陰極インキョク









無茶、無謀、無策。命知らずに相応しいレッテルをいくつも貼られたその青年の、心内を知る ものは一人もいない。
彼と最も親しい男ですら、真に彼を理解しているとは言いがたかった。何故なら彼は、おどけた 調子で自身の内面を読ませぬよう努めるからだ。
早くに母親を亡くし、さらには父親もいない彼の心は、奥底で閉じたまま誰の侵入も許さないの だった。しかしそのことに気付くことの出来た人間は、先述の男より他にいない。

不意にくすっと笑った青年の、背後から訝るような声がかかる。

「なんだ、」

声にかぶさって、扉が閉まる音。宿の主との交渉は終わったらしいな、と青年は一人ごちて、 寝台の上で組んだ脚を入れ替えついでに背後を振り向いた。男がどかりと寝台に座り込む。

「どうだった?」

「まぁ、思ってたとおりだ。どこの宿も似たもんだが、ここの主人は抜きん出ていやがる」

それでも交渉は上手くいったのだろう。厳ついばかりの印象が強い男だが、話を自分の調子に 持って行くことに長けており、交渉や取り引きなどで相手に言い負かされたことがない。反対に、 青年はそういったことがまったく苦手であった。なので男と行動をともにしているときは、 こうした面倒ごとは男に任せてしまう。

「結局、いくらで?」

問えば、男はひょいと肩を竦めた。

「三割増」

「へぇ? 意外に安く上がったじゃねぇか」

脅したのか、と。一人で勝手に納得してふむふむと頷く青年へ、男は苦笑を浮かべた。
男が行なっていた交渉とは、この宿への長期滞在の件であった。どこの町の宿でもそうだが、 狩人の長期に渡る滞在に良い顔をする者はいない。狩人が寄宿する宿となれば最たるもので、 宿の主人との交渉はほぼ必ず付いて回る面倒ごとなのだ。交渉はたいてい、宿賃を何割か 上乗せすることで成立する。強突く張りの主人が営む宿ならば、数倍の宿賃を求められることも あるのだ。それに比べれば、通常の三割増程度で済んだとはいかにも安い。

「脅しちゃいねぇさ」

「嘘だ」

「俺が嘘なんか吐く悪党に見えるか? 先方から、三割で良いと言ってくれたんだよ」

それこそ疑わしいと青年は思ったが、片方の眉を吊り上げただけに止どめた。男は確かに、自分に 対し嘘を言ったことはないからだ。約束を破ったことも、ない。数年前の記憶を思い返して、 青年はまたくすりと笑った。男が目を眇める。

「さっきもそうだが、いったい何を笑ってたんだ?」

青年はくすぐったさを感じて、首の後ろをがりりと掻いた。引っ掻き傷になるからよせと、 男がいつものように見咎めるのも何かくすぐったいものがある。

「大したことじゃねぇよ。ちょっと、昔のこととか、さ」

そうか、と吐息のような返答があり、青年は手を左右に振って見せた。よせよ、という意味だ。 昔のことと言ったので、男はきっと青年が母のことを思い起こしていたと思ったに違いない。 それを軽い調子で否定して(母のことを想わない日はないので、特別どうのとはならない わけだ)、青年はにやりと笑って見せた。

「あんたと初めて遭ったときのことだよ」

「なんだ、そのことか。……また、懐かしいことを」

懐かしい。確かにそうだ。青年がこの男に出合った日から、ゆうに七年が経っている。もう 子どもとは言えぬ歳になった青年を、男が今でも子ども扱いをしたがるのはその所為だろう。 と言って、信頼されていないとは青年は思ってはいないが。
あれから七年だ。あの頃、青年は外見はもちろん内面も幼い子どもだった。優しく美しい母に 擁護され、慈しみと愛情にたっぷり包まれた日々を送っていた。その生活が終焉を迎えたとき、 彼は涙すら流さなかった。それはあまりにも唐突に過ぎて、哀しいという感情が心のどこかに 置き去りにされてしまったのだ。
涙を思い出した頃には、彼は一人の狩人として各地を流転していた。才能があったものらしく、 これまで失敗らしい失敗はしていない。その証拠に、彼はこれまで大怪我を負うことなく生き抜く ことが出来た。

べつに、いつ死のうとも構わないと思っているのだけれど。それは、誰に対しても口には 出さない。いかに信頼を置いている相手であっても。

「七年か」

男が感慨深げに呟いた。青年が狩人になるきっかけを与えてしまったと、男はずっと思い込んで いる。間違いではないので否定はしない青年だが、そればかりが理由ではないと説明することも なく。ただ、少しだけ微笑する。
親を喪い、頼るべき瀬を持たぬ青年は自らの力で生きていくことを選んだ。母が働いていた宿屋の 主人からは、雇ってやるという内容の話をされたものの、彼はそれを受け入れなかった。生まれ 育った町に、そのまま居続けることを彼はよしとはしなかったからだ。
故郷が嫌いなのではない。しかしあれ以来、青年は故郷の町を避け続けた。迎えてくれる者のない 町に、あえて足を運ぶ意味も理由も見出だせずにいるからだ。

思うところは、多少なりとあるものの。

胸の少し左へ、無意識に握った拳をあてた青年を、男はじっと見つめて言った。

「そいつは、何か意味があるのか?」

え、と青年。全くの無意識であった為、男が何を指して言ったものか判らない。男は呆れたように ため息を吐き、それだ、と彼の胸にあてられた手を指差した。

「よく見る仕種だと思ってな。俺の勘違いじゃあない筈だが」

訊いても良いかと問うてくる男へ、青年は胸へあてた自分の手を見つめどう答えたものか考え 込んでしまった。そう、しまった、のだ。軽く、癖だから気にするなと言えば良いだけのこと、 彼は左胸にあてた手に力を込め、言葉を失ってしまったのである。これでは、何もないとは 思われないだろう。誤魔化すには、もはや遅すぎる。

「ぁ……」

思いがけず細い声が出てしまって、青年はそれを自分の声とは思いたくなかった。ちらと、 男を見やる。そのさまが、まるで叱られた子どものようなそれだとは、無論彼は自覚していない。 男がごく僅かとはいえ、目を瞠ったことにも気付かないくらいなのだ。
上目遣いの視界に、男の腕がついとこちらへ伸びてくるのが映る。きょとんとしていると、 大きな手が頭にぽすりと乗せられた。それが、くしゃりと髪を掻く。

「……言いたくないんなら、もう訊かねぇよ」

逞しい腕に半ば隠れ、男がどんな表情をしているのかよく見えない。青年はきゅっと眉を寄せた。 男の気遣いを、素直に受け取るべきか疑いを抱くべきか、彼は判断しかねた。彼はまだ若いのだ。 (世間的には既に成人と呼ばれる歳ではあれども。)
男からはこちらの表情が見えるのか、ふっと男臭い顔に笑みを乗せたのが気配で判る。

「もう寝るか」

外はまだ明るい。仮眠する、という意味だ。彼らが行動をするのは夜間に限られる為、日のある うちに仮眠をとっておくのは基本中の基本だ。その為、狩人という人種は、いつどこでも五つ 数える間に眠ることが出来る。それが出来なければ狩人などという生業は続けていられない からだ。
眠気はまだうっすらともない青年も、目を瞑り眠ろうと思えばすぐに眠ってしまえる。狩人と しての経歴が彼よりもはるかに長い男などは、眠れないという感覚がそもそもないに違い なかった。男はふた呼吸する間に深い眠りに就くことが出来るのだそうだ。

「……ん、」

こく、と顎を引いた彼の頭を、男はくしゃくしゃにしてから腕を引いた。そのぬくもりが失せて いくのを、彼はいつになく寂しいと思ってしまっていることに気付き、慌てて顔を引き締めた。 男は気付かなかったのか気付かぬふりをしてくれたのか、長靴を脱ぎ、それだけでぎしりと軋む 寝台に脚を上げた。どこもかしこも逞しい男にとって、この粗末な寝台では寝返りを打つことすら 難しい。しかし文句の一つもこぼさない男に対し、自分ばかりぶつぶつ言うのはいかにも 餓鬼っぽいと我ながら思う。お前が言ってくれるから、俺は言わずに済んでるだけだ。男には そう言われ、じゃあと開き直っていた彼だけれども。

いつも、いつも。この男との差を感じずにはいられない。気にするなと、男が言うからこそ気に せぬわけにはいかぬのだ。

俺は俺、お前はお前だ。お前はそれで良いんだよ。

そう、優しく言ってくれたからこそ。

(あんたみたいに、なれたら)

諦観に近い憧憬を、彼はもうずっと、この男に対して抱いている。

「……なぁ、」

寝台に横たわった男は、もう既に眠ってしまっただろうか。眠ったならば、そのほうが都合が 良いかもしれない。今から口にしようとしている言葉は、面と向かって紡ぐには羞恥が勝ち すぎる。
眠っていろよ、と。念じるようにしながら、ぽつりと呟いた。

「ありがとう、グルー」

詮索しないでいてくれた、心優しい狩人。憧れてならない、父のようでも兄のようでもある 温かい男。彼が唯一、心から信頼している人間。しかし、そんな男にも。話せぬことが彼には ある。

「……、……ごめん」

囁きと、狭い寝台の上で男がどうにか寝返りを打ったのとはほとんど同時だった。青年は自分も また寝台へ潜り込み、頭まで薄っぺらな掛布をかぶっときつく瞼を瞑った。いつもならば、一、 二と数える間に飼い慣らした睡魔が彼を眠りへ誘うところを、今日は十も数えなければ ならなかった。
いつもの倍以上もかかって眠った青年の隣の寝台では、男が薄く目を開けちらと彼を見やった。 唇が微かに動いたようだが、何を呟いたのか、声が音として紡がれることはなく唇は閉ざされた。 ただ、彼を見つめる双眸がやけに寂しげであったのだが、眠ってしまった彼にそれを見ることは 叶わない。間もなく、そんな瞳も瞼に覆い隠された。





言えば、何かが変わるのだろうか。
そんな疑問(僅かな期待)を常に持ちながら、しかし彼は何も話せずに今日も眠る。陽が落ちれば 狩りが始まる。今度の狩り、その対象は手強いと言うから、愉しめるに違いない。
そうして、問題を先送りする。
話せるわけがない。そう、自分自身に言い訳をして。

胸の少し左を、押さえる。幼い頃に銀髪碧眼の少年によって刻まれた刻印が、その姿を変えること なくそこにある。すなわちあの“約束”も、消えてはいないということなだ。

あと一年――それを期待しているのか恐れているのか、自分でも判らない。子どもの頃は、 前者にばかり気持ちが傾いていたことは確かだけれども、けれども、だ。
出来ることなら、今この現状に変わらないでいてほしい。このまま、気ままな狩人として生きて いきたい。憧れてならぬ男の背を、いつまでも追っていたい。

一年後、すべては変わっているのだろう。そんな確信じみた想像が、彼の中には常に巣くって いて。
だから、だろうか。

夢の中で、彼は幼い頃の姿に立ち返り、誰かに手を引かれて深い森の中を歩く。森は暗い。しかし 歩みがゆるくなることはなく、彼はただ前を行く誰かの背を見つめている。それはかの銀色の 少年ではない。背が高すぎる。髪の色は暗くて判らず、しっかりと握られた手は程々に分厚く 大きい。誰、とその背中に問う。どこへ行くのかと。すると低く静かな声音が答えて曰く。

「おまえは知っている筈だ」

左胸、その奥を鷲掴みにされたような激痛が襲い、ぎくりとして飛び起きる――毎夜の、悪夢。





うなされていたらしい。目を開けると、グルーの顔が目の前にあって驚いた。

「っ、な」

「起きたか。酷いうなされようだったぞ」

毎度のように、とはグルーは言わなかった。あえて、だろうと彼には簡単に察せられた。 こうして夢にうなされて目を覚ますのは、本当に毎日のことなのだ。――故郷の町を離れてから だということに、気付くのにひと月もかからなかった。

「悪ぃ……起こしちまった?」

身を起こしながら謝れば、グルーはふっと肩を竦めた。

「いや、もう日暮れだ。もっと早く起こしてやるべきだったな」

済まないと、逆に謝られてしまって彼は気まずさに俯いた。そのうなだれた頭をくしゃりとされて、 行けるか、との声がかかる。無理はするなという優しさを首を左右にすることで拒んで、寝台の 脇に脱ぎ散らかした長靴を拾い上げる。甘やかされるのは嫌いではないが、それに凭れてしまう ことを彼は自身に許すことが出来なかった。

「……そうか」

同じく長靴に脚を通し始めた男から、彼は意図的に視線を逸らした。のろのろ、長靴の革紐を縛る。 もたもたしている彼を追い抜いたグルーが、先に立ち上がって手荷物を腰に巻き付けている。

「行けるか、トニー?」

再度問うて来た過保護な相棒へ、トニーはいつもの調子で切って返した。

「おいおい、俺を誰だと思ってんだ? とっとと行こうぜ」

手を左胸にやろうとするのを、トニーはどうにか堪えて銃を腰帯に突っ込んだ。



















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ダンテがおっきくなりました。唐突に。
子どもの頃の話と混ぜていきたいという希望。あくまで。
それにしても、私グルトニ好きすぎるような気がします。

[08/08/18]