愛装――――前
「お前は屋敷に残れ」
バージルは行くと言って聞かないダンテに、何度も言い聞かせた。しかしダンテは首を縦には
せず、
「やだ、ばぁじると一緒に行く」
駄々をこねてバージルを困らせてくれた。
ダンテを拾って、十日が経った。
屋敷の召使らもダンテに慣れ、中には気に入って度々甘い物をやっているものもいる。
しかし、当のダンテは相変わらずバージルにしか馴れなかった。常にバージルの傍らにい、
小さな手でバージルの服の裾を握り締めるのだ。そしてバージルが手を握ってやると、
嬉しそうに破顔する。その瞬間が、バージルは不思議な程に気に入っていた。
恙なく、これといった変化もなく、日々は過ぎた。
強いて変化と言えば、ダンテが少しずつ語彙を増やして来ている、ということだろう。
初めは片言のようにしか話せなかったが、今はもっとたくさんの言葉を使う。尤も、それを
聞くのはバージル一人に限られるのだが。
ダンテを拾って十日目のこの日、バージルはまたしても夜会に招かれていた。主催は
ランズフォード家。断りを入れるのは、かなり難しいものがある。
「ダンテ、」
バージルは諭すように名を呼び、ダンテの頭を撫でた。
「頼むから言うことを聞いてくれ」
優しく言うが、ダンテは頑として首を縦にはしない。バージルは肩を竦めた。このやり取りを
するのは、実を言えば二度目だった。
丁度三日前、バージルは小用があって市街の教会に行かねばならなかった。バージルの屋敷は
郊外にあり、その教会には行って帰るだけでも三時間は掛かる。小用とはいえ、一日仕事に
なりそうでは、確かにあった。
ダンテは勿論置いて行くつもりをしていた。しかしその旨を伝えるより先に、ダンテは何をか
感じ取ったらしく、バージルに縋った。
――――一緒に行く。
と。
当然バージルは赦さなかった。教会には遊びに行くのではない、子供は連れては行けぬ、と。
しかしダンテは、それまでバージルに逆らったことなどないと言うのに、その時初めて「嫌だ」
とはっきり言ったのだ。
ダンテが言うことを聞かぬのは、これで二度目になる。
バージルはその時何故と問うたが、ダンテはただ「側にいて」と繰り返すばかり。要領を
得ない答えに、しかしバージルはあることを薄く悟った。
ダンテは自分と引き離されることを酷く嫌がる。いや、これは最早嫌がるというレベルの
ものではない。言うなれば、“恐れ”。
離れた瞬間に総てが消えてしまうと思っているのか、ダンテは確かに、屋敷にあっても
バージルの側を片時も離れようとはしない。
「やだ、やだよぅ、ばぁじる……」
今にも泣き出しそうに瞳に涙を溜め、こちらを見上げるダンテは酷く哀れみを誘う。
バージルは呆れとも諦めともつかない溜息を漏らし、ダンテを抱き上げた。
「……仕様のない奴だ」
これで、三日前は予定を取り消さざるを得なくなった。が、今日ばかりはそうは行かない。
教会には、日を改めて訪れるというように取り付けられたが、皇族家の支流にあたる
ランズフォード家の招きを蹴れば、伯爵家ごときは軽く潰されてもおかしくはない。
皇族に繋がるものは多くいるが、中でも力を有しているのがランズフォード家なのだ。
バージルは首に縋り付いたダンテの痩身を抱き締め、さらさらの銀糸に顔を埋めた。
「くれぐれも、これを見られぬようにな」
言って、角と尾をちょっと触った。
ダンテはバージルの肩口頬をすり寄せ、ぴすぴすと鼻をひくつかせた。
「ん……だいじょぶ」
襟首に冷たい感触がある。ダンテの瞳に溜め込まれた涙が、ほっとして溢れたのだろう。
置いて行かれることを、僅かな時間引き離されることすら恐れる少年を、愛しく思わぬ人間が
いるだろうか。
バージルはダンテを押し包むように強く抱き締めた。あまりに力を込めすぎたか、腕の中で
ダンテが小さく苦しげな溜息を零した。
「済まない、」
珍しく慌てて腕を緩めようとすると、ダンテが何故かそれを止めた。
