陰極
くたびれた感の強い、枯れかけた木々がぽつりぽつりと佇むばかりの荒野を、トニーとグルーは
四つの目で注意深く眺め回した。痩せ細った土地に相応しい糸のような月明かりだけでは、手を
伸ばした先すらも見通せない。が、夜目の利く狩人にはそんなか細い月明かりでも充分だ。と
言って、遥か彼方まで見えるかと言えばそうではなく、そこには当たり前だが人としての限界と
いうものがある。
「どの辺りだって?」
町をぐるりと囲む、強固とは世辞にも言いがたい石塀に、背中を押し当てる恰好でトニーが
訊いた。グルーは塀に添って立っているが、こちらは凭れてはいない。
「北東の小さい岩山がそうらしいが……ここからじゃ、ちょっと判らねぇな」
距離は半里ほどだそうだ、と。グルーの声を右耳で聞きながら北東の方角へ顔を向ける。目を
凝らし、じっと凝視すること数寸――岩山かどうかは判らないが、何かの小高い影を視認した。
あれだろうかとグルーに言うが、男の目にはどうも見えぬらしく少し驚かれる。
「相変わらず、よく利く眼だな」
あんたよりずっと若いからなと茶化して、トニーは塀から背を浮かせた。はいはい俺は年寄り
ですよと軽口を叩きながら、グルーは先行するトニーより一歩遅れるかたちで歩き出す。その
一歩の差は、目的の岩山に辿り着くまで詰められることはない。前方はトニーが、後方はグルーが
守るという、基礎的なかたちである。
町が奇妙な物体に襲われるようになったのは、この一年ほどのことだという。ある地域から逃げる
ように移住した町の開祖らは、何もない荒野を自分たちの手のみで開墾した。ただでさえ水のない
土地である。形ばかりの畑から採れる収穫物は少なく、そのため町はどこを眺めても貧しい。
それでも人は逞しく生き、今現在も町は細々ながら存続している。
そんな哀れを催す町の、僅かな実りを件の何かは容赦なく蹂躙していくという。それは荒野の
どこかにいつの間にやら棲みつき、痩せた野で餌を探すよりも手っ取り早い手段を発見したのだ。
それが、人里を襲うというものである。
人々は町を守るため、それを殺戮すべく立ち上がった。若い男を中心に結成された一団は、武器の
代わりに農具を握り締め、いざとばかりにそれに挑んだ。が、結果は凄惨たるものだった。
二人の若者を残し、残る十五名すべてがそれにより殺された。命からがら死を免れた二人は、
その悲惨極まる光景を毎夜夢に見るという。無論悪夢だ。その日からこちら、彼らが心安らかで
あったことはない。
町の人々は震え上がり、せめてもの抵抗として町の周囲に石を積み上げ壁を造った。貧しくも
のどかな町には不似合いの武骨な塀は、そうした経緯から形成されるに到ったのだ。
トニーがグルーとともに狩ろうとしているのは、当然ながらその“何か”である。生き残った
二人の証言によれば、それは巨大な蛇のような姿をして、普段は地中に潜んでいるのだそうだ。
町の長が石塀を構築する傍ら、蛇らしきものになけなしの賞金をかけたのである。それが
半年前だったが、賞金額の低さに今まで手を付けた狩人はほとんどおらず、いても経験の浅い
新人ばかりだった。そしてその連中は、死ぬか大怪我を負うかして途中放棄している。つまり件の
蛇はいまだこの町のはずれに身を潜めたままだということだ。
近付いて見れば、岩山、というよりも米粒に似た形をした巨大な岩が地面に縦に突き刺さっている
ような印象を受ける。が、それはどうでも良いことだ。
トニーは岩に掌で触れた。ごつごつとした感触。自然のものに違いなく、不審には感じられない。
岩を挟んだ反対側に回ったグルーは、トニーのように岩を調べるのではなく、しゃがみ込んで
その根元の土を調べている。蛇が土中に潜む習性を持っているならば、確かに岩を調べても何も
発見出来ぬだろう。
と言って、トニーも岩の根元を調べるかといえばそうはしない。そこはすでにグルーが調べて
おり、二人で同じ箇所を探ることは無意味だとトニーは思っている。
トニーが取り付いたのは、岩から数歩離れた箇所にお情けのようにぽつぽつと生えた草だ。長さは
一寸にも満たぬ程度でしかない、くたびれた芝のようなそれ。ほんの気まぐれに降る少しの雨を
糧にしているのか、それにしてはこの部分だけというのが気にかかる。
トニーは顔を上げ、まだ岩の根元にいるらしいグルーへ首を巡らせた。
「グルー、」
呼び掛ければ、グルーは岩の向こうから回り込んで姿を見せた。辺りへきょろきょろと注意深く
眼を向けながらだ。
どうした。グルーが息だけでそう問うてくる。狩りの最中、大きな声は上げない。これまでの
会話にしても、端から見れば囁き合っているようにしか見えなかっただろう。
これ。トニーは地面を示し、どう思うか目で問うた。彼はその歳にしては優秀でありすぎるほどの
狩人で、自分自身に溢れんばかりの自信を抱いている。が、同時に己の未熟を認めるだけの余裕も
勇気も持ち合わせており、経験豊富なグルーの意見にはいつも素直に耳を傾ける。そうして得た
ものは多く、逆に損をしたことは一度もなかった。トニーがグルーに背を預ける理由はそこにも
ある。
トニーを未熟だからといってからかうことはあっても、蔑視することは皆無であるグルーは、
地面に膝をつき彼の示した貧相な下生えに注視した。おしゃべりなトニーも、仕事中はべつで
ある。いざ標的と対峙すれば、これはまたべつなのだが。
「ふん……?」
グルーが鼻を鳴らした。何か判ったかとトニーが尋ねるより先に、顔を上げたグルーが口端に
皮肉げな笑みを浮かべて行った。まず、場所はここで間違いないだろう、と。それだけでその
笑みかと、トニーは眉を顰めた。
「それだけかよ」
思わず非難めいた声になってしまったが、一度紡いだ言葉を取り消すことはできない。トニーは
開き直ってグルーをじとりと睨んだ。グルーは男くさいおもてに苦笑を浮かべている。
「まぁ焦りなさんな。ここは奴の縄張りで間違いない。村の連中はここで殺され――その時も
こうして草か、花でも生えたはずだ」
「それって、」
「草の根元が少しだけ赤い……この数日間に、誰かがここに来たんだろう」
そして、結果は訊くまでもない。トニーは開きかけた口を閉じた。何を考えているか、グルーには
判ったに違いない。頭をくしゃりと撫ぜられた。
「……出直すぞ。俺たちがここにいるってのに奴が襲って来ないのは、ここを離れてるか腹が
満たされてるかのどっちかだ」
トニーの髪をくしゃくしゃと掻いていた手が、ぽんと軽く頭を叩いた。優しいそれは、おそらく
トニーの気持ちを和らげるために。要らぬ気遣いだとはトニーは思わない。ただ、それに凭れて
しまいそうになる自身をこそ叱咤しなくてはならなかった。
グルーが立ち上がり、トニーへと手を差し出す。大きなその手は、幼い頃に見たそれと変わらずに
分厚く、あたたかくて。
「一人で立てる」
振り払うことの、何と難しいことか。
暗い森を、誰かに手を引かれて歩く。どこまでも、どこまでも森は続く。不安になって背後を
振り向こうにも、先導する男の足が速くて追いかけるだけで精一杯だ。
男の手は、ひいやりと冷たい。彼は身震いした。どこへ行くのか、あんたは誰なのか、広い背中に
投げかけた。男はぴたりと足を止め、肩越しに彼を見やり、言う。いつもと同じ言葉を。
――お前は知っているはずだ。
「知らぬはずはない。そうだろう、――?」
いつもと似た、しかしまったく違うせりふに彼は目を見開いた。驚愕している。なぜか? 母しか
知らぬはずの名を、男が当たり前のように口にしたからだ。
何を驚いているのかと、男が薄い笑みを浮かべて言った。顔立ちはまるで見えないというのに、
その笑みだけははっきりと判る。およそ有り得ぬことだが、それ以上に驚きが勝っていた。
母しか知らぬはずの隠された名。それを、母以外の者が紡いだことが一度だけ、ある。
あれは、そう、あの日、森で。
また、あの夢を見ていたようだ。ぱちっと瞼を開けたトニーは、狭い寝台の上でもぞりと
居心地悪く尻の位置を変えた。胸がやけに早く打っている。鎮まれと何度も念じ、呼吸を整える
ことに努力を注ぐ。
グルーは、すぐ隣りの寝台で躰をあちらに向けて眠っている。窓からは陽光が差し込み、どうにも
眩しい。布を引いているというのに、意味がない。
目を眇めているうちに、胸も呼吸もどうにか落ち着きを取り戻しつつある。今日はやけに時間が
要ったと思いながら、夢の内容を思い出そうとしたが、やめた。どうせろくなことにはならないと
判っている。代わりに、じっとグルーの背中を見つめることにした。
男の背中は昔と変わらず広い。いかにも頼りになる男のそれといったふうで、幼い頃のトニーは
盲目的に憧れを抱いたものだった。それは今でもさほどの変化もなくトニーの内部にあって、
以前と違う点といえば、時折ちょっとした羞恥とともに顔を見せるということだろうか。瞳を
きらきらと輝かせて男を見上げる、そんなことをする歳ではもはやない。
目を瞑った。瞼の裏で、男の背中の残像を見る。我ながらどうかしていると思うが、グルーと
ともにいるとき、トニーはやけに心落ち着いて呼吸ができる。独りのときは何か判らぬものに
急かされているようで、その分だけ呼吸も落ち着かないものになることが多い。そちらが普通で
あるのか、それともこちらこそが普通であるのか、トニーには判断することはできないけれども、
どちらが良いかと問われれば、それはやはり。
「……グルー、」
おじちゃん、と。トニーが幼い頃には男も若かっただろうに、随分と失敬な呼ばわり方をしていた。
あの時分は実際、グルーくらいのおとなは皆“おじちゃん”に見えていたものだが。
ふっと苦笑を浮かべていると、
「眠れねぇのか?」
少しかすれた低い声音が耳朶を撫ぜて、トニーは不覚にもぎくりとした。
「お、きてたのかよ?」
不自然にどもってしまって、恥ずかしさに躰をもぞりと揺らした。瞼を開ける。グルーの背中が
視界に映った。こちらを向いていたらどうしようかと思ったが、少しほっとする。
「眩しくてな」
とグルーは言うけれど、本当だろうかとトニーは眉根を寄せた。陽のあるうちに仮眠を摂ること
には、男は彼以上に慣れている。多少眩しいからといって目が覚めるだろうか。トニーが起きて
いることに気付いて、という理由のほうがよほど頷ける。狩人は気配に敏感だ。ましてグルーほど
の熟練した狩人ならば。
しかしトニーは追求することなく、グルーの背中に向けて「確かに眩しいよな」と投げた。
「眠れねぇのか?」
男からの、二度目の問い。そうじゃねぇけど、とトニーは口を濁した。眠ろうと思えばすぐにも
睡魔は寄ってくる。これは慣れだ。しかし眠れば、また夢を見る可能性が高い。それを、トニーは
無意識に厭っていた。
グルーの背中は動かない。どんな表情を浮かべているのか。目は開いているのか。なぜだか無性に
気になった。
「眠りたくないなら、無理することはねぇさ」
好きにしろとでも言うような言葉に、トニーは「うん」と曖昧に返した。何か、落胆している
自分を見つけてしまって、内心だけでうろたえる。優しい言葉でも期待していたのか。この俺が。
グルーには気を許している自覚はあるけれども、それでも。
ぐるぐると考え込みそうになったトニーの耳に、またグルーの声が滑り込んでくる。
「俺も目が冴えちまったな……」
苦笑する、その声。トニーはグルーの背を凝視した。男の言葉、その意味を脳内で反芻する。
つまり、一緒に。
「酒でも呑むか……いや、夜に響かねぇ程度にだが」
言い訳のように付け加えるグルーに、トニーはくすくす笑った。
「あんたの持ってる酒じゃあ、ちょっと呑んだだけでも悪酔いしそうだぜ」
不味すぎて。そうこぼすと、グルーがあちらを向いたまま味なんざとぼやきだした。
「二の次だ。呑めれば何でも良いんだよ」
グルーは値の張る酒を買うということをしない。なぜと問うたことのあるトニーは、酒にしろ
食べものにしろ、旨いものを好む。かといって美食家というわけでもないく、どちらかといえば
という程度なのだが。
「それにしたって、あれはねぇだろ」
不味すぎる。繰り返したトニーに、グルーは放っておけと投げやりにぼやいた。トニーは
くすくす笑う。笑うなという声にかえって笑みが深まった。子ども扱いされることの多いからか、
こちらから男をからかってやるとひどく気分が良くなる。グルーはあくまで背中を向いたまま
だが、トニーが上機嫌であることは見なくとも判るに違いない。はぁ、とため息をもらすのが
聞こえた。が、それはけして不機嫌さを込めたものではない。
トニーが上機嫌であると、グルーもなぜか嬉しそうな顔をする。だから今も、そうなのだろうと
思う。
「トニー、」
「ん? なに?」
男の前では、トニーは背伸びをするときとそうでないときが入り交じる。今は、間違いなく
後者だ。もちろん自覚はないが。
「今夜は出ると良いな、例の」
数日がかりを覚悟して、宿に長期滞在するつもりではいるが、すぐに始末がつけられるならば
それに越したことはない。報酬が早くほしいから、という理由からではなく、一つのまちに長く
滞在することを狩人は皆好まない。彼らもその、例外ではなかった。
狩人への人々からの蔑視は、滞在が長期化すればするほどに強いものへとなるからだ。そんな中に
好んで留まりたいと思う者はいるまい。自虐に浸りたがる者か、もしくは相当に鈍い者でも
なければ。
「何なら、囮にでもなるか」
トニーのさらりと述べた提案を、早く片付けたいと思っているはずのグルーはにべもなく
却下して。囮役なら俺がすると言ったグルーを、トニーもすぐに駄目だと言って。
「じゃあどうするんだよ」
「蛇の出方次第だな……」
何とも無策なことか。お互いに呆れ、二人して笑った。
仕事の話を書こうとして挫折。次に期待…しないほうが良い。(え)
[08/09/30]