陰極
軽率だったと、後悔をしてももう遅い。
宿へ戻ったグルーは、旅籠の番頭の不審げな視線を無視して二階の部屋へ引き取った。宿と
言っても、飯は出ない。それらは総て自分で賄わねばならず、どこの宿でも同じことだった。
狩人を名乗る者はどこの町でも忌避される。町にいるというのに野宿せずに済むだけましと
思わねばならぬと、グルーはいつも肩を竦める。宿があるのは、自分たちをここに押し込め、
監視する意味もあるのだということは知っている。これも、まぁ慣れだ。
手荷物の中から小さな瓶を取り出し、蓋を開け口へ持っていく。中身は濃度の高い酒だ。これの
為に荷物を増やすことはしたくないので、いつもほんの一合程度しか持ち歩いていない。しかも
安価な酒なので、味は誰もが顔をしかめるであろう悪さを誇っている。
グルーには、酒など飲めれば何でも構わなかった。無論、旨い酒は好きだ。しかし旨さに比例して
値も高くなる。その日暮しの狩人に、そんな贅沢は出来るわけもないというものだ。
すでに残り僅かな酒を、グルーは一気に煽って喉へ流し込んだ。瓶が空になったのを確かめ、
息を吐く。
この、孤立したと言って良い小さな町へ、グルーは初めて足を踏み入れた。かろうじて地図に
こそ載っているけれども、知らなければ目にも留めないような小さな小さな点でしかない。
そんな町でも、宿があるということはすなわち狩人らがここを訪れるということだ。
物好き、としかグルーには思えなかった。この町の存在を、知人から聞き知ったときの素直な
感想だ。誰が好き好んでそんな田舎へ行くのかと、甚だ疑問でもあった。それが、今はどうだ。
来て正解だったとすら、今のグルーは思っている。自分はこんなにも現金な性格だったかと、
嘲笑いたくもなるというものだ。
人間誰しも現金なところはある。話に聞いたときは興味すら持たなかった辺鄙な町へ、足を
向けたのもある種の現金さからだったのだから。
何もない、どこからどうみてもただの田舎町(邑と言っても差し支えない)に、妙な噂があると
いう話を、グルーの耳に入れたのは同業の男だった。ものを知る狩人にとれば、その噂は有名なの
だとか。しかし誰一人、噂の真相に行き着いたものはいないとも聞かされた。何故とグルーが
(当時は今よりもさらに若かった)問えば、知人はそこまでは判らないと肩を竦めて見せた。
つまりは噂ばかりが広がっていて、何も判っていないというのが本当のところらしかった。
その話を思い出し、行ってみようかと思ったのはつい先月のことだ。あの少年に言ったとおり、
本来目指している町への中継地点にこの田舎町が存在した。地図を眺め、そのことに気付かねば
件の噂を思い出すことはなかっただろう。堅実な狩人であるグルーは、嘘か真かも判らぬ話に
食いつく程、博打好きではない。
町には今日の午後、日没前に辿り着いた。門が閉まる、ほんの四半時前だった。(大抵の町は
日没と同じ刻限に門を閉じる。ここも例外ではなかったというわけだ。)想像していた以上には
興っていたものの、やはり田舎には違いない。噂の真相を突き止めようという意気込みがあった
わけでもないが、立ち寄ったからにはその片鱗でも覗いてみたい。純粋な好奇心から、グルーは
宿を取ったのち町へ繰り出したのだった。
夜更けに出歩くのは、もはや癖になっている。この時刻ならば、どこの家も皆きっちりと
戸締まりをし、眠っているので咎める目も少なくなる。人々に根付いた狩人への先入観は、
狼藉者の一言に尽きる。確かに乱暴な狩人は存在するし、忌避されるのは仕方がないと
判っていても、問題を起こすつもりもない者からすればやり切れぬ扱いだ。
(まぁ、好きで狩人になった俺も俺だが)
グルーは内心で独りごち、粗末な寝台に寝転んだ。いちいちぎしぎしと煩いが、文句は言え
ない。
夜更けの散歩は、当然ながら人とすれ違うことすらまずない。それが今夜に限って違っていた。
グルーが出合ったのは、まだ十にもならぬだろう、幼い子どもだった。
素直に、驚いた。親に黙って抜け出したことは聞かずとも判った。グルーが声を掛けると、
少年――――初めは少女かと思ったが――――は小さな躰をいっそう縮こまらせて、怯えた目で
見上げてきた。当然といえば当然だが、少年はグルーが狩人であることを知ると、途端に瞳を
輝かせたものだから、また驚いた。挙句の果てに、また会いたい、などと言い出すとは、
予想だにしていなかった。
そこで、うんと言ってしまった自分も、どうかしていたと今となって思う。きらきらと輝く双眸に
上目遣いに見つめられて――――泣かれそうになって、気が動転した。
明日、同じ時刻に。
グルーと約束を取り付けた少年は、心底嬉しそうに破顔した。その表情を、グルーは忘れられ
ない。そんな趣味は、自分にはない筈なのだけれども。しかし彼にかかれば、きっと皆同じように
なるに違いなかった。あの少年には、人を惹きつける何かがある。
だからと言って、年端もいかぬ少年に、連夜家を抜け出させるというのは褒められたことではない。
彼の親が気付けば、それこそ大騒ぎになる。騒ぎになるだけならまだしも、彼が折檻される可能性も
あるのだ。それはいかにも拙い。
グルーは右肩に手をやり、深いため息を吐いた。約束は約束だ。明日の夜更けに、グルーは違えず
彼に会いに行く。それで、彼との関係は終わる。明後日の夜明けには、グルーはこの町を経つの
だから。
惜しい、と。そう思っていることを自覚しながらも知らぬふりをする。少し言葉を交わしただけの
少年に、何故こうも執心してしまうのか、グルーには判らない。ただ、
(明日は、名を訊こう)
そう決めて目を閉じる。名を訊きそびれたことに気付いたのは、少年と別れた直後だった。
しまったと思ったが、踵を返すことは躊躇われそのまま宿へ向かった。ひどく眠そうにしていた
少年を、これ以上引き止めることはしたくなかったのだ。
日没から行動を開始すると言っても、出来ることなどたかが知れている。
昼過ぎまで眠っていたグルーは、陽が落ちると同時に宿を出た。番頭が何か言いたそうにしていた
が、いつものことなので気にも留めない。あからさまな冷遇や侮蔑はどこに行っても同じこと。
唯一の例外は、元は狩人だった人々が作ったという町だけだ。
狩人が人々から忌避される所以は、金に汚いことと常に血なまぐささが伴う所為であろう。一種、
大昔からの慣習となっているだけに、本来の意味は忘れられて久しいが。
グルーの目的は、町を包むように広がる森にある。例の噂はこの森にまつわるものなのだ。
しかし真直ぐに森へ向かうべきグルーの足は、森を横目に見ながら全く別な場所へと歩を
進めている。
大通りを外れれば、もはや月明りだけが頼りという暗さだ。家並みは途切れ途切れで、窓から
漏れ出る光はあまりに儚い。
この町で生まれ、この町で死んでいくものは多いに違いない。それはここに限ったことではなく、
狩ないし旅を生業にする者を除けば、人生とはそういうものなのだ。ある種閉鎖された空間だけが、
彼らの世界であり総てである。グルーは自分の故郷というものを知らぬが、おそらく例外では
ないのだろう。そんな人生はさぞかし退屈で、いかにも仕合わせだとグルーは思う。
あの少年も、この町で生を全うするのだろうか。きっとそうに違いないが、勿体ないようにも、
思う。彼の瞳の輝きは、こんな辺鄙な町で終わらせるにはいかにも惜しい。かと言って、狩人に
なるよう誘うことは躊躇せねばならぬグルーだ。
子どもの仕合わせを願うならば、狩人になどならせてはいけない。
彼の将来を決めるのは、彼自身だ。狩人は世襲の慣習を持たぬ。だからこそ、こういった発想を
ごく自然にすることが出来るのだとは、グルーは気付いていない。通常、子の将来を決めるのは
その親であり、子自身がこれと決めることはないからだ。
月に照らされ浮かんだ己の暗い影を、グルーは追いかけるように足を進める。この方角には、
あの少年の家がある。町の中心からはしばらく外れているものの、グルーの脚力にすれば僅かな
距離でしかない。それが、こちらに向かっている理由かと言えば、全くそうではないのだ
けれども。
長く狩人なぞしていると、人間としての何かを忘れてしまいそうになる。常に孤独と寄り添い
生きねばならぬ身では、それも仕様のないことではあるが、ただでさえ誰からも忌み嫌われるの
だから、正常な神経でいられるわけがない。
耐え兼ね、伴侶を得た者も中にはいた。しかし長続きをした者をグルーは見たことがない。
大抵、女(狩人は九割九分が男だ)が離縁を求める。耐えられぬのだ。狩人の伴侶というだけで
忌み嫌われることが、耐え難い苦痛となり最悪自殺する女もいる。
狩人となるからには、並大抵の覚悟では足りない。グルーはその覚悟をしたかと言えば、
いまいち曖昧なところであった。だから時折、疲れてしまう。孤独に。己に。この命に。
あの少年の笑顔は、疲れ切ったグルーの心に鮮やかな色を残した。久しく忘れていた
色――――軽率と判りながらも少年との約束を結んだ理由は、グルー自身が、もう一度彼の笑顔を
見たいと思ってしまったこと。
少年の家が視界に入った。思った以上に小さいその家に、彼は暮らしている。
(さすがにまだ、灯があるな)
ぼんやりとした明かりが、窓から漏れている。彼との約束の時刻までは、まだ数刻はある。
彼が家を抜け出すには、まず彼の親が寝静まらねばならないから、やはり時間はまだたっぷり
余っている。
グルーは一つ肩を竦め、踵を返した。ここで立ち尽くして時間を潰すわけにはいかない。
いちおうとはいえ、グルーには目的があるのだから。
少年の家から、今度こそ森へと足を向ける。闇を孕んだ森は暗く、不気味な印象が色濃いが、
森など夜になれば皆こんなものだ。
グルーは腰に帯びた短銃を右手で確かめ、かの噂を辿りに森へと入った。
狩りの仕事はそのほとんどが夜に行われる。標的となる獣は夜行性のものが多く、それを狩ろうと
思えば当然ながら人も夜更けに動かねばならない。その為、狩りを生業にする人間は当たり前の
ように夜目が効く。グルーもそうだ。
静かな、森。
それが第一の印象である。静かすぎる。獣の気配すら感じられぬのだから、異様と言っても
過言ではない。今が昼ならば、獣も身を潜めているのだろうと思えもするが、あいにく今は夜に
違いなく、木々の合間から弱々しく射し込む光は月のそれだ。獣が動き回る時刻の筈が、何も
いないとはどういうことか。
グルーは件の噂の内容を頭の中で反芻した。尋常ならざるこの状況は、確かに噂の一部である。
(だが、立証した人間はいねぇってのが、な)
噂はただの噂としてしか伝わってはいない。グルーに話して聞かせた知人とて、実際この森を
訪ねたという者の話は知らぬと言いきったのだ。ただの辺鄙な田舎町を包む変哲のない森だと
いうのに、何故か――――それこそを、グルーは確かめたいと思っている。
風に吹かれた葉がかさりと擦れ合う音。自然の奏でる楽曲にすら、何か嘘寒いものを感じずには
おれない。こんなものは、どこの森を歩いても同じである筈なのだが。
どれ程森を歩いたか、グルーは一本の木に目を留め、そこに立ち止まった。太い幹に掌をあてる。
乾いた樹皮の感触に奇妙な点はない。するすると幹を撫ぜつつ、グルーは腰を屈めた。根元の形を
確かめるように撫で、つと目を細める。
(これは……?)
月明りと夜目を頼りにしただけでは目視は難しいが、指先が木の表皮とは別の感触を伝えている。
何かの紋様が、木に直接彫り込まれているようだが、判然とはしない。
ランプを灯すかどうか、グルーは迷った。夜更けに行動を取ることの多い身である為、携帯用の
小さなランプの常備は当たり前だった。無論、火種も。
腰にぶら下げた革袋から、ランプを取り出そうとやった手を、不意に止めた。ごく自然に息を
潜める。経験から来る条件反射と言って良かった。何か(獣?)の気配を膚で感じたのだ。
(出たか、)
森の長と呼べる獣があちらから出て来てくれるならば、願ってもないことだ。それを仕留めれば、
報酬も安くはないに違いない。何と言っても、妙な噂のある森なのだから。
音もなく腰の短銃を引き抜きその重みを掌で確かめる。使い慣れた銃はしっとりとして、
心地好くすらある。
それは、背後数間の茂みにいるとグルーは読んだ。銃の射程距離から、僅かに外れていることが
“それ”の知恵の高さを表わしている。ここから撃っても、致命傷は負わせられないだろう。
さて、どうするか。内心で呟いたとき、グルーは全く別の気配を察して目を見開いた。
がさがさと茂みが揺れ、ひょこりと顔を覗かせたのは夜目にも眩しい銀色の髪――――昨晩
出合った小さな少年だ。
「な、」
思わずもらした声に気付き、少年がこちらを見やる。大きな瞳が瞬きし、次いでぱちっと花が
咲くように破顔した。
「おじちゃん!」
まだ三十を前にした若い男におじちゃんとは何ごとか、とはグルーは言わない。そんなことは
元より気にしないたちであるし、今はそれどころではないということが大きな理由だった。
「何でこんなとこに……お前ひとりか?」
駆け寄って来た子どもに問えば、こくんと頷く銀の頭。絶句するグルーに、無垢な子どもは頬を
紅潮させて言葉を紡ぐ。
「うちに来てたでしょ? まどから見えたから、ぼく、」
追って来た、というのだろうか。グルーと合流出来たことを純粋に喜ぶ少年を、グルーは
ともかくも抱き上げた。急に景色が変わって、少年がわっと声を上げる。
「話は後だ。とにかく、戻るぞ。振り落とされるなよ」
銃を構えたまま、駆け出したグルーの首に少年が慌ててしがみつく。子どものあたたかい体温に、
躰のどこかが疼いた気がしたが、そんなものにかまけている猶予はない。
幸いにも“それ”は、グルーらを追って来ることはなかった。かえって不気味ではあったが、
少年の無事を考えればやはり幸いなことである。
グルーは少年を怯えさせぬよう、森から抜ける前に銃をしまった。背後で何かの声を聴いた気が
したが、ぎゅっとしがみつく少年を抱き返してやることのほうが、グルーにとっては
大事だった。
おじちゃん呼びに何か萌を感じるのであえて。
[08/06/19]