愛招アイショウ









名はないのだと、その少年は言った。少年の言葉を借りるならば、

「僕はあくまだから、」

ということらしい。

しかし名前がないというのは、いざと言う時に不便に過ぎる、とバージルは溜息混じりに 言った。少年は名前の必要性そのものが判らないらしく、ことりと首を傾げてバージルを 見つめていた。
仕方なく、バージルは少年に名前をやった。ただぼんやりと思い浮かんだにすぎない、 深い意味があるわけでもない名だったが、それでもないよりは幾分も良いだろう。

バージルは少年を膝に抱き上げ、ひとつの言葉を与えた。

「――――ダンテ」

子供は一瞬だけきょとんとしたが、次の瞬間にはぱっと破顔した。幼く可愛らしいその 笑顔に、バージルは心が安らぐのを感じた。






バージルは子供にダンテと名付けた。

名は鎖。
名は枷。

名付けた者に、縛られる。






ダンテを拾った翌朝、バージルは彼を召使らに引き合わせた。これからこの屋敷に置くことに なり、ひいては召使らに隠しておける状況ではなくなるからだ。飯の準備やその他の雑多な 世話を、執事に総てやらせるには無理がある。そう判断してのことだった。

従順な召使らは、ダンテに好奇を抱いたようではあったが、どこの子供だ、などといった 不躾で遠慮のない質問をしてくることはなかった。尤も、バージルがダンテの角と尾が 隠れるよう計らっていなければ、どうだったか判らないが。
バージルは召使に、ダンテの名を教えることはあえてしなかった。知っているのは自分と 執事のみ。実際に名を呼ぶのはバージルだけだ。

必要最低限、子供の存在だけを知っていれば良い。
バージルは無駄を嫌うということは別段ないが、煩わしいことは好きではない。 だからだ、とバージルは自分の中で完結させた。



部屋に戻ると、バージルはすぐにダンテに被らせていた帽子を取らせた。前髪以外を すっぽりと覆うそれは、執事がどこからともなく用意したものである。
今朝方、子供の服など持ち合わせてはいない、とぼやいたところ、執事は「お任せを」と にっこり笑った。そうして次に現れた執事の手には、さも大事そうに子供用の小さな衣装と靴、 それから毛で編んだ帽子が抱えられていた。

執事は年輩ではあるが妻はなく、子供は勿論いない。この服は一体どこにあったのか、 奇妙な程にダンテの躰に合った。

まぁ、それは大した問題ではないが。

バージルはふっと息を吐いた。それを見ていたダンテが、ぱちりと目を瞬かせる。

「ばぁじる、どうしたの?」

問う声は高く、優しい。
バージルは口の端に笑みを乗せ、ダンテの頭を撫でた。

「いや、何もないが、何故だ?」

掌に小さいが硬い角が当たったが、バージルは気にしなかった。ダンテの頭に生えている それは、ともすれば髪に隠れてしまう程、本当に小さなものなのだ。
ダンテはバージルの手を払ってしまわない程度に首を左右にした。理由はない、と言いたい のだろうか。

昨晩、ダンテと言葉を交わして判ったことなのだが、ダンテが持つ語彙は酷く乏しい。 代わりに、とでも言おうか、硝子玉を嵌め込んだような大きな瞳が、言葉よりも雄弁にものを 語る。

「お前には、もう少し言葉を教えてやらねばな」

バージルには、不思議な程ダンテの言わんとすることが判る。が、他の者はどうか。
言葉にされねば動かない人間の多いこの屋敷にいる限り、ダンテにはもっと言葉を覚えさせる 必要があるのだ。
自分だけがダンテに接するのなら、何ら問題はないのだが。

バージルが椅子に腰掛けると、ダンテは少しでも離れていたくないとでもいうように側に 寄って来た。足許に座り、バージルの膝に小さな手を乗せてじぃっとこちらを見上げる。

吸い込まれるような、透き通った双眸。
ぱちぱちと瞬きをする、ただそれだけのことが酷く愛らしく感じた。

「ばぁじる、」

自分を呼ぶ声は、無垢。

愛してくれるか、と問うたダンテに、バージルは迷いなく是と答えた。それが何故だったかは 自身にも判らないが、間違ったなどとは露程も思わない。

請われずとも、愛してやりたいと思わせるものが、ダンテにはある。だからだろう。 執事のダンテを見る瞳は、いつにも増して慈愛に満ちている。

物思いに耽るのは口数の少ないバージルの癖だ。黙りこくったバージルに不安を抱いたか、 ダンテがバージルの膝に乗せた手を、きゅっと丸めた。

「……ばぁじる、」

バージルはダンテを見下ろし、笑んだ。

「ダンテ、おいで」

腕を伸ばして見せると、ダンテは迷わずバージルへと両腕を差し延べた。バージルはダンテの 脇に手を差し込み、幼く小さな躰を軽々と抱き上げる。ダンテは嬉しそうに笑顔を咲かせ、 バージルの首に抱き付いた。こちらが触れることを許してやれば、ダンテは嬉々として バージルに甘える。
これは刷り込みのようなものらしく、何やかやと世話を焼いてくれる執事に対しても、 ダンテはバージルにするように甘えることはない。

ダンテには、言葉通りバージルしかいないのだ。

愛して欲しいとねだるのも、触れられて喜ぶのも、笑顔を見せるのも、総てバージルに対して のみのことだ。まだ子供を拾って一両日にも満たないが、充分と思える程にダンテのことを理解 出来ている自分がいる。
それは奇妙なことだ。しかし奇妙とも思わぬ程に、バージルはダンテを深く愛していた。

そう、それは、確信に似た自覚。

「ダンテ、」

呼び掛ける声は、おそらくバージルを知る誰もが聞いたことのない、優しいもので。 バージルの頬に浮かぶ笑みは、ダンテだけの為にある。

「なぁに?」

「お前は……、いや、……腹は減っていないか?」

口に出し掛けた言葉を飲み込み、バージルは当たり障りのないものにすげ替えた。 バージルの肩口から顔を上げたダンテが、ちょっと首を傾げる。

「はら?」

「お腹のことだ」

自分とダンテの間に手を差し込み、ダンテの胃の辺りを押さえてやる。と、ダンテは 納得したらしく、こっくりと頷いた。

「はら、おなか。おなかすいた」

言うなり、くぅ、と微かに腹の虫が鳴いた。子供は一度に食べる量こそ少ないが、燃費が 良く消化も早いので、すぐに腹が減るものらしい。
バージルはダンテの後頭部を撫でてやり、つられてごろごろと喉を鳴らすように躰を すり寄せるダンテを抱き締めた。

「すぐに何か用意させる。好きなものはあるか?」

バージル自身は基本的に、甘過ぎるものを除けば好き嫌いはない。幼い頃も、好きなものは、 と問われて「別に」と答えるような愛想も愛嬌もない子供だった。
しかし、ダンテは違うだろう。

少年は少し考えるように小首を傾げていたが、

「いちご」

ぽつり、と呟いた。

「苺が好きなのか?」

うん、と頷くダンテに、バージルはそうかとだけ応じた。そしてテーブルに鎮座する 硝子製のベルを取り上げ、りん、と鳴らす。
間を置かず、召使が慇懃に応じた。

「お呼びでございますか、旦那様」

ドアの外から声が掛かり、バージルはそのまま用向きを伝えた。

「厨房に苺があるかどうか探せ。あればここへ運ぶように」

苺、というバージルには似合わぬ言葉に、召使は一瞬耳を疑った様子だった。しかしすぐに、 バージルではなく、先刻紹介された子供が食べるのだと気付いたらしい。

「承知致しました。少々お待ち下さいませ」

ドアの向こうから召使の気配が消える。足音が全く聞こえないのは、敷かれた毛足の長い 絨毯が吸ってしまうからだ。

「あるかどうかは判らんが、もう少し待てるな?」

ダンテが頷くと、またダンテの腹がくぅと鳴いた。召使は限界まで急いでいるだろうが、 それ以上に急かしたい気持ちに駆られる。あまり腹を空かせると、ダンテが泣き出して しまいそうな気がしたからだ。
しかしそうするまでもなく、召使は間もなく戻って来た。心なしか息を弾ませ、お持ち しました、と告げる声。バージルはすぐに入室を許可した。

「ご苦労。……急だった割に、よくこれだけあったな」

脚の高いカップ状の硝子の器には、零れ落ちんばかりの苺が積み上げられている。 見た目よりも量を選んだ盛りようだ。
若い召使は「はいっ」と勢い良く頷き、にこにことして言った。

「ウェイズが大量に買い求めておいたようで、保冷庫にはまだまだございます」

ウェイズ、とは執事のことだ。召使及び執事は互いを敬称抜きで呼び合う為、屋敷の中での 序列はあれど、その部分では皆同等なのだ。

バージルはダンテに苺を食べさせつつ、眉を顰めた。

「あいつが……?」

子供用の服と言い、何故こうも何かにつけて落ちた所がないのか。不審を感じながらも、 根拠がないだけに疑問の域を出ない。
バージルは肩を竦めた。考えたところで、仕様のないことだ。

「そうか。――――下がって良いぞ」

深々と頭を下げ、召使は音もなく退室する。バージルは既にそちらを見てはおらず、 自分の膝上に座り、せかせかと苺を食べるダンテを見下ろした。

「急がずとも、誰も取りはせん」

器の苺は既に半分程に減っている。バージルはくすりと笑った。

「旨いか?」

「うま?」

「あぁ……美味しいか?」

「うんっ、おいし」

「美味しい、だろう?」

ダンテは苺を頬張り、おいしい、と繰り返した。多感な少年の嬉しそうな顔は、バージルの 冷めた心を溶していくようだった。
バージルは思わずダンテを後ろから抱き締めた。ダンテが驚いて、けれど嫌がることはなく バージルの腕に手を添える。
首をのけ反らせてこちらを仰ぐダンテの額に、バージルは無意識に口付けた。肌理の細かい、 子供らしい肌の感触。もっと触れていたい、と思わせる極上の絹のようなそれ。

「……ダンテ、」

睦事のように囁く。ダンテがぱちりと瞬きし、口を開いた。が、言葉が紡がれる先手を取り、 ノックの音がそれを遮った。
バージルは少し苛立ったが、ドアの外にいるのは執事のようだ。 仕方なく「入れ」と告げる。

「失礼致します。旦那様にお手紙が届いておりました」

穏やかな微笑を浮かべた執事は、バージルの側に静かに寄り、そっと手に持っていた手紙を 差し出した。

「手紙……?」

薄いそれを受け取り、バージルは裏を見た。簡素な文字列を視線が一撫でし、バージルは 片眉を上げた。

「ばぁじる、それ何?」

ダンテが興味津津にバージルの手にした手紙を覗き込む。バージルはダンテの頭を撫で、

「詰まらぬ雑用だ」

吐き捨てるように言った。

ダンテの表情の見えぬバージルには、ダンテがはっとしたように目を瞠り、僅かに顔を 強張らせていることに、気付けよう筈がなかった。



















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戻。



やっとダンテの名前が出ました…って、お前が付けるのかよ、的なね…。
何だかバージルと子ダンテをいちゃこかせただけで終わってしまいましたが、
次はちょっとは話が進んでくれる筈…多分(駄目人間)