「ばぁじる、やめちゃやだ」
ぎゅうっと抱き付いて来るダンテに、バージルは瞬きした。
「はなしちゃやだ……」
蚊の鳴くような小さな小さな声。バージルはふっと微苦笑を浮かべた。
「離すものか」
「……ほんと?」
「あぁ。どこにも行かん。お前も、どこにも行くな」
本音を露呈するならば、どこにも行かせない、と言うのだが。
ダンテの背をぽんぽんと優しく叩いてやると、ダンテはバージルの匂いを確かめるように、
また鼻をひくひくさせた。
「私の匂いなど、良いものではないだろう」
くすりと笑う。と、ダンテがバージルの首筋に顔を擦り付けるようにして、
首を左右に振った。
「ばぁじるの匂い、すきだよ」
おべっかなどではない。ダンテは虚言を知らぬ無垢な子供だ。バージルはむず痒いような
気持ちがしたが、しかしダンテに言われるならば悪い気はしない。
ダンテがするのを真似て、バージルもダンテの首筋に鼻先を寄せた。柔らかく滑らかな肌が
鼻の頭をかすめる。
「ばぁじる?」
「……不思議と、落ち着くものだな」
ぽつりと呟いた。人の匂いなど嗅ごうと思ったこともないが、意外に悪くないものだ。
相手がダンテだから、というのが、最大の理由かもしれない。
腕にすっぽりと収まってしまう程、小柄で痩せた子供。ともすれば壊してしまいそうな、
硝子細工のような脆さが危うげで、しかしだからこそ大事にしたいと思わせる。
そうだ。これを手放すなど、間違っても出来よう筈がない。
「ダンテ、夜会には連れて行ってやるが、私から離れないことが条件だ。守れるな?」
こんなものは、ただの愚問だ。しかしバージルはダンテの口から言わせたかった。
「うん、ばぁじるの側にいる。ずっと一緒にいる」
ダンテは心底嬉しそうに破顔し、弾んだ声音で言った。バージルに赦しを貰ったことが、
それ程嬉しいのだ。
ごく当たり前に口にしたのだろう言葉に、バージルがどこか昏い笑みをはいたことなど、
ダンテは気付かない。
「では、早く準備をしなくてはな」
バージルはダンテを抱き上げたまま、テーブルに乗ったベルを鳴らした。
ランズフォード家は、バージルの屋敷から南西に約五マイル程行った、高台の上にある。陽が
沈む頃に屋敷を出、馬車を走らせて到着する頃には、既に夜の帳が落ちていた。
バージルは馬車があまり好きではない。ゆったりとした揺れは悪くはないが、何とも言えぬ
閉塞感が好きにはなれぬのだ。
遠出をするなら、騎馬に限る。こんな夜会でもなければ、ダンテ一人抱えて馬を駈けさせる
程度のこと、わけはないのだが。
ダンテはしかし、初めて乗ったのか、酷く楽しそうに馬車に揺られていた。それが、
詰まらない箱の中の濁った空気を、和ませてくれたと言って良い。
「疲れたか?」
挨拶回りが一段落して、バージルは足許を見下ろした。紳士姿に黒の帽子を被った小さな
ダンテが、バージルの袖の端を片手で摘み、ぼんやりとしている。
「……ひとがいっぱい」
やはり疲れたのだろう。ダンテの声音は少し鈍い。
見慣れぬ子供を連れたバージルは、どこにいてもよく目立った。バージルが独身であることも
理由の一つだが、もう一つは、その子供がどうもバージルと他人には見えないという
ことがある。
歳は全く違うし、雰囲気も違うが、似過ぎているのだ。バージルと彼の連れた子供が。
しかしバージルは他人の目や言葉などを気にする人間ではない。挨拶回りをしている間も、
子供のことにはほとんど触れもしなかった。
相手方に問われれば、養子のようなものだ、と適当にはぐらかした。バージル自身にも、
説明の仕様がないのだから、それも仕方のないことなのだが。
「……ばぁじる、」
「どうした?」
ダンテはバージルを見上げ、しかし躊躇うように口を噤み、俯いてしまう。
バージルは目を細めた。
「今日は早めに帰ろう。私も疲れてしまった」
言って、ダンテの頭を撫でた。ふかふかとした毛の帽子が、掌に柔らかく馴染む。しかし
