルは判らない。ただ、早くダンテを見付けることが
先決だと、自分に言い聞かせてそれらの感情を押し込めた。
バージルは一先ず、使用人頭が言っていたテラスに向かった。この屋敷には一度、やはり
夜会に招かれ訪れたことがある。その際に、何故か屋敷を一回り案内されていた。細かい構造は
あやふやにしか覚えていないが、だいたいの位置は判る。
この屋敷のテラスは、意外にもさほどの広さはない。近付くにつれ、誰かの声が耳に入った。
何を話しているかは判らないが、記憶に間違いがなければ、これはあの付き人のものだ。
(……ここか)
バージルは擦り硝子の嵌まった戸を押し開けた。そして、目を見開いて立ち尽くした。
「……おや、お早かったですね、伯爵様」
平然として顔を上げた男は、テラスに置かれた長椅子に膝を乗り上げるようして、座るでも
なく中途半端な姿勢でこちらを見た。その下、長椅子に仰向けに横たわるのは、間違いようも
なくダンテだ。
ダンテは眠いのか、虚ろな碧眼にぼんやりとバージルを映した。
「……ばぁじる……?」
重そうな瞼を懸命に持ち上げ、ダンテは躰を起こしてこちらに来ようと手足をまごまごと
動かした。きちんと着付けた貴族服の上着はなく、白い開襟シャツの釦は腹の辺りまで外れ、
タイはかろうじて襟の折り返しに挟まっている。帽子だけは、
しっかりと押さえていたのか、脱げてはいない。しかし、これは。
「どういうことか、説明して貰おうか」
剣呑な声と射るような目に、しかし使用人は怖じたふうもなく肩を竦めた。
「私は何も。ただこの坊ちゃんが、私にしがみついて離して下さらなかったのですよ」
嫌な笑みを浮かべて言う男に、バージルはこめかみに青筋を浮かべて低く言った。
「茶番はいい。それから離れろ」
男が笑って上体を起こそうとした時、長椅子から降りようとしていたダンテの躰がぐらりと
傾いた。
「っ!」
咄嗟に駆け寄ったバージルより早く、当然といえば当然だが、男がダンテの脇をすくうように
して引き上げた。落ちても痛みは多少のものだっただろうが、バージルはほっと息を吐いた。
次いで、ダンテから離れていた自分を激しく嫌悪する。
何が、離れろ、だ。さっさと自らの手でダンテを取り戻しておけば、ダンテが長椅子から
落ちかけることになどならなかったではないか。
……こんないけ好かない男に、ダンテに触れさせるなど。
ダンテはびくりと躰を震わせ、男の腕から逃れようと手足をばたつかせる。バージルは男を
睨み付け、ダンテを引き剥がすようにして抱き上げた。ぎゅうっと首に縋りついて来るダンテを、
強く抱き締めてやる。
「済まなかった」
すぐに帰ろう。ダンテの耳元に囁き、バージルは面白そうにこちらを見つめている男を
一瞥した。
「ランズフォード卿には申し訳ないと伝えおけ。我らは早々に退席させて頂く、とな」
「承知致しました、伯爵様。そのようにお伝え申し上げます」
慇懃な辞儀を施し、男はにぃと笑った。どこまでも不快な男だ。バージルは嫌悪をあらわに
顔をしかめ、踵を返した。と、
「過ぎたる愛は、いずれ貴方様を喰らい潰してしまいますよ」
男が、言った。
「……何……?」
「真実は貴方様の腕の中に。……知る覚悟が、果たしてございますかどうか」
何が言いたいのか。何を知っているのか。
不審に眉根を寄せたバージルの腕の中で、ダンテの躰が強張った。見れば、目を見開き、
猫が犬を威嚇するように全身を緊張させている。
ここにいてはいけない。バージルは直感的に思い、大股に廊下を歩き出した。男が追って来る
気配はない。しかしダンテはまだ緊張を解かず、小さな手はバージルの服をきつく握り締めて
いる。
バージルはダンテを横抱きにするように片腕に乗せ、空いた片手でダンテの目を覆って
やった。
「大丈夫だ。怖がることはない」
「……ばぁ、じ、る……」
消え入りそうなか細い声を、バージルはしかし聞き逃しはしなかった。
「ば……じる……ひとりに、しないで……」
寒い、とダンテは言う。
「やだ……や……さむいよぅ……」
かたかたと震えるダンテを抱えて、バージルは馬車に乗った。馭者はあまりに早い帰りに少し
驚いていたようだったが、命令に逆らうような真似もしなければ、何故と問うような無粋な
こともしない。
揺れる馬車の中、バージルはひたすらダンテを宥めた。
「ダンテ、大丈夫だ。私が側にいる。もう二度と独りにはしない」
「ほんと、に……?」
「あぁ。もう二度と、お前の側を離れぬと誓う」
ダンテを抱き締める腕に力がこもる。
「ばぁじる……もう、冷たいところにいなくていいの……?」
先刻から、ダンテの口から漏れる言葉をバージルは理解出来ずにいる。“寒い”、そして
“冷たい”――――それらは何を指して言っているのか。
しかしバージルはダンテの髪を撫で梳き、あぁ、と言ってやる。
「私と共にあれば、そんな思いをすることはない」
暖かな屋敷で、何不自由なく暮らしていれば、ダンテの不安などすぐにも杞憂にすぎないと
判るだろう。
「大丈夫だ。お前は私が守る」
「……ばぁじる、……」
求められた気がして、バージルはダンテの唇に口付けた。触れるだけのそれに、何故か
物足りぬものを感じたが、気のせいだと自己完結する。
ダンテには自分が必要なのだ。それは保護者的な庇護欲であり、それ以上でも以下でもない。
ただ、自分でなければならないのだ。
側にいてやらねば。
少しでも離れれば、ダンテはすぐに不安に押し潰されてしまう。
片時も離れないように。そう、求められているのだ。
……果たして、それはまことか。
ふ、と浮かんだ自問を、バージルは頭を振ることで消し、ダンテの銀糸を梳いた。屋敷に
戻っても、ずっと。
心地好い手触りは、何故だか何かを思い出させようとしたが、それが何なのか、バージルには
判らなかった。
電車の中で書きながら、なんでこんな展開なのか、と悩みました。
面白みが感じられないというか、惰性で書いた感か激しいです;