バージルはダンテの髪の方が、こんなものよりも断然心地好いことを知っている。掌に
しっとりと馴染むことも、よく知っている。
しかしここでは、この帽子は取ることが出来ない。ダンテが人の子ではないと知れれば、
どんな目に合わされるか判らぬのだ。
「……詰まらぬことだ」
呟いた時、くい、とダンテがバージルの袖を引いた。
「何だ?」
ダンテはじっと人に溢れるホールを見つめ、言った。
「わるいものが来る。こっちに来るよ、ばぁじる……」
ぎゅっと、バージルの袖を握る手に力がこもるのが、見て取れた。バージルはダンテの
白くなる程に握り締められた手を、包み込むように握ってやる。
しかし、ダンテの恐怖――――と呼べば良いかは判らぬが――――を拭ってやることは
出来なかった。ダンテの手は、小さく震えている。
「……来た」
幼いダンテの視線の先には、見覚えのある女性。
「今晩は、伯爵様。またお逢い出来て嬉しいですわ」
花が咲き綻ぶような微笑と、柔らかな声。まだ少女の面影を残したその婦人を、バージルは
確かに知っている。
イサベラ・ランズフォード。この屋敷で、誰しもに愛され敬われて育った麗しき令嬢。
今宵は、先日には見なかった付き人らしい男を従えている。
「…………」
握った手は、まだ震えが止まない。
これが、悪いもの――――?
バージルは内心で訝った。が、ダンテを疑うわけでは決してない。ダンテかイサベラかと
問われれば、バージルは間違いなくダンテを信じると答える。
疑っているのではない。純粋に疑問なのだ。
どう、悪いものなのか。ダンテに何を及ぼすのか。あるいは、自分に。
「あの夜は、どうも」
バージルはおざなりに礼を施した。普通なら、婦人は気分を害して憤慨する。バージルは
万事に愛想がなく、しかし女性のほとんどは、バージルにすげなくされたとて気分を悪くする
ものはいない。
イサベラもその種の女性らしい。相変わらず大きな瞳をきらきらとさせ、バージルに盲目的な
憧れを注いでいる。
今夜のパーティーに呼ばれた理由は、この婦人にあるようだ。バージルはそう思い当たり、
心底迷惑だと思った。招待などされていなければ、こうしてダンテを衆目に晒すこともなく、
怯えさせることもなかったというのに。
「ばぁじる……」
自分を呼ばわる、か細い声。上目遣いに見上げて来る、大きな碧眼。バージルはダンテの心を
察し、頷いて見せた。
帰ろう。言いさしたバージルを、イサベラが読んだかのように遮った。
「伯爵様? よろしければ二人きりでお話したいのですけれど……」
恥じらうように言う姿は可憐で、可愛らしい。が、バージルの心を引き付けるものは、
彼女にはなかった。
「いや……」
断ろうとしたバージルを、今度はイサベラの後ろに控えていた男が制止する。
「伯爵閣下、そのお坊ちゃんは私が見ておりますので、どうぞ」
バージルは内心で舌打ちした。断れば、ランズフォードが黙ってはいない。
慇懃な態度の裏に無言の脅しを読み取って、バージルの不快感はいや増した。
しかも、ダンテを預かる、と言う。
「…………」
仕方がない。
バージルの意思を感じたのか、ダンテが酷く傷付いたように目を瞠った。
「……やだ、」
「済まない、少しだけ辛抱していてくれ」
「……ばぁじる……」
泣きそうなダンテを抱き締めてやろうとして、しかしそれは出来なかった。イサベラの
付き人が、ダンテの肩をやんわりと引いたのだ。
「さぁ、坊ちゃん、あちらで甘いお菓子でも食べながら、ゆっくり待ちましょうか」
「伯爵様はこちらへどうぞ。庭の花がとても綺麗に咲いたんです」
バージルはイサベラに、ダンテは男に手を引かれ、真逆の方向へと導かれる。
肩越しに見やったダンテの、捨てられた子犬のような瞳が、バージルの瞼に焼き付いた。
子ダンテのモデルは厄除けのお守りです。ので、「わるいもの」を察知して貰いました。
バージルが何だかぱっとしません。それがどうも気持ち悪いような不満のような